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ハルの歌

作者: 透明スケ

 またこの季節がやってくる。


 去年の春、右も左も分からないまま不安と希望と共に入学式を迎えた、あの日の匂い。

 桜や梅の桃色、新たな年度を迎えることに期待を膨らませる人々の、幸せそうな声。

 そして、独特な向きにさらさらと吹くそよ風を身体で受け、春の訪れを実感する。


 あぁ、春の匂いがする。



 私には、気になっている人がいる。


 入学してすぐだった。クラスに馴染めずに、放課後の教室でしょんぼりしていたあの春の日。

 突然、かすかにあの音が耳に入ったのだ。


 ピアノの音────


 私は小さい頃から耳が良かった。

 校舎内でも、誰かが弾いているピアノの音は特に、一音も聞き漏らさないくらいだ。


 そして、この音も。

 もしかすると、校舎内どころか、近くの民家のピアノの音かもしれない。

 そんな可能性があったにも関わらず、私の足は、優しい音色に誘われるように音楽室へと運ばれて行った。


 メンデルスゾーンの、『春の歌』────。


 春の昼下がりの、穏やかな風景が自然と頭に浮かぶ。

 清らかな水がさらりと流れるような、美しいリズムのメロディ……。


 そっとピアノに座っている子に目をやると、それを弾いていたのは、凛々しい表情で柔らかく手を動かしている、男の子だった。


 ピアノの上手さと、男の子の異様な雰囲気に、夢現(ゆめうつつ)でマジマジと見ていたら、男の子は私に気付き、演奏の手を止めた。

「んっ?」

 まずい、目が合った。

 覗き見なんて、高校一年生にもなって恥ずかしすぎることだ。


「君、この曲を知っているの……?」

「メンデルスゾーンの、『春の歌』……?」


 これが、彼と私の初めての出会いだ。



 彼の名前は、(ハル)



 あれから私とハルは、音楽室の仲間として、少し親しくなった。

 お互い部活に入部していないこともあって、放課後にたまに音楽室に通い、演奏を聴いた。


(たき)廉太郎(れんたろう)の、『花』」

「私、上手く歌えないよ」

「でも大丈夫。今、俺たちしかいないから」


 彼の言葉にドキッとした。こんなにも青春めいたセリフを、アニメ以外で聞くことができるなんて。

 そして、彼の言葉に押されるがまま、『花』を歌った。


 この曲には小さな思い出がある。

 中学生三年生の最後の期末試験の音楽のテストで、滝廉太郎の『花』を『春』と書いてしまい、それだけで満点を逃したのだ。

 そのときは、悔しさもあったけれど、だんだん日が経つにつれて、逆に面白く思えて、卒業後の春の日に腹がよじれるほど笑ったのも今ではいい思い出だ。


 そんな思いもあって、今までで一番本気で歌った。歌唱テストのレベルを超えた演奏を、ハルと盛大に作り上げた。


 あぁ、歌うってこんなに気持ちいいんだ。



 ハルとの出会いから月日が経ち、三年生が先日卒業して、私たちは四月から新二年生となる。


 二月の初め頃に、『春よ、来い』のピアノの演奏を聴いてから、久しく彼に会っていなかった。

 二年生になって、同じクラスになって話す機会が増えたらいいな、と頼りない祈りを捧げていたが、それが本当になってしまった。


 そして運良く偶然が重なり、ハルの席は、私の隣であった。

 ついに、『休み時間や授業とかで、話せる!』と思っていたのに……。


寝てるー!!


 ハルは授業も休み時間も全て寝て過ごしていた。

 たまに、英語の教師に注意をされ起こされて、ノートを取り始めるのだが……。


 そのノートには、音符が一面並んでいるだけで、彼は、全くもって授業に集中していなかった。

(ハルって、作曲もしてるんだ……)


