18 これはまずい
昨日は、よく寝られなかった。
(気まずい……)
着替えをした後の朝食の席でも、いつもなら多少の会話はあるというのに本日はほぼ無言だ。
エイシャは何も言えないし、向かいに座っているディーノも無言で黙々とパンプディングを食べていた。
(……そういえば今日の夢は、なんだかとても幸せだったな……)
ぼんやりとしか覚えていないが、夢にディーノが出てきたこと、それからその夢がとても楽しくて幸せなものだったことはなんとか思い出せる。
……もしかすると昨夜寝付くまでディーノのことを考えていたので、夢にまで出てきたのかもしれない。
(うう……意識しすぎているみたいで、恥ずかしい……)
ちらっと上目遣いにディーノを見たら、ちょうど彼もエイシャの方を見ていた。
灰色と青色の視線がバシッとぶつかり、そしてほぼ同時にそらされる。
「き、今日のご飯もおいしいわね」
「ああ、うん、そうだな」
「ええと……ディーノの今日のお仕事は、何だったかしら?」
「仕事……ああ、うん。今日は新人騎士の指導だ。おまえも、その……エイルとして付いてこい」
「……うん、そうするわ」
「……」
「……」
会話終了。
ひとまず本日の予定に関する打ち合わせだけはできたので、上々と言えるだろうか。
(ディーノはいつも通りに見えるわね……)
もう一度前方を窺うと、今回のディーノはヨーグルトにソースを垂らす方に目を向けていたので、視線がぶつかることはなかった。
昨夜のバスルーム前での出来事を思い出すだけでエイシャの胸はどきどきしてくるのだが、ぱっと見る限りディーノはいつも通りだ。物言いは雑で少々不良っぽい言葉遣いになることもあるが、さすが傍系貴族だけありテーブルマナーは美しい。
(そういえば、伯爵家の縁者なのにどうしてそんなにがさつなの、って聞いたときの返事は、「こっちの方が面倒ごとが減るから」だったかしら)
我ながら失礼な質問をしたと思うが、ディーノはさして気にした様子もなくあっさり教えてくれたものだ。
なるほど確かに、伯爵家の縁者で騎士団長の息子となると、厄介ごとも増える。多少がさつな態度でいれば寄ってくる人間も減るので、面倒くさいことが嫌いなディーノにとっては好都合なのかもしれない。
(……とにかく、今日も仕事をしないと。それに……イェスペルさんが近いうちに、妖精を捕まえてくださるはずだし)
あの「祝福」さえ解除できたなら、エイシャもかなり落ち着いた気持ちでディーノと話ができるはずだ。
(そうしたら……昨日の「本命のやつ」について、聞こう)
うん、と自分に言い聞かせて、エイシャはミルクセーキを飲んだ。
「……じゃあおまえは、そこで記録を取っていてくれ。やり方は分かるな?」
「はい。お任せください、ディーノ様」
「頼んだ」
訓練場にて。
ボードを渡されたエイシャがきちっと応じると、騎士団服姿のディーノはうなずいて背を向けた。
彼が新人騎士たちが集まっている方に向かうので、途中で体が入れ替わらないようにと急ぎエイシャも後を追う。
エイシャの小姓エイルとしての仕事ぶりも板に付いてきており、最近では騎士たちの訓練記録などを任されるようになっていた。
騎士団は貴族や裕福な平民出身の男子で構成されるため、ほぼ全員資産は潤沢にある。だがそれと学力は別物で、読み書きと簡単な計算がやっとというものも少なくない。
また、「一応字を書けるけれど、とんでもなく汚い」というのがほとんどらしい。なお、ディーノも「……字は苦手だ」と言っている。
むしろ計算の速さや字のうまさは、貴族より商家出身の者などの方が優れていたりする。だから商家出身の騎士などはたとえ能力が低くて中級士官などになれなくても、文官や記録係などの方面で採用されたりするそうだ。
そしてエイシャも実家が商家なので、子どもの頃は兄と同じように家庭教師から学問を教わっていたし、学校でもそれなりの成績を収めていた。よって、字はきれいな方だと自負している。
実際にエイシャが取った記録はとても読みやすいとディーノからも褒められているし、他の騎士たちも「代筆ならエイルに任せたい」と言ってくれた。自分の培った能力が役立てられるのなら、何よりだ。
エイシャは椅子に座らせてもらい、ディーノが指導する後ろ姿を見ながらその記録を取っていく。
記録といっても彼がどの新人にどんな指導をしたのかメモする程度だが、そういう記録をもとに次回の訓練課程を組み立てたりするので、侮れないそうだ。
記録を取りながらもエイシャはつい、ディーノの背中にぼうっと見入ってしまっていた。
幅広の剣を軽々と手にして新人たちと打ち合ったり武器の構え方を教えたりする姿は、文句なしに格好いい。
そしてエイシャは昨日、あのたくましい胸に抱き留められたのだと思うと――
(……っと、いけない! 記録、記録を取るのが私の仕事……!)
