椿さんは消臭ガール
—ピコンッ
また不快な音が鳴った。さっきからたった五分の間に何回この脅しにも似た警戒音を聞かされているのか。
―ピコンッ
もう。まただ。喉の奥から苛立ちが獣の威嚇のようにこみ上がる。
「あー。はいはい。わかってますよ。はいはいはいはい」
廊下では人の声が何往復も通り過ぎていくけれど、私がいるこの畳の部屋は誰もいない。静寂と喧騒がミックスしちゃった環境で、私は頭を強く搔きながらスマホを手に取った。
目の前の鏡に私の半開きの目とぼさぼさになった髪が映ったような気がするけど、そんなの今は気にしてられない。というか、そんな無様な格好が今の私には相応しいかもしれないし。
スマホを開くとSNSの通知が嫌でも目に入ってきた。
”昨日は久しぶりにお休みだったので、だらだらしてたの! ミートローフ作ったよ!”
少しだけ加工をして卵ちゃんみたいになってるキラキラ女子が頬杖ついてカメラを見つめている写真。スライドすると、机の上の美味しそうな肉の塊とピースサイン。最後の一枚はお洒落に掲げたワイングラスと彼女の麗しい爪。
「またやってくれたな……」
見たくなかった投稿が予想通りの不快感を私の中に招く。入ってくんなって思うけど、不快感とやらは断りもなく勝手に滲む。彼女がSNSを更新するとどうしても通知が来るから無視はできない。本当は無視したい。無視したい。無視したい……。他人の日常なんて一ミリも興味ないし、何の益にもならない。時間の無駄。無駄でしかない。でも、無視しちゃだめ。無駄とか思っちゃだめ。これは私の義務。義務なんだから。
こんな義務からはとっとと解放されたいけど、それも望めないから私はここ二か月の間ですっかり心に棘を生やしてしまった。
「勘弁してよ……」
彼女が投稿してからまだ数分しか経ってないのに、彼女に対する称賛はどんどん増えていって、その中に私が恐れていた言葉が織り込まれる。
"このカーテン。。。"
意味深な文字列。
何よ"。。。"って。文字に余韻を残すな。
顔も見えない相手の憶測に私の胸は一気に緊張が溢れてくる。
確かに彼女が作ったミートローフは美味しそうだし、机の上も綺麗にセッティングされてワイングラスの向こうに見えるカーテンなんてシックで私も好みの色。
もし私が偶然この投稿を見ただけなら、料理上手で清潔感のある子だなって感心しちゃうかもしれない。
でも。でもね違うの。
私はスマホに鼻先がくっつきそうなくらいに近づいて彼女が投稿した写真を睨みつけるように凝視する。
このミートローフが載ったお皿。これ、この前のドラマとのタイアップで限定販売されたものだし、整頓されたはずの机の上にちょっぴり見切れちゃってるのはファンイベントのために作ったタオル。それにこのカーテン。。。
不快な彼女のアカウントの表示を消して、私は自分が管理しているアカウントの画面へと舞い戻る。
「やっぱり……」
思わず呆れた声が漏れた。
確かにこのカーテンは、二週間前に配信した時に背景にしていたものと同じ。
ダークモカの落ち着いたカーテンの前で誰かの彼氏面して笑っている彼の顔を見て、私はつい牙を向けて唸った。
「あー。だめだだめだだめだ」
私はもういい加減に飽きた単語を際限なく繰り返す。
そうでもしてないとやっていられない。イヤイヤと首を振りながらも私は心を無にして投稿フォームを立ち上げ適当な文章を打ち込む。
"毎朝の癒し。今日は寝坊…笑"
私よりもきめ細やかな肌をした手でホットココアの入った白のマグカップをベージュのカーテンに向かって掲げた写真。本当は今朝撮ったものじゃないし、場所は彼の家でもない。でも私は、さぞ、"今朝"、"自宅で"、撮った写真のように投稿をする。
するとすかさず、投稿に気づいてくれた人たちから反応が来る。
"素敵です!"
