それでもやっぱり君が好き
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怜がどうして自分なんかを選んでくれたのか全くわからない。
怜はものすごくかわいい。どのくらいかわいいかと言うと、半径五キロ以内の女性を集めて並べてみたら、99.9%の人が「怜が一番かわいい」と言うだろうというくらいかわいい。もちろんこれは最大限客観的に見ようと努力した結果の指標であって、千尋にとっては後にも先にもこんなにかわいい子はこの世に作り出せないだろうと本気で思えるほどかわいく見えていた。
駅前で待ち合わせでもした日には、何人もの男に声をかけられる。怜とつきあい始めた頃の千尋はそれが心配で、必ず三十分前には待ち合わせ場所に待機していた。少ない給料から頑張って車を買ったのも、怜を家まで迎えに行けるようにするためだ。結婚してからも薬指にきちんと指輪をしているにもかかわらず、怜はやっぱり男を呼び寄せていた。
白い肌に、黒い瞳、木の実のように赤い唇に、小さな顔。髪は蜂蜜みたいな澄んだ色で、光があたるときらきらした。笑うと桜のようにかわいくて、ただ立っているだけでも人目を引いた。街を歩けば男女問わずすれ違う人が振り向いて、男性店員からはいつも過剰なサービスを受けていた。
千尋が怜を好きにならないわけがなかった。でも怜が自分を好きになってくれた理由は今でもよくわからない。
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千尋が怜に出会ったのは二十四歳の時。社会人三年目の初夏のことだった。
千尋の職場は小さな会社の一営業所で、社員数は二十名弱。食堂なんてたいそうなものはなかった。昼休みにはみんなそれぞれ持って来た弁当を食べるか出前を取っていた。出前で人気があったのは、メニューが豊富な仕出し弁当屋と、丼物も扱っている蕎麦屋。出前の注文の取りまとめは入社してからこの二年以上、ずっと千尋の仕事だった。千尋の営業所には千尋以降、一人の新入社員も入って来ていない。千尋はいまだに下っ端だった。
千尋はこの仕事が苦手だった。ただでさえ仕事が遅いのに、昼食の取りまとめまでするなんて負担が大きい。お金は立て替えといて、と言う先輩に後からお金を取り立てに行くのも苦手だったし、出前を届けに来た店員とのコミュニケーションも憂鬱だった。
ある日近所のパン屋が、サンドイッチの配達を始めると言ってチラシを持って来た。メニューはローストビーフ、チキン、シーフードの三種類。野菜も具もたっぷりで、とてもおいしそうだった。夏の暑い盛りだったこともあって、あたたかい弁当やうどんよりもあっさりしたサンドイッチに日に日に人気が集まっていた。
このサンドイッチを配達に来るのがパン屋でアルバイトをしていた怜だった。この時の怜は二十歳。白いシャツに黒いパンツ、腰から下の店のロゴ入りエプロンという何の変哲もない制服を、世界一かわいく着こなすパン屋さんだった。
一目で魅了された。こんなにかわいい子は初めて見た。あまりにかわいくて、最初は芸能人が迷い込んできたのかと思った。普段は客が来ても一瞥もせず、千尋に応対に出るよう顎をしゃくるだけの先輩たちが、数人一斉に立ち上がって怜に群がった。その怜が「影山さんという方は……」と自分の名前を呼んだ時の気持ちと言ったら、天にも昇るなんて言葉では言い表せないものだった。てっきりチラシを持って来た店員が配達に来るのだと思っていたので、「配達を担当する麻生と申します」と頭を下げられた時には、もう一生昼食はサンドイッチにしようと心に誓った。
千尋の昼食はその誓い通りサンドイッチ一色になった。毎日怜に会えることが嬉しくて、それまであんなに嫌だった昼食の取りまとめの仕事が楽しみになった。先輩の中には怜と仲良くなりたいと、パン屋の応対だけ代わってくれ、なんてどこまで本気かわからないことを言ってくる人もいたけれど、何と言って断ろうかと口をもごもごさせているうちに、気味悪がって諦めてくれた。
いつ見ても目を奪われた。怜がやって来ると味気ない職場にも光がさすようで、きらきらした人というのは本当にいるのだなと思った。美人は三日で飽きるなんて話は絶対に嘘だと思った。怜が触れたと思うだけでサンドイッチまでもが神々しいものに見えた。
つき合いたいなんておそれ多いことは爪の先ほども考えていなかった。怜は千尋にいつも笑いかけてくれたけれど、それはあくまでも客に対するものだ。でもそれだけでよかった。怜の笑顔が間近で見られるというだけで千尋の心は満たされた。
恋愛経験がないわけではなかった。学生時代に数えるほどだけれど女性とつき合ったことはある。でも自分がさえない男の部類に入ることは重々わかっていた。外見も地味だし、一緒にいて楽しいわけでもない。恋人にはいつも「優しいだけ」「つまらない」「ちゃんとまともにしゃべってよ」とふられてきた。まさかそんな自分が怜の心に留まるとは夢にも思わないし、ただ毎日ほんの少し言葉を交わせるだけで十分幸せだった。