「さすがに、ノートを取った方がいいんじゃないかな……?」

「音符は英語で『note』っていうんだよ」

「そ、そうなんだ……。知らなかった」


 私は、愛想(あいそ)笑いしかできなかった。

 授業ではこんな調子で不真面目なキャラクターのハルが、放課後になると激しくピアノを弾いているなんて、本当に信じられない。



 そんなある日の放課後────


 生き生きとした音が聞こえる……。

 この音は、アントニオ・ヴィヴァルディの、『春』だ。

 春になったばかりの、清浄明潔(せいじょうめいけつ)さを感じさせるようなメロディに、心を奪われていく。

 しかも、ピアノの音では無い。まさしく、三年間聴いてきたヴァイオリンの音だ。


 それが聴こえてくるのは、いつもの音楽室。

 そして、ヴァイオリンを弾いていたのは、あのハルであった。


「ヴァイオリンも弾けるの……!?」

「君もでしょ」

「な、なんで知ってるの?」


 私は中学生の頃、オーケストラ部に入部してヴァイオリンを三年間弾いた。

 高校に入っても、オーケストラ部でヴァイオリンを弾きたいと思っていた。


 けれども、入学してすぐに、オーケストラへの自信や意欲を()くしてしまい、ヴァイオリンを辞めてしまっていた。


「左手の中指の指先、皮がタコになってるように見えたから」

「よく気が付くね……。そう、私、中学の頃部活でヴァイオリン弾いてた。」


 ヴァイオリンの弦を抑えるため、左手の指先は皮がむけやすい。入学する直前までヴァイオリンを引いてたこともあって、左手の中指の皮がむけそうになっていた。


「ヴァイオリン、弾いてよ。俺がピアノ合わせるからさ。ヴィヴァルディの『春』、弾けるでしょ?」

「えぇっ、私、自信ないし失敗すると思うから……」

「でも大丈夫。失敗しても良いよ。俺のヴァイオリンだし、そいつはミスに慣れているヴァイオリンだから」


 それは、半分冗談なのだろう。

 でも、私にとっては背中を強く押してくれる言葉だった。

 あれだけ自信を失っていた自分が情けなく思えるくらいに、彼の言葉に押されて、今はヴァイオリンが弾きたくなったのだ。


 そして、緊張が(ほど)けないまま、私たちは『春』の演奏をした。


 彼のヴァイオリンは、私が弾いてきたものと違って、音に重みがあった。

 特に、黒雲(くろくも)稲妻(いなずま)を表現するソネットでは、力強い音が音楽室内に印象強く響き、音楽室一体が、ヴィヴァルディが生きていた時代の春の風景に飛ばされたかのように感じた。


 ヴァイオリンを辞めていた頃の自分が情けなく感じられるくらい、夢中になって弾いてしまっていた。

 つい最近まで無縁になろうとしていたヴァイオリンが、たった一人の男の子の言葉でここまで美しいものだと気付けるとは思ってもいなかった。

 



