双頭の禿鷹
夜の森は、嫌いじゃない。
嫌いじゃないが──血の匂いだけは、どうにも馴染まない。
霧が低く這って、土が濡れている。足音は殺せるが、痕は残る。
その痕を辿って追うのが、今夜の俺の仕事だ。
木の上で羽音。
大きな鳥が一羽、はばたく。
……禿鷹だろうか。縁起がいいのか悪いのか、どっちなんだろうな。
少し先、森を裂くように走る複数の気配。
盗賊だ。逃げ足はそこそこ。だが隊列が乱れている。追われ慣れてる連中の乱れ方だ。
隊列の最後で、一人分の足取りが意図的に遅れた。
殿。
自分が残って仲間を逃がす役。
そういう奴がいる団は、潰れにくい。
──潰れにくいだけで、綺麗に生きられるとは限らないが。
男が振り返る。剣を構えた。
手に馴染んだ構えだ。迷いが少ない。
……いや、迷いを押し殺す癖がある。
俺は森の影から出る。
できるだけ音を立てず、できるだけ堂々と。
「おまえ一人か」
男が小さく息を吐く。
盗賊団『禿鷹の団』。
名前だけは聞いたことがある。人を殺すより物を盗む。だが、殺しを避ける盗賊も、いずれ血で濡れる。逃げ道が狭くなるからだ。
男は踏み込んできた。
時間稼ぎの踏み込み。刃がぶつかる。重い。
悪くない。腕もある。
問題は──その腕をどこに向けてるか、だ。
俺は双剣を合わせない。片方で受けて、もう片方で〝次〟を置く。
受ける剣と、脅す剣。
二本あるだけで間合いは崩れる。崩れた瞬間、相手の癖が顔を出す。
男は守る。
斬るより先に、守る。
殿役の癖だ。
俺は半歩下がって、逆の刃で脇腹を撫でる。浅く。
痛みは残すが、動きは殺しきらない。逃げる足を奪うほどではない。
削る。呼吸を乱す。視界を狭める。
──殺す気か、って顔だな。
殺すなら、最初の一合で終わってる。
だが俺は、剣を売っているだけで、命を買ってるわけじゃない。
男は下がらない。下がれない。
仲間がまだ近いのが分かっているからだ。
俺はさらに絡め取る。弾く。逸らす。
足元を払う。
男が膝をついた。
呼吸が乱れた。だが、目はまだ死んでいない。
──俺は刃を振り下ろさない。
代わりに、少しだけ観察する。
森の奥に、逃げた連中の気配がまだ残っている。
実際の距離より、男の意識がそちらに引っ張られた。
その瞬間──男の剣が、一瞬、軽くなった。
こういうのは癖で分かる。
踏み込みが一拍遅れる。
目が〝俺〟じゃなく、〝逃げ道〟を見た。
逃げる。
いや、逃げかけた。
俺は口角を上げる。こういうとき真顔でいるのは性に合わない。
「……今の、逃げる算段だったろ」
男の喉が鳴った。
図星だ。
「剣が軽くなった。あれだ。森に走り込む隙間が見えた顔」
冗談めかした声音にしてやる。
その方が、刺さる。
男は何か言い返そうとして──言葉を飲む。
言い訳を探した顔だ。
だがすぐに、自分でそれを噛み殺した。
いい顔だな。嫌いじゃない。
「……気づいたのか」
「気づくさ。双剣だぞ、伊達じゃねえ」
「……お前が〝双剣のダイン〟か」
俺は肩をすくめる。
「逃げるのが悪いとは言わねえ。生き延びる判断ってのは大体そっちだ」
軽口のまま、目だけは外さない。
「でもよ。簡単に逃げる奴は、剣を下げる」
男の剣は、俺にまっすぐ向けられている。
剣を握る指が、ほんの少し震えていた。
「……あんたは、迷ったまま踏ん張った」
それが答えだ。
善人じゃない。英雄でもない。
だが、完全な臆病者でもない。
俺は剣を鞘に納める。
「ここまでだ。追えば全員やれるが……今日は腹は減ってない」
そう言って背を向ける。
冗談みたいに言ったが、冗談じゃない。
逃がせば、俺の腹は満たされない。
しかし追えば、この団は、この男は終わる。
……それに。
こいつの目が、昔の俺に似ていた。
勝って引く。
仕事を捨てる。
俺は森の奥へ歩きながら、舌打ちした。
相変わらず、面倒な方を選ぶ癖が抜けない。
背後で、男が立ち上がる気配。
追っては来ない。追える足じゃない。賢い。
少し歩いて、立ち止まる。
霧が薄くなってきた。夜明けが近い。
俺は自分の掌を見た。
剣の柄の感触が残っている。
守るってのは、剣より重い。
分かってる。分かってるから、独りでやってきた。
……なのにな。
少しして、背後から声が飛んできた。
「ダイン!」
そら、面倒が来た。
俺は振り返らずに返す。
「まだ何かあるのか? 説教なら有料だぞ」
森の中の空気が揺れる。