慌ててペンを走らせたせいか、パキッと手元で嫌な音がした。
「あ……折れた」
「何かあったのか?」
小さなつぶやきだったのに、すぐにディーノが振り返った。振り返りざまに額を流れる汗をざっと拭った姿まで格好いいと思ってしまう自分は、相当惚れ込んでいる。
「は、はい。ペンが折れてしまって……すみません、換えのを取ってきます!」
「……俺も行こうか?」
「いえ、あっちに置いている荷物から取ってくるだけなので」
あっち、というのは、すぐ近くにある荷物置き場だ。ここから荷物置き場まで二十メートルもないので、いきなりディーノと入れ替わることはないだろう。
ディーノも同じことを思ったようで小さくうなずき、こちらに背を向けて指導の続きをした。
(すぐに行かないと!)
ボードを椅子に置いたエイシャは、荷物置き場に向かった。今日訓練場で訓練をしている他の騎士たちの荷物に紛れるように、エイシャが持ってきた小さな鞄もあるはず。
(ええと。確か、分かりやすいようにとディーノ様の荷物のすぐ側に――)
「……見つけた」
そうつぶやいたのは、エイシャではない。
周囲への警戒を怠っていたエイシャは、他人の荷物の中に埋もれる自分の鞄を出そうと一生懸命になっており――いきなり横からぐいっと腕を引かれても、すぐには反応できなかった。
「きゃっ!?」
「……ああ、やはりあなただったんだね――エイシャ嬢」
エイシャを引き寄せた者が小さく笑い――エイシャの顔に、布を押しつけてきた。
(何っ!?)
「ふぐっ……!?」
「手荒なことはしたくないからね。……さあ、おいで、可愛い人」
その人は笑うと、ずるずるとエイシャを引っ張っていった。布には何か薬品がしみこんでいるのか、だんだん意識がぼんやりしていく。
(あ、まず、い……これ以上離れたら、私――)
かすむ意識の中でも必死に踏ん張ろうとしたエイシャだが――
――くるん、と世界が揺れた。
エイシャは一瞬にしてディーノと入れ替わったようで、先ほどまではぼんやりしていた意識ははっきりとしており、前方に何人もの新人騎士たちがいる。
……だがもうろうとした状態からいきなり入れ替わったことで、エイシャは踏ん張れなかった。
「ほぎゃあっ!?」
「えっ!? ロヴネル様!?」
「だ、誰か! ロヴネル様がずっこけた!」
ずるっと足を滑らせて悲鳴を上げ、そのまま仰向けに倒れたエイシャ――ディーノの後頭部が、ごちん、と嫌な音を立てた。
(あ、これ……)
だめだ、と思った直後に後頭部に激痛が走り、エイシャの意識は真っ暗な世界にすこんと落ちていった。