「凄かった! やっぱり君ヴァイオリン上手いね」

「こんなに楽しく演奏できたのいつぶりだろう……」

「最高の演奏だったよ! またやろうな」


 ハルは今までで一番の笑顔を見せて手を振り、早足で音楽室をあとにした。



 あれから家でヴァイオリンを猛練習した。

 家族からは、『またやる気になったのね』と安心したような声でほっとされたが、ちょっぴり気まずかった。

 でも、それ以上にハルとの演奏が耳から離れず、私のモチベーションを(たかぶ)らせた。



 今日も音楽室にハルはいるはずだ。


 私はオーケストラ部に所属していないのにも関わらずヴァイオリンを持参して、音楽室へと向かった。

 今日は、メンデルスゾーンの『春の歌』を、ハルのピアノに合わせてヴァイオリンで演奏しようと思い、ヴァイオリンを家から持ってきたのだ。

 ハルがいつものようにピアノの椅子に座っていることを期待しながら、音楽室に着いた。


 しかし、彼はそこに居なかった。

 教室にはいたはずだ。なにか用があって、先に学校を出てしまっているのだろうか。

 私はがっかりしながら自教室に戻り、ヴァイオリンを置いて帰宅の準備をした。


 校門を出ようとしたとき、見覚えのある二人が前を歩いていることに気が付いた。


 ハルと、高校のオーケストラ部の部長に最近務め始めたという女子。


「嘘……」

 全くの無意識に、自然と声が漏れてしまった。


 あの女子は、ハルにくっつくようにして歩いていて、明らかに気を引こうとしているのが分かった。


 彼女は、私と同じ中学で同じオーケストラ部だった。

 そして、私が高校に入ってヴァイオリンをやめようと思った原因の一つだ。


 中学生の頃は普通の部活仲間だったのに、高校に入学してから態度は一変した。

 入学してすぐ、オーケストラ部に誘おうと思ったが、『あなたのいるオーケストラ部なんて入りたくない。なんでいるのよ』と、存在を否定されてしまったのだ。


 自分の駄目さをヴァイオリンのせいにしたくはなかった。

 それでも、自信を失っては不安と焦りが私にヴァイオリンを弾くことを妨げた。


 