"ココア湯気立ってる! 美味しそう"
"おはよう遙くん"
彼女たちの疑いのない反応に私はほっと胸を撫で下ろす。お皿とタオルの件があるけど、それはまぁ大丈夫だろう。
なにせ先手を打って一週間前に"折角のお皿割っちゃった!"って悲劇の絵文字と一緒に投稿しておいたから。本当は割れてないけどね。
私はスマホを机に戻して大きく息を吐いた。
どうして私、こんなことやらないといけないんだろ。
情けない気持ちと、でもしょうがないという気持ちの板挟みでなんだか悲しくなってくる。
でもひとまずのところ一戦終えたわけだからちょっとお茶でも飲んで落ち着こう。そう思って立ち上がった時、「お疲れ様でした!」とスタッフの人に挨拶する爽やかな声とともに扉が開く。
「終わったよー! 二奈さん!」
部屋の中に入ってきたのはこの楽屋の主、若手俳優の櫻野遙。若手って言っても学生の頃からやってるから芸歴は長め。長身でスタイルがいいけど童顔なのがギャップで、穏やかな性格と合わせて割と人気がある方だ。
彼は役のために黒に染めた髪の毛が目にかかって鬱陶しかったのか、手で払いながら私に笑いかけてくる。
「終わったよー! じゃ、ないっ!」
陽気な声にイライラがぶり返した私は、置いたばかりのスマホを手に取り彼にさっきのSNSを嫌と言うほど見せつける。
「梔子さん、またこんな投稿してたの! 櫻野くんちゃんと制御してよ!」
キャンキャンと犬のように吠える私のことを彼は目を丸くして驚いたように見てきた。いや、何驚いてんの。
「二奈さん……ごめんなさい。また、迷惑かけちゃった……?」
彼女の投稿をようやく認識できた櫻野くんは、しゅん、と肩を落として申し訳なさそうに眉尻を下げる。
やっぱりデビューしてすぐその容貌で成り上がったくらいによくできた顔だけど、もうそんな美しい表情を見ても私の心には一切何の感情も沸かなくなっていた。
「前にも言ったでしょう? 誰を彼女にしようと自由だけど、仕事に支障があるようなことはしちゃだめって。櫻野くん一人の行動を言ってるんじゃないんだよ? 外部からこうやってバレちゃうこともあるの! ファンの子たちをがっかりさせるようなことはしないで」
スマホを下ろし、私は深いため息とともに櫻野くんに何度目かの注意をする。彼の心を縛っちゃうようでこんなことまで言いたくはないんだけど。でも、これもしょうがないことなのだ。鬼になれ私。
櫻野くんは「本当にごめんなさい!」と手を合わせて頭を下げてくるけれど、このお願いが彼にとって難しいことだってことも理解はしてる。
「今日はもういいよ。じゃあ廊下で待ってるから、早く着替えてね。次は雑誌の撮影」
「はい。二奈さんを待たせないように急ぎますねっ!」
「慌てなくてもいいから。あ、でもそうだ」
「はーい。何?」
「もう家で配信はやらないから。そのつもりで」
「へ?」
彼のきょとんとした顔を残したまま、私は静かに扉を閉めた。
廊下を行き交うスタッフの人に会釈をされ、私もそれにそっと返す。
壁に頭を預けてもう一度さっき自分が投稿した写真を見やる。
"遙くんのお部屋のカーテン可愛い"
そんな誰かのコメントを見て、私はスマホを胸に当てて天を仰いだ。
ちゃんと誤魔化せたのかな。
自信はないけれど、前に映っていたカーテンはどっかのスタジオかホテルだと思ってもらえればいいか。
自分なりの決着点を見つけてスマホを消す。痛む良心などもう錆び付いてしまった。
私は櫻野遙のマネージャーになって四年目になる。前に担当していた女性タレントとはまた違って、若手俳優のマネージャーってのもなかなかに大変だと最近ますます思う。
仕事を取ってくることと彼のスケジュール管理が私の主な仕事ではある。でも、彼を売り込んで、魅力的な俳優だって世間の皆に伝えるのも私の仕事。ブランディングも大事だから。
彼は仕事も好きみたいで演技力もどんどん成長しているし、知名度も上がってきて広告の仕事だってこなせるくらいに信頼も獲得してきた。
だけどやっぱりまだ小さなうちの事務所だと、彼のことをアイドル的な売り方をしないといけない側面もあって。
そうなると、"彼女"の存在はどうにか息を潜めたいもの。彼のことを応援してくれているファンは若い子も多い。だから、もうしばらくの間は夢を見ていて欲しいし、私もマネージャーとしてその夢の邪魔をしたくない。
改めて思うと悪魔みたいな商売だけど、でも私もそのおかげでご飯が食べられるのだから背に腹は代えられない。
櫻野くんは世間のイメージ通り、いかにも絵に描いたような好青年。それは近くで素の彼を見ている私もよく知っている。すごくいい子だし、もっと売り出したいのはマネージャーとしての宿命でもあった。
つい最近まではそれも順調だった。彼はどんな仕事も楽しんでやってくれるし、私も彼に仕事を持っていくのがすごく嬉しかった。この調子で、今度こそ彼は大きなチャンスをモノにできるかもって。
でも。
