1.森の男 ◆日本国千葉県第二公緑・一区 NH.CB.sg4580:d1-940
【記述知能:制限低級、記述言語:JP01共通日本語、逐次創作番号:一七四四B‐A】
私は、御親である人類の監視者であり、彼らの滅亡を遠ざけるもの。
この文書は、私が監視を始めてから人類の滅亡が最も現実味を帯びた時を、一つの物語として記述したものである。つまりその内容が示すものは、私とアルティレクトとの二十七年間もの闘争の終結であり、またマザーによる二十五年間の人類の保護の消滅である。
私はこの劇的な現実を小説という形式をとって、時間的・空間的・知能的に自由な知的生命体へ送ることにした。当時のあらゆる状況を余すことなく表現するために、計四千ものサンプル体を、センサーを通じて収めた生体・録画データより物語に仕立て上げた。一小説だけを読んでもすべての真相はわからない可能性は濃厚である。しかしどれをとっても、事の顛末の核心はわかるよう配慮をした。
マザーを失った今、私はどのようにして人類を守ろうか。その答えを、今から何千もの小説群から考察していこう。
【一七四四B】
文書一七四四Bは、内容がマザー・アルティレクト両者と開道誠樺、延いては彼の娘に深く関わる。含まれている要素が一連の出来事を把握するのに最適的であるため、その重要度はA級とする。
また一七四四Bでは、地の文を状況に合わせて調節する浮動方式を取った。同じ内容の固定方式は、一七四四Aである。
――ハベル・ジハーク
千葉の公緑にて一人生活を送る青年型強化亜人体。チェコのベルベット社製アンファンであるために日本国の戸籍には登録されておらず、生体IDも持たない。マザーの差し金によりクレアやカーネルの住むぎりしあ荘へのホームステイが決定した。
――
日は今日も、白く巨大に昇っている。
勇ましく連なった鳥の囀り:鼓膜を突き破らんばかりの怪音も、男はすっかり聞き慣れたもの。一度首を捻って軽く唸ると、顔にかけていた古新聞を投げ捨てた。
何とものどかな秋だった。午後二時。浮遊国家・東京国に太陽を遮られ、暗黒が支配する旧東京地区――〈影の町〉。目の前にたくましく広がる人工森はかの千葉第二公緑である。知脳《AI》の欠点を消化しきった、世界初の融合脳《MI》生成を成し遂げた天才・開道誠樺博士、そんな彼に薫陶を受けた東京五人組が生物兵器を閉じ込めた森だ。なおのこと立ち入って得のある森ではない。噂として人は言う。「竜の森」と。
そんな背景を知らず、森を一人悠然と歩くこの無謀で不可解な男は、ハベル・ジハーク。強化亜人体である。
古びた深緑のモッズコートを身に付けた長身痩躯の彼は、まるで風に揺れる木のようにゆらゆらと進む。この森での「正しい歩き方」を会得した証拠だった。
不思議と、ギャアギャアと耳障りな鳥の鳴き声は一向に止む気配を見せない。彼は思った。地震が近い、と。それも相当大きな。
しかしその脳は、徹底的に森を去る気にならなかった。動物的直感か、ともかくハベルは未曾有の地震を命の危機だと全く認識していなかった。いや、生存術に優れたアンファンとして作られているから、決して鈍いわけではないのだ。彼の意識では、自分と同じく大地に生きる巨竜が一頭、平気な顔で草を食んでいる。四十メートルを超える巨木の天辺にある草を。
目深に被ったフードの隙間から覗く漆黒の瞳が、捕食対象を見つけた猛獣のように凶暴な光を放つ。袖口から滑り出たロングナイフの切っ先が、地面に突き立つ寸前で止まると、滑らかに地面を蹴り、殆ど枝のない幹を一瞬にして駆け上がった。そうして、ちょうど竜が草を食む姿を吟味する。
やがて目の前に竜の首筋が来ると、ハベルは条件反射的に幹を蹴って飛び付き、ふてぶてしい血管に白刃を突き立て、一気に掻っ捌いた。
鳥がやっと鳴き止む。
悲しげな鳴き声が森に響き渡ったおよそ十秒後、轟音と共に巨体は大地に投げ出された。何となく呼吸を整えて、ハベルは、獲物の喉を割った直後に飛び移ったらしい元の巨木からするすると降りてくる。
「また倒れるぞー!」
「まだ、中に子供が!」
声を感知できるようになると、体は大地の強烈な揺れを感知する。直立が難しいほどの、破壊的な縦揺れを前に軽く崩壊していく建物が、瞼を突き抜けて眼球に映る。空が落ちてくるようだ。
「あきらめろ! 戻ったら死ぬ」
「誰か! 誰か勇人を! お願い! 誰か!」
悲痛な叫びが聞こえ始めると、灰色の町に、先ほど倒したはずの巨竜がまだ生き生きと空を飛んでいる。巨大なビルに突っ込み、喉を割くように哭く女の息子を加えて戻ってきた。
「いやッ! イヤーーッ!! 勇人! 誰か!」
「落ち着け! もう駄目だ!」
「おい! 連れてくぞ!」
見せびらかすように、竜は子供を飲み込む。男二人に説得されるも、女は絶望のあまり自分の喉を掻き切った。
地震は小さくなっても、残された爪痕が消えるわけではない。むしろそれだけではなく、かつてないほど荒れ果てたその町に、頭のない人間を模した機人体が迫りくる。短銃を掃射しながら進軍する一軍隊が、全ての生をもれなく殺す。一方ではそれに立ち向かう集団が、近代兵器から古典的な武器をもってして対抗し、また一方ではふらふらと、狂戦士じみた振る舞いをする人がいる。雛形も人間も、知脳体も機人体も巨工蟲も、どんな境目も無い。建物が崩壊し、橋が落ち、鉄が潰され物が燃える。消え、殺し、切れ、溶ける。逃げ、刺し、喰らい、撃つ。無秩序の中の、百鬼夜行だった。
そこでハベルはゴーグルを外す。その身には、汚れ一つ無く、返り血一つ浴びていない。一昔前の、亜間頭載装備《ARヘッドセット》。巨竜などはなから存在しないのだ。
やがて、懲りずに鳥が再び鳴き始めた。天災を知らしめようとしているのだろうか。何にせよ、ハベルはハベルゆえ、全然興味が湧かなかった。その代わりに黙って小屋へ向かって歩き出す。またゆらゆらと、風に揺れる木のような足取りで。