 彼女のせいで私は一時的にヴァイオリンを辞めていたけれど、今は違う。

 当時は(おび)えて過ごす毎日だったけれど、今はもう、ヴァイオリンを辞めた理由にしたくないのだ。


 いっその事、勇気を出して彼女に当たり、全ての思いを吐いてやりたいと思ったのに。

 なのに……。


 身体が思うように前に進まない。視界もぐにゃぐにゃ滲んで見える。


 あぁ、私泣いているんだ。


 二人が前を素早く歩いている訳では全く無いのに、足が重くて追い付けない。

 涙で(にじ)んだ目で足元を見ると、去年の卑劣な形相(ぎょうそう)をした彼女が、私の足を引きずるように掴んで離さないでいた。

 もう嫌だ……、やっぱり、私は駄目なんだ。

 ハルだって、(みじ)めなヴァイオリンの音より、オーケストラ部の部長の華やかなヴァイオリンの音を聴きたいと思うのだろう。


 恐怖でその場にうずくまって泣いてしまった。



 それからというものの、ハルのいる音楽室に向かうことはなくなった。

 時々彼のものと思われるピアノの音が耳に入ってくるが、一緒にヴァイオリンの音も聞こえてきたように感じたため、音楽室へ行く気には全くなれなかった。


 ハルは相変わらず授業中はぐっすりだ。もう私のことなんて覚えていないかもしれない。

 私も、授業中に彼を意識することはほとんどなくなっていった。



 そのようなことが半年近く続き、学校に置いたままのヴァイオリンをそろそろ持ち帰ろうとした初春(はつはる)の日の放課後のことだ。

 ヴァイオリンのケースに紙が挟まれている。

 私はこれ以上期待しまいと、やるせなく紙を手に取って開いた。


『また演奏しようよ』


 紙の右下に八分音符のマークが描かれていた。

 見間違えるはずがない。ハルのノートに埋め尽くされるように描いてあった音符だ。


 八分音符が引き金となって蘇らせたのだろうか、ハルとの思い出が、脳内を駆け巡る。

 その瞬間、手紙の文字をそのまま読んだようなハルの声が脳内に響くと同時に、音楽室から聞き覚えのある前奏のメロディが聞こえてきた。


 メンデルスゾーンの、『春の歌』だ。


 私は、ヴァイオリンのケースを掴み、他のことを一切考えずに音楽室へ直行した。



 音楽室に着いたが、やはりハルの姿はそこにはなかった。

 やっぱり駄目じゃん。結局ハルは、私の事をなんとも思っていなかったんだ。


 また、目の奥が熱くなっていく。

 私なんて、ヴァイオリンが好きでも、オーケストラ部から逃げている臆病(おくびょう)(もの)でしかないのだ。

 ハルにはずば抜けた音楽の才能があるから、私みたいな凡人とは釣り合わない。

 さっきの『春の歌』も、幻聴だ。私には演奏できないと嘲るように、神が脳内に流したに違いない。



 弾かれていない『春の歌』が頭に流れてきたのも、

 滝廉太郎の『花』を『春』と書き間違えたのも、


 私がヴァイオリンをまた始められたのも、

 私が音楽をまた好きになれたのも、



「全部、ハルが好きだったからなんだ…………ッ」


「それ、嬉しい方の意味で受け取っておくよ」



 突然、後ろからぎゅっと抱かれて、耳元で(ささや)かれた。

 涙で視界が滲んで何も見えなくなった。

 驚きでいっぱいで、振り向く余裕もなかった。


 そっと心を撫でてくれるかのような優しい声。ハルだ。


「ハル……、私、声漏れてた……?」

「うん……。でも俺嬉しかったよ……。ここに、戻ってきてくれたこと……」

「ごめんね……、今まで()()ない態度取ってて」

「あのオーケストラ部の子のことでしょ。分かるよ。でも大丈夫。俺はお前のことが好きだから」


 そう言いながらハルは、私を強引に振り向かせ、正面からぎゅっとハグをしてきた。

 互いの心臓の高鳴りが、身体全体に響くように伝わる。


「『春の歌』、弾こうよ」

「うん! ありがとう……!」


 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を落ち着かせ、ヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出した。

 ハルの前で自分のヴァイオリンを弾くのは初めてだ。


「凄い……、めちゃくちゃかっこいいヴァイオリンだね」

「私のヴァイオリンは、(くじ)けてもまた立ち直るのに慣れているの」


 そして、私たちはメンデルスゾーンの『春の歌』を、盛大に演奏した。

 ハルのピアノは、初めて聴いたあのときよりもアレンジされていて、柔らかく包み込むような優しい音色が、私を『春の歌』の情景に引き込ませた。


 元々、メンデルスゾーンの『春の歌』は、ピアノ独奏曲であるため、ヴァイオリンで演奏されることは想定されていないメロディである。

 だが、ハルは私がヴァイオリンでメロディを弾くのを分かっていたかのように、歩調を合わせるように、伴奏を優しく弾いてくれた。


 これこそ、彼自身の想いが、感性が、優しさが詰まった、『ハルの歌』なのだ。


 演奏が終盤に近付くにつれ、止めたはずの涙がまた溢れ出した。

 ハルの音楽の表現、包み込むような優しさ、今までの思い出によって、ハルへの気持ちが込み上げて来たからだ。


 だいぶ遅くなったけれど。


 ハル、私も大好きだよ。


「演奏中は反則でしょ」


 また私の想いは呟きとなって聞こえてしまったのだろうか。彼は珍しく顔を赤らめ、照れ隠しをするように目を逸らした。


 あぁ、終わってしまう。ハルとひとつになったように音を共有する時間が。


 少しずつ、曲の速度が緩まっていく……。

 海に優しく注がれ流れを失う清らかな川のように。

 泡沫(うたかた)がゆらり揺れながら浮いてくるような、柔らかな音を最後に、曲は締まった。



「ありがとう。ハルに会えて人生が変わった。本当に、本当にありがとう!」

「こちらこそ。あの時から、一緒に演奏してくれて、本当に嬉しかった」

「ハル」


 もう逃げないと決めた。ここで気持ちをちゃんと伝えたいんだ。


「いや、俺から言うよ」

「えっ?」

「俺と、付き合ってください」

「もちろんです……! どうしよう、嬉しすぎて言葉が出ないよ……!」


 心臓の高鳴りが先程を上回るほど加速していく。それはハルも同じなようだ。


「ずっと、俺のパートナーとして、一緒に演奏をしてほしい」

「喜んで。私もハルと演奏できるのすっごく嬉しいから!」

「うん、これからずっとね。最終楽章のその先まで……」

「ふふっ、そのぎこちない言い方はなに……?」


 そしてハルは、いつものように最高の笑顔を見せてから、音楽室を出ていった。

 もう少し一緒にいたかったけれど、今は幸せでいっぱいだから。

 自分のヴァイオリンをぎゅっと抱きしめて、軽やかな足で私も学校をあとにした。




 私とハルは、その後もずっと、ピアノとヴァイオリンのデュエット演奏を続けた。

 たまに、二人でヴァイオリンを合わせてみたり、ピアノの連弾に挑戦してみたり……。


 ハルに出会ってからの思い出は、玉のように一つ一つが輝いて心に刻まれる。

 そして、それは生涯忘れない結晶となるのだ。


 ハルと紡いできた思い出を、そしてこれから訪れるであろう輝かしい日々を。


 私は、決して忘れることは無いだろう。



 最終楽章のその先まで……



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