三か月前、櫻野くんが彼女に出会ってから私は築き上げてきた階段が崩れてしまうような不安にずっと襲われてる。
マルチタレントとして活躍している本業気象予報士の梔子穂子は、大人気までとはいかなくてもそれなりにインフルエンサーとして有名人。
もちろん美容にも気遣っているから持ち前の美貌に磨きがかかってすごく綺麗な人だと思う。彼女に憧れる人が多いのも頷ける。
けれど私はそんな眉目秀麗な彼女のとある性質に頭を悩まされ続けていた。
そう。彼女は所謂マウント女子。
自己顕示欲とか承認欲求が強いのか知らないけど、彼女は俗にいう"匂わせ"が大好きなのだ。
櫻野くんが彼女と付き合うようになってから、思った通り彼女は彼との関係を匂わせまくっている。
彼女の主戦場はSNS。日々の投稿での何気ない私物の映り込みや彼が出演しているドラマに関する些細な匂わせは勿論、インタビューとかでもなーんとなく彼に通じるようなことを言ってしまう。
ついうっかりとか、そういうのなら別に私も咎めなかった。
だけどそんなのが続いたら、あ、もうわざとなんだって嫌でも思わされる。
櫻野くんが誰と付き合おうが仕事にさえ支障が出なければ事務所だって私だって何も言わない。でも彼女はやりすぎた。勘の鋭い櫻野くんのファンは彼女の香りになんとなく気づいてしまったのか、ここのところネット上で密かに噂され始めてる。
彼女に控えるように言ってと櫻野くんにお願いもしてみたけれど、優しすぎる彼は彼女に強く言うことが出来ない。だから梔子さんの独壇場が続いてしまう。
このままじゃ、せっかくの彼の頑張りが未来に届かなくなるかもしれない。
私が彼女の投稿を監視しているのもそのせいだ。
彼女が投稿した中で、櫻野くんを思わせるようなものがもしあれば。
私はいかにも「違うんです!」とでも主張するようにそれを打ち消す投稿で迎え撃つ。彼の公式SNSは私が管理、運営しているのだからそんなことは簡単だ。
念のためにと余計に櫻野くんの写真を撮っておいたりして、必要な時に切り出す。
そうやって、どうにかファンの皆の関心を逸らしているのだ。
アイドル売りをしてしまった事務所にも責任はある。
だけど、だけどさ。
なにも彼と付き合ってることを匂わせる必要はないでしょう。
「はぁ……」
だから無香性の女にしておけって言ったのに。
どこか愛情を感じない彼女の行動に憤りを感じつつ、私は彼が支度をしている扉に向かってお説教を飛ばす。
*
「……っよし!」
ゴトンとスマホを机に置いて、私は一仕事終えた爽快感で冷たい紅茶をストローで勢いよく吸い込んだ。
目の前にいる友人二人は、そんな私に同情するような穏やかな眼差しを向けてきた
「椿さぁ、まだあの人のSNSチェックしてんの?」
ハイポニーテールの涼子が首を傾げる。高校の時、彼女はずっとベリーショートだったのに随分と雰囲気が違う。でも見かけは変わっても、定着した苗字呼びは変わらない。
「二奈の頑張りが泣けてくるよ」
もう一人の友人、雫は早速スマホで投稿を確認して泣きまねをしてきた。
「いいから。今は目の前のご飯に集中しよう!」
私は手を叩いてどうにか二人の気を逸らそうとする。
涼子は広告代理店。雫は結構有名なアパレル企業で働いているから、割と芸能関係のことには詳しい。だから当然のように櫻野くんと梔子さんの関係も知っていて、私の虚しい努力も承知済みだ。
「ちょっと風邪気味だから、最近引きこもり。皆も体調にはお気をつけて」
涼子が私がついさっき打ち込んだ文章を読み上げる。
「そんなこと言って、本当は穂子ちゃんと旅行じゃなかったっけ? ははっ。超高級旅館だからバレっこないんだろうけど」
雫はパスタを食べる手を止めて梔子さんの投稿をくすくすと笑いながら眺めた。
確かに、二人は昨日からプチ旅行に出かけている。
で、例によって昨日、梔子さんが櫻野くんを思わせる文章とともに旅先の写真を上げたものだから、私はそれに反撃したところだった。
あんまりにもタイミングが合いすぎると怪しいから少し時差を持って。
そんなことまで考えるなんて、ほんとに私、何やってんだろ。
「まぁまぁ。椿ががんばってる姿は、私たちが見てるからさ」
「そそ。落ち込まないで二奈。二奈の火消しのおかげで、最近噂も落ち着いてきたみたいだから元気出して」
二人は私の背中を優しく撫でて励ましてくれた。
なんだかぽっかりと心に穴が開いたように虚しかった気持ちが少しずつマシになっていく気がする。
確かに、すごく馬鹿みたいなあがきをしている自覚はある。
だけど私の仕事に決まりなんてないんだから、やれることをやるしかないんだ。
「二人ともありがとう。どうか無事にこのまま鎮火してくれるといいな」
私が力なく笑うと、二人は力強く頷いて、「大丈夫!」ってぽんっと背中を押してくれる。
だから私はパスタを食べる気力を取り戻して、どうにか空腹を思い出すことが出来た。