複数の気配。団ごと戻ってきたらしい。
盗賊にしては肝が据わってる。
それとも、追い詰められてるだけか。
足音が近づく。
さっきの殿役──ハマン、か。名前を仲間が呼んでる。
「俺たちの頭をやらないか」
俺は思わず振り返った。
「……は?」
声が裏返ったのを自覚して、咳払いで誤魔化す。
「いや待て待て。俺、そういうの向いてねえって言わなかったか?」
「言ってない」
「じゃあ、今言った」
「それでもだ」
ハマンは剣を下ろした。
敵に向ける剣じゃない。頼むための剣……
こいつ、さっき〝逃げかけた〟のに、今は逃げない顔をしてやがる。
腹が立つ。羨ましい。どっちもだ。
「俺は、後ろを守る役しかできない。前を向くのは……あんたの方が向いてる」
周りの連中が息を呑む。
盗賊団の仲間に向ける言葉じゃない。
だが、こういう言葉が出るときは、たいてい本気だ。
俺は頭を掻く。
「……盗賊稼業をやる気はねえ」
「もう盗みはやらん。足を洗う」
簡単に言う。
簡単に言えるほど、簡単じゃないのにな。
俺はわざと軽く笑う。
「へえ。言うじゃねえか。で、食い扶持は?」
「傭兵団として使ってくれ」
「俺は独りで雇われる方が性に合ってる」
それは本音だ。
独りなら、誰も背負わずに済む。
誰も死なせずに済む──と、言い訳できる。
ハマンは一歩前に出た。
「それでもだ」
その目が、さっきより真っ直ぐだ。
痛いくらいに。
「……他人を守りきれるほど、俺は器用じゃない」
俺がそう言うと、ハマンは頷いた。
「分かってる」
分かってる?
こいつが?
さっき逃げかけた男が?
ハマンは大きく息を飲み込み、それから言った。
「なら、俺が後ろを守る」
……ああ、そう来たか。
「団を率いるのは一人でいい。だが、団を生かすのは一人じゃできない」
言葉が、変に上手い奴だ。
さっきまでの盗賊の顔じゃない。
俺は黙る。
黙るしかない。
〝守れなかった夜〟の匂いが、あいつからした。
俺にもある。だから分かる。
こいつは、ここで折れたら、一生自分を許せない。
長い沈黙のあと、俺は息を吐いた。
軽口で誤魔化すのも、もう限界だ。
「……後悔しても、逃げ場はないぜ」
「逃げるなら、最初から頼まない」
ハマンの声は震えていた。
震えていて、なお踏ん張っている。
俺は鞘に納めた剣を見る。
斬れば終わる。
仕事としては完璧だ。
だが、終わった後に残るものは決まっている。
金と、死人と、独り分の影──
──割に合わない。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
音が森に響く。夜明け前の森は、音がよく通る。
「……分かった。俺が頭だ」
仲間たちがざわつく。
当たり前だ。俺だってざわついてる。
だが、もう戻れない。
戻る気も、ない。
────
その夜、俺たちは名を変えた。
名前なんて飾りだ。だが飾りがあると、人は踏ん張れる。
誰かが「禿鷹は死肉を漁る鳥だ」と呟いた。
盗賊団らしい自嘲だ。
俺は笑ってやる。
「双頭の禿鷹なら……多少はマシだろ」
乾いた空気が、少しだけ和らぐ。
誰かが吹き出し、誰かが肩の力を抜いた。
いい。そういうのが必要だ。
重いものを背負うなら、なおさら。
双頭のそれは、命を与えもするという伝説。
……こいつらは知らないだろうがな。
「今日から『禿鷹の傭兵団』だ。旗を作る」
反対は出ない。
反対が出る空気があるなら、まだ盗賊を続けてるだろう。
俺は歩き出す。
団の先頭に立つでもなく、振り返りもしない。
振り返ったら、逃げる道が見えるからだ。
見えたら、きっと、楽な方へ寄ってしまう。
背中に気配が重なる。
ハマンだ。あいつは後ろに立つ。約束通り。
夜明けの森を、俺たちは並んで抜けていく。
もう、逃げるためじゃない。
禿鷹の傭兵団は──
──逃げ場を捨てた夜から始まった。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
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また、こちらは長編『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』のスピンオフでもあります。
世界観など気に入ってくださるようでしたら、ぜひ長編本編や、他の短編も覗いてみてくださいませ。