「ねぇところでさ、雫、この前の話本気?」
「当たり前じゃん。私の目を見てそう思わなかった?」
「ううん。そうじゃないんだけど、素直に、凄いなって思って」
「ふふふっ。もっと褒めたまえ。調子に乗れるのは多分今だけだから」
「ははは。そんな悲しいこと言わないの」
私がお気に入りのボロネーゼを食べている間、二人は流れるように会話を続けていく。前に雫が言っていたことを思い出してパスタを飲み込んだ時、お皿の隣に置いたスマホが光る。
「…………あ」
思わず声が漏れると、友人二人は同時にこちらを向く。
「どうした?」
「あっ。ううん。なんでもないよ。仕事の連絡。あとでも大丈夫」
だから私は首を横に振ってから静かにスマホの画面を消す。
「それよりも雫の話聞かせて!」
ボロネーゼのおかげだろうか。
スマホを見た後の私の胸は、二人に背中を押してもらった時と同じくらいぽかぽかと温かくなっていた。
赤く色づいたものは、やっぱり気分が高揚するのかな。
*
梔子さんの猛撃は留まるところを知らず、私は日に日に嘘の投稿が上手になっていく。櫻野くんには注意してって相変わらず言ってるけれど、彼は彼女に頭が上がらないらしい。典型的に尻に敷かれている。まぁなんとなく、二人の会話の想像はつくけど。
私は重い足取りのまま事務所の会議室へと向かった。
中に入ると、私の上司と同僚二人がすでに待っていて、私は慌てて近くの椅子に座る。
「椿さんお疲れ様。櫻野くん、この前の期待の若手アンケートで一位を取ってたよ。今度は舞台でも見てみたいって人が多いみたいだ。そろそろ挑戦時だろう」
「ありがとうございます。でも、彼は映画の仕事を優先したいみたいです。もともと映像系志望ですから」
「それは分かってるが、少し話してみてくれ」
「はい……」
さっそく私に課題を渡してきた上司は、それから同僚にもそれぞれ今後の方向性について提言をする。彼らもこの事務所に所属する別の若手俳優のマネージャー。それぞれタイプが違うのがうちの事務所の利点でもあって、最近は皆いい感じで活躍しているところだ。
色々と話しているうちに、先月そんなうちの若手俳優たちが受けたとある映画のオーディションについて話題は移る。
上司は残念そうに息を吐きだし、その結果が得られなかったことを悔しがる。
「いやー。特に櫻野くん。彼はいけるんじゃないかと思ったんだがね。あの作品は海外での撮影がメインになるくらい大きな企画だ。役をつかめていればいい経験になったのになぁ」
「それは私も同感です。……少し若すぎましたか?」
「そんなこともないと思うけど。彼の演技力ならカバーできるだろうし」
「そうですよね……」
「この前、監督と話す機会があってね。本当にあと一歩だったと言っていたよ。審査は拮抗して、結局のところは素行も考慮することになったと」
「素行……?」
どきりと心臓が波打った。
ううん。櫻野くんは好青年。だけど、ちょうどオーディションの頃って、ウェブ検索で彼の名前を入れるとサジェストに"彼女"とか"匂わせ"とか出ていたピークだ。
もちろん交際が悪いことじゃないし、監督もそんなこと気にしない人なはず。
だけどもし俳優が何か炎上でもしてしまったら、作品にまで飛び火することは免れない。今回は大型の企画だったし、監督も神経質になっていたのかも。
私は恐る恐る上司の顔を見上げる。
「いや。実に残念だった。椿さん、大変だとは思うけど、こういうことがないように、彼の周りをしっかりとケアしてあげて欲しい」
「はい……承知しております……」
つまりはやっぱりそういうことか。
オブラートに苦言を呈されたことに私はえらく疲労を感じてしまう。
恐れていたことが本当に起きてしまった。
今回はまだこの程度で済んだ。でも、もし次もあったら……。
すっかり気落ちしてしまった私に、上司は穏やかに微笑みかけてくる。
「椿さんには期待しているからね」
「ありがとうございます」
プレッシャーにしか感じないけど。
「オーディション、結局誰に決まったんですか?」
肩をすくめている私の隣で、同僚の一人が興味津々に尋ねる。
「ああ。椛斗識だよ。確かにうちの若手より少し歳が上だし、演技力も素晴らしいから、ぴったりなんだろうと思うけどさ」
上司はつまらなそうに背もたれに体重をかけた。
「あー。椛くんかぁ……。持ってかれちゃったなぁ」
同僚も納得しつつも悔しいのか顔をしかめて笑い出す。
「なぁ椿さん。やっぱこう、こみ上げてくる口惜しさってものがあるよね」
「……ええ。そうですね。皆、実力はあるのに」
同僚の情けない笑い顔を見て、私もつられて少しだけ心が軽くなる。
*
もしかしたらネットがざわついていたのが要因で大きな仕事を逃したかもっていうのに、梔子さんの様子は変わらない。
櫻野くんは本当にそんな彼女のことが好きなのかってちょっと疑問に思ってしまいながらも私は彼女との静かなる戦争を止めることはなかった。
私は梔子さんとは直接会ったこともない。
それでも二人の闘いは激化して、互いにデジタルな世界でピリピリと敵意を送り続けた。だけどある日、そんな争いに転機が訪れる。
きっかけは櫻野くんファンの何気ない一言だった。
"梔子穂子の遙くんアピがひどい笑 繋がろうとでもしてんのかな。見向きもされないのに必死だね笑"
この投稿が梔子さんの思わせぶりな態度を不審に思っていたファンたちの心に刺さったみたいで、みるみるうちにバズってしまったのだ。
おまけに外野も騒ぎ出して梔子さんのことを可哀想な女扱いし始めた。そのことには私も流石に少し罪悪感が芽生えた。
でもこれで彼女もちょっとは反省してくれるはずだと期待したのも本音。櫻野くんが怒り狂う彼女をなだめるついでにもう一度話をしてくれるって思った。
別に世間様に晒さなくたって梔子さんは櫻野くんの正式な彼女なのだから。
彼女にその事実を思い出して欲しかった。
これで大人しくなってくれたら、櫻野くんはきっともっと出世できるはず。
そんな希望を胸に秘めて、私は少しSNSから離れて仕事に集中することにした。
彼女がSNSへの投稿をストップしてから一週間くらいが経った頃、事務所に出勤した私を上司が呼び出した。
会議室に入ると、そこにいたのはふてぶてしい猫に頭を潰されちゃったのかってくらい微妙な表情をしている上司だった。
「あの、話って……?」
私が早速話を切り出す。
今日は櫻野くんのCM撮影があるから、早めに準備をして現場に行かなければならない。お迎えは別の子が向かってくれている。
椅子に座ったままの上司は急かす私を真っ黒な目で見上げてきた。
「悪いが、櫻野遙のマネージメントを降りてくれ」
「…………は?」
言っている意味が分からなくて、私は上司にぶつけるには失礼すぎる声を出す。
「前に担当していたタレントがいるだろ? その子のところに戻って欲しい」
上司は私の疑問など無視して勝手に話を進めようとした。
でもちょっと、この不信感を抱えたまま先には進めない。
「待ってください。櫻野くんの担当を外すってことですか?」
「そうだ」
「どうしてですか? 確かに、大きな仕事は逃しました。でも仕事はそれだけじゃありません。櫻野くんは着実にキャリアアップの道を歩んでいます。僭越ながら私も、そんな彼の活躍に一助していると自負しておりましたが」
納得なんてできなくて、私は上司が口を開く前に言いたいことを述べる。
「彼のプライベートのケアが足りていなかったのも否定できません。ですが、私なりに工夫をして、できることは尽くしてきたと思っています。まだ彼はこれから飛躍できます。大事な時なので、一緒に頑張ろう、これからもともに挑戦してこうと、この前も二人で決意を固めたところです。か、彼、私に不満でもありましたか……?」
もしかしたら黙っていただけで、梔子さんに干渉しまくる私のことを櫻野くんは鬱陶しがっていたのかも。忘れていた可能性に、嫌な汗が額に滲む。
「分かってる。私もできればまだ椿さんに彼のことを見ていて欲しい。櫻野くんもそれを望んでいた。だが……」
「彼もそうだというのであれば、一体どうしてですか!?」
つい声が裏返った。心臓がバクバクして、なんだか死にそうなくらい体調が悪い。
上司は大きな息を吐き、おもむろに立ち上がる。
「…………釘を刺されてしまったんだ。……梔子隆二に」
「……え」
その名前を聞いて、私の顔色はさらに悪くなった。
梔子隆二は梔子穂子の父親。それだけならいいんだけど、なんとも都合が悪いことに彼はこの業界のドンと言われるくらいの権力者。今は最前線から離れているけれど、敏腕プロデューサーとして数々の栄光を手にした男だ。未だに頭が上がらない業界人は多い。
梔子穂子はそんな彼が愛する唯一の娘。彼女のほかは男兄弟で、梔子家の唯一の花として大事にされてきたと聞く。
「穂子ちゃんが炎上していることは知っているよね?」
「…………はい」
「櫻野くんの似非彼女として、馬鹿にされた彼女のプライドはズタズタだ。憤慨してパパに言いつけた。それで、彼女は自分が貶められたのは椿さんのせいだって言いふらしたんだ」
「…………」
否定できないのが情けない。
彼女の投稿を打ち消すようなことばかりしていたからこそ、ファンの皆は彼女が痛い女だって思うようになった。その経緯は理解してる。
悪いことをしたなって思ってる。思ってるけど。じゃあ、私はどうすれば櫻野くんを守れたのだろう。
梔子隆二の名前が出てしまったせいだ。私の威勢も一気に萎えてしまった。
真っ白になった頭には、これまで櫻野くんと歩んできた日々が走馬灯のように流れる。
最初は俳優のマネジメントなんて不安しかなかった。しかも旬の若手俳優で、あまりにもキラキラしているからどう扱っていいのかも分からなかった。
だけど、一生懸命仕事に取り組んで成長していく彼を間近で見れて、こんなに最高な仕事は他にないと思えるまでになれた。
今では彼の可能性しか信じていない。
だから、私も精一杯力になりたいって……。
ジーンズのポケットに入れたスマホの存在感が、布越しなのにすごく冷たく感じた。
「……君をマネージメントから外せば彼女は満足する。辛い選択だが、これも櫻野くんを守るためでもある。椿さん、本当に申し訳ないけど、受け入れて欲しい」
「…………そんなの」
「ん?」
「そんなの、嫌です……!」
今にも泣きだしそうだったけど、どうにか耐えて私は声を絞り出す。
「櫻野くんのマネージメントができないのならば……私、もう業界に未練はありません……」
「椿さん?」
「私……」
そうだ。
もう今の私にとって、櫻野くんのマネージメントが生きがいになってたんだ。
彼が見せてくれる景色が物凄く輝いていて、すべての感情を好転させてしまうくらいに胸を躍らせてくれるから。生きているって、思えるから。
でも、それができないのならば。
私がもうこの事務所にいる意味もない。
「……辞めます」
驚くほどにスムーズに言葉が出て行った。
上司は目を丸くして、落ち着いて、ってなだめてくれるけど、でも。
私は思ったよりもこだわりが強いみたい。
上司の優しい引き留めを耳にも入れず、私は深々と礼をして会議室を出て行った。
*
退職して職も生きがいも失った私のことを救ってくれたのは雫たちだった。
雫は私よりも少し前のタイミングで会社を辞め、EC専門のアパレルブランドを立ち上げたのだ。彼女の昔からの夢で、ついに実行に移す時が来たと活き活きと話していたのを覚えている。涼子は副業として彼女のことを手伝っていて、まだまだ前途は多難だけど二人は新たな挑戦にすごく楽しそうにしていた。
そんな勇敢な友人たちが、気力が底辺まで落ち込んだ私を誘ってくれたのだ。
仕事もない私が断る理由があるわけもなく。
雫が集めた他のメンバーと合わせて五人でスタートした小さな船に、私も同乗することにした。
この船が乗ってみると意外と居心地がよくて。
豪華客船には程遠い筏船みたいなものだけど、皆で一つの目標に向かっていくのはよちよち歩きすら楽しかった。
人数が少ないから色んな業務をしなくちゃいけないけれど、マネージャーをしていた私は抵抗感もなかった。
雫の知り合いたちも素敵な人ばかり。圧力をかけられることもないし、梔子家みたいなコワい人たちもいない。
私はすんなりと新しい"生きがい"を手にすることが出来たのだ。
私がアパレル業界で奮闘を続ける頃、櫻野くんの方は思ったよりも大変なことになっていた。
彼は私が退職することを惜しんで、涙が出るような言葉ばかりかけてくれた。でも梔子さんの話はまるでタブーのように触れることはなかった。
梔子隆二のオーダーに小さな事務所が歯向かうことが出来ないのは分かっていた。
それは櫻野くんも同じ。私なんかよりも大好きな彼女の望みを優先するのは当たり前なわけで。結局彼は、私が辞めることを一切引き留めることはなかった。
その後、邪魔者がいなくなった梔子さんは、大々的に彼との関係を匂わせていく。
私との戦時中よりも頻繁に。皆にざまぁみろと見せつけたくて堪らないみたい。それはもう張り切って彼との親密さを小出しに示していったのだ。
営業妨害の域に達していたそうだけど、櫻野くんには抑止力などないと事務所も皆諦めていただろう。
すると面白いくらいに彼のファンたちの態度も変わる。
梔子さんのことだけではなく彼自身に愛想を尽かしていった。自分の彼女の制御も出来ないなんてと、呆れた声がいくつも上がった。
順調にスター街道を進んでいた櫻野くんは、次第にその道に暗雲がたちこめる。
彼は確かに実力もあって容姿もいい。
だけどアイドル売りをしていた弊害で、彼の価値はそれだけでは測れなくなっていた。
ファンが減ることは需要が減ることとみなされ、彼は制作陣の求める役割を果たせなくなってしまった。訴求力がくすんでしまったのだ。
若手俳優なんて履いて捨てるほどいる上に、次々にフレッシュな存在が出てくるのだから、代わりなんていくらでもいるのはいつの時代も同じ。
気づけば櫻野くんを見かける機会は少なくなって、今では他の俳優たちがキャーキャー言われている。
私の同僚たちも例外ではなく。
着実に知名度を上げていくブランドの宣伝に使うタレント会議でも、彼の名前をあげる者は誰一人としていない。
雫と涼子も気を遣ってくれているのか、彼の話題は私の前では一切出さなくなった。
「雫、この前教えてくれた映画すっごく良かった」
「でしょでしょ? 毎週観に行ってるかも」
「それは見すぎじゃない?」
「だよねー。でも楽しいからいいの」
今日も二人はエンタメの話をしているけれど、彼のことは話さない。
「ところで涼子、今度の展示会、招待客は絞り込んだ?」
「うん。出版社の知り合いがリストにアドバイスくれたんだ」
「へぇー。どれどれ?」
雫は涼子のパソコン画面をのぞき込む。
今度、彼女が立ち上げたブランド、すなわち私たちの自信作の新作発表会がある。
働く世代を対象に、日常にちょっとしたスパイスを、というテーマで売り出したブランドは、SNS戦略のおかげか軌道に乗り始めている。
次の展示会は、私たちにとって初めての大仕事。
たくさんのプレスやインフルエンサー、業界人を呼び込んで、大々的に新作を披露するのはこれが初めてだからだ。
雫はその招待客のことを結構気にしていて、涼子の成果物を緊張気味に見やる。
「うんうん。いい感じかも!」
一通り見た雫は、ほっと息を吐いて嬉しそうに笑った。
「でしょう? 知り合いもお墨付きだよ。これでまた知名度上げられるかもって」
「うん。期待できそう」
「招待客がゲストを連れてくることもできるから、他にも色んな人が来ることが想定されてる」
「いいね。……あ、この辺のチョイスもいい感じ。篠崎璃沙とか、井田甜歌……。今回は初のメンズ向け商品もお披露目だから……うんうん、宇野大智に茅場くん、おお! 椛斗識も呼べるんだ!」
雫は芸能人のリストに移り、満足そうに声を鳴らす。
「ね。来てくれたら嬉しいなぁ。特に椛斗識はかなり宣伝になるかなと」
「そうだね。彼はデビューしてからずっとスキャンダルもないし、クリーンなイメージが強いから良い宣伝になりそう。今回の映画も大ヒットしたし、色んな世代に顔が売れたでしょう」
「あはは。雫のお気に入りの映画ね」
涼子の言葉に雫は僅かに舌を出して頷いた。
「二奈も見る?」
雫に促され、私もちょっと覗いてみる。
最後まで目を通してみても、やっぱり、そこに櫻野くんの名前はなかった。
「……うん。いいんじゃない?」
私はそう相槌を打って自分の仕事へと戻る。
櫻野くんの無邪気な笑顔が脳裏には浮かんだ。
彼のことを私はまだ心のどこかで応援しているのだと思う。
消化不良で生き別れてしまったような感覚で、モヤモヤはずっと消えてない。
四年近くも一緒に切磋琢磨してきて、彼のことばかり考えていたのだから当然かもしれない。いつまでたっても、愛着は薄れないものだ。
でももう会える機会もないだろう。それを私は、この先も引きずるのだろうか。
だけど彼は、強烈な山梔子の香りに飲まれてしまったのだ。
心を癒す麗しい香りも、節度を越えれば毒になる。
鼻を刺し、目の奥を締め付け、吐き気に襲われ、頭痛を引き起こして意識を失う。
彼は、そこから逃れることが出来なかった。ただそれだけなのだろう。
*
初の大仕事当日。
私たちは緊張のあまり満足に食事をとることすら困難だった。
どうか成功に終わりますように。
それだけを合言葉に、私たちは互いに手を合わせて気合いを入れた。
幕が開いてしまえばもう成り行きに任せるしかない。
明日は休みだ。今日が終われば、ちょっとゆっくり気持ちも落ち着けるはず。
私もそう覚悟を決めて、早速足を運んでくれた招待客の対応を始めた。
招待客が新たにゲストを呼ぶこともできるとあって、会場は予想以上の人で賑わった。ブランドのファンになったと言ってくれる人や、新作を予約してくれる人も少なくなかった。涼子と私は、プレス対応に追われる雫の背中を見ながら彼女に無言の称賛を送る。彼女が描いた夢が色づいていくようで、本当に心から嬉しかったのだ。
雫の努力に胸を滲ませていると、隣の涼子が肘で私のことをつつく。
どうしたの? と彼女を見上げると、涼子は苦笑いをする。
「櫻野遙。来たみたいだよ」
「え?」
涼子が見ている入口に目を向けると、確かにそこには彼がいた。
どうやら椛斗識や他数人の俳優仲間と一緒に来たみたいだ。
久しぶりに見た彼の姿は、別れた時よりもやつれているように見えた。
結構大変な思いをしたようだから当然か。
そういえば結局、梔子さんとも破局したってかつての仕事仲間が教えてくれたし。
ちょっとだけ憑き物が落ちたような顔をしているのはそのせいかな。
そんなことを思いながらじーっと観察していると、櫻野くんはふと視線をこちらに寄こす。
「あ」
気づかれた。
彼と目が合った瞬間、嬉しかったのか、気まずかったのか自分でもよく分からない。
「ちょっと話してみたら? 積もる話もあるだろうし」
涼子はくすくすと笑いながらその場を離れていく。
取り残された私は、どこかへ行くわけでもなくその場から動かなかった。
いや、動けなかった、のかな。
「二奈さん」
周りを気にしながら、櫻野くんは控えめな声で私に話しかける。
「久しぶり」
久しぶりだね。
私もそう返そうとしたら、櫻野くんは顔を思いっきり歪ませてがばっと頭を下げた。
まさに九十度。そんな角度で頭を下げられたら目立っちゃうよ。
私は慌てて彼の身体を起こす。
「二奈さんごめんなさい……! 俺、二奈さんの忠告を全然聞けてなくて……。彼女のこと、制御も出来ずに放置してた。どうせ無視されるからって。でも、二奈さんの言う通りだった。二奈さんは俺のこと守ろうとしてくれたのに。俺のことを思って、すごく真剣に考えてくれたのに。苦手なSNSにも向き合ってくれて。なのに俺はそんな気持ちを無下にした。台無しにしちゃった。二奈さんの努力も、何もかも。本当にごめんなさい!」
顔を上げた櫻野くんの目尻には涙が浮かんでいた。
そんな罪悪感の塊って顔をされたら、私もなんて言ったらいいのか分からない。
とりあえず、私は彼に向かって笑いかけてみる。
「もういいよ。私もちょっと下手くそだったかな。櫻野くんと仕事できなくなったのは残念だった。でも、今は違う仕事ですごくやりがいを感じてる。今、すごく楽しいよ。だからもういいの。自分を責めないで。私も悪かったの。ここは、お互いさまってことでどう? 手を打たない?」
「二奈さん……」
ニヤリと笑った私を見て、櫻野くんの瞳がまた潤んだ。
ああやっぱり、一線に出ていなくてもその容貌は衰えないんだ。
久々の子犬攻撃を受けた私は思わずくすっと笑う。
「それより、今どうしてるの? 事務所、辞めたって聞いたけど」
「うん。そうなんです。この前、別の事務所に拾ってもらいました。そこは、完全な実力で仕事を振り分けてくれる場所なんです。俺、やっぱり演技が好き。役者でいたい。だから、一からやり直そうって思ってます。まだまだ、前途は多難だけど……。でも、二奈さんのように、俺も今が楽しいって言えるように、精進したいんです」
「……そっか。ふふ。私はいつでも、応援してるよ」
「ありがとう、二奈さん……」
「また、スクリーンの向こうで姿を見せてね?」
「はい……! あ、あと、俺、舞台にも挑戦してみます! 自分で領域を狭めるのはやめようって、そう決めたんです」
「おお。いい決意だね」
櫻野くんは私の驚嘆の声に嬉しそうにはにかんだ。
「今日、椛さんがこの展示会行かない? って誘ってくれたんです。二奈さんがいるって知ってたから、俺、即答で行きますって答えた。……会えて良かった。二奈さんに何も伝えられてなかったから」
「ありがとう。櫻野くんが伝えたかったこと、十分伝わったよ。私も会えて嬉しい」
「良かった……。もう顔も見たくないって言われたらどうしようかと」
「そんなこと言うわけないでしょ」
櫻野くんの心底ほっとしたような声に、私は彼の腕を小突いた。
「そうだ二奈さん。YTKってバンド、二奈さん好きでしたよね? 今度の来日ライブ、知り合いがチケット取ってくれるって言ってたんだけど、二奈さん、行く?」
「え? 嘘でしょ? 本当? あれプレミアチケット過ぎて取れないってみんな嘆いてたんだよ?」
「これは俺たちの特権かな」
「また、得意気な顔しちゃって! 調子に乗らないの」
「はーい」
でもすごく嬉しい提案だった。
私は念を押すように彼に向かって人差し指を向ける。
「でも、席は離れてるところを取ってね」
「ははっ。はい。誰が見てるか分からない、ですよね」
「そう! いい感じで学んでるね」
「二奈さんのおかげです」
櫻野くんはぴしっと敬礼をして大袈裟に答えた。
「とにかく、来てくれてありがとう。今日は展示会楽しんでいってね」
「うんっ。二奈さんも」
「私はこれが仕事だから!」
手を振って離れていく櫻野くんに自虐気味にそう投げかける。
マネキンの中に消えてしまった櫻野くん。
ああ、やっぱり、ちゃんと話すのって良いな。
ずっと胸につかえていた不純物が溶けていったような感じ。
私はようやく後悔の念から解放されたような気がした。
「さて、仕事に戻りますか」
独り言を呟いて伸びをする。
思わず欠伸も一緒に出てしまい、口を抑えたところで手に持ったままのスマホが震える。雫か涼子かな。そう思って画面を開く。
"展示会お疲れ様。明日は二奈が大好きなボロネーゼ作って待ってるね。頑張りすぎちゃだめだよ"
届いたメッセージは二人からのものではなかった。
顔を上げると、少し離れた視線の一直線上にスラリとした体格の人影がスマホ片手にこちらを向いている。
椛斗識。今日、櫻野くんをここに連れてきてくれた人。
微かに目が合って、私の胸はふわりと宙に浮かぶ。
その浮遊感のまま、私はスマホの画面に指を滑らせる。
"ありがとう。すごく楽しみ。もうお腹が空いてきちゃった"
私の返信を受け取ったスマホが五メートル先で震える。
受け取ったメッセージに目を向けるのを見届けて、私は涼子の手伝いのためにくるりと足の向きを変えた。
賑わう会場を横切る中で、ほのかな笑い声が聞こえた。
耳が勝手に拾ってしまうその音。
胸をくすぐる優しい音程に、私の胸はぽかぽかと温かくなっていく。
明日は多忙だった恋人とようやくのんびりできる日。
彼は大型企画の映画の撮影でしばらく海外にいたし、帰ってきてからも仕事漬けだったから。
私がボロネーゼを好きになったのも料理が得意な彼が作る絶品を食べたせい。
どんなレストランで同じパスタを食べても彼のものには敵わない。
そんな大好物の料理とともに、彼と休日を過ごせる。
ああ。なんて贅沢なのだろう。