季節が移り変わり肌寒くなってくると、社内のサンドイッチの注文は激減した。あたたかいうどんや丼物が人気を取り戻し、やがてサンドイッチの注文は千尋一人のみという日が増えていった。怜はサンドイッチ一つでも嫌な顔せず配達してくれた。
ある日怜が「影山さん、毎日サンドイッチで飽きませんか」と訊いてきた。千尋は驚いた。たしかに毎日サンドイッチを注文しているのは自分だけれど、毎日ただ一つずつサンドイッチを配達しているだけの怜には、誰が注文したものかはわからないはずだ。言葉をつまらせながらどうして自分が注文したものだとわかったのか尋ねると、
「だって、たくさん注文してくれる時は集金袋みたいなところからお金出してるけど、最近ずっと影山さん、自分のお財布からお金払ってる」
と怜は答えた。ちがった? と目を覗き込まれ、千尋はあたふたした。怜がそこまで見ているとは思わなかった。怜目当ての注文だとばれたのではないか、気持ち悪いと思われたのではないかと猛烈に恥ずかしくなった。顔を真っ赤にして俯く千尋に、怜は「いつもおつりがいらないように払ってくれてありがとう」とにっこり笑ってくれた。泣きたくなるくらい嬉しかった。怜は帰り際に「じゃあまた明日」と千尋に手を振った。明日も注文していいんだと、ひとり喜びにうち震えた。
いつもより多く言葉を交わしたことで、その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。
名前を呼んでくれた。おつりが出ないようにお金を用意していることに気づいてくれていた。千尋のサンドイッチだとわかった上で毎日笑顔で配達してくれていた。どれか一つだけでも昇天できる出来事が一気に起きて、正直もう容量オーバーだった。
商売上手なだけだ。きっと他の客にも同じようにしているんだ。何度も言い聞かせて胸の高鳴りを押さえた。少しでも期待してしまう気持ちを必死に無視した。深い意味なんてないんだ。俺はいいカモなんだ。羊を数えるみたいにネガティブなことを延々思い浮かべて、百個を数えたところでようやく眠りにつくことができた。
十二月に入ったある日。冷たい空気に雨が追い打ちとなって手に息を吹きかけたくなるほどの冷え込みだった。季節はすっかり冬になっていた。その日も千尋の分のサンドイッチを一つ持ってやって来た怜は寒さのせいで鼻と頬を赤く染めていた。お金の授受の時にうっかり触れてしまった指先が想像以上に冷たくて千尋は驚いた。「あ、冷たかった? ごめんなさい」と笑う怜に、急に胸がしめつけられた。
当たり前のことに気づいていなかった。怜は毎日この寒い中サンドイッチを配達に来てくれていたのだ。雨が降っても。どんなに寒くても。千尋がサンドイッチを頼むから寒空の中に足を踏み出し、震えながらここまでやって来るのだ。鼻と頬を赤くして。手を胸の前でこすり合わせて。
もうやめようと思った。怜が一日にどれだけの配達を行うのかわからないから、自分一人が注文をやめたところでどれほど負担を軽くしてあげられるかはわからない。それでも千尋の元にやってくる時間分は確実に早く店に帰ることができるだろうと思った。これからどんどん冷え込みも厳しくなるし、雪でも降ろうものなら足元も心配だ。
そこでとんでもないことに気がついた。千尋は怜のパン屋がどこにあるのかも知らない。ここからどのくらい離れているのか。歩いて来ているのか。自転車で来ているのか。まるで知らなかったのだ。どうして考えもしなかったのだろう。バカみたいに一人で浮かれていた自分が、たまらなく恥ずかしくなった。
千尋はサンドイッチの注文をやめた。パン屋の場所を調べてみたら、歩いて十分ほどのところだった。歩いて来ていたのか。自転車か。どちらにしても寒かっただろう。
千尋が急に注文をやめたことを怜はどう思っただろうと考えた。少しは気にしてくれているだろうか。それともどうせたくさんいる客の一人だし、気にも留めていないだろうか。怜を悲しませたいわけではないのに少しは悲しんでくれることを望んでいる自分が嫌になった。
年が明けると上司から、今後昼食の取りまとめは新しく雇ったアルバイトの女の子にやってもらうことにする、と告げられた。ショックだった。あたたかくなったらまた怜に会うチャンスができると心待ちにしていたのに、もうそれも不可能になった。
二月に入った。千尋の心は全ての葉を落とした枯れ木のように、色もなく、隙間だらけだった。その隙間を冷たい風がピューピュー吹き抜けていた。
昼休みに廊下を歩いていると、後ろから「影山さん!」と声をかけられた。誰だろうと振り向き、目にした光景に顎が外れそうなほど驚いた。怜だった。怜が自分ごときに声をかけてくれるなんて。しかもまだ自分のような者の名前を覚えてくれているなんて。夢じゃないかと頬をつねった。
「影山さん、配達の担当じゃなくなっちゃたんですね。今サンドイッチ一つ届けたけど、あれ影山さんの?」
千尋は何度も首を横に振った。こんなに寒いのに配達を頼むわけがない。怜の鼻は今日もほんのり赤くて、ああ、かわいい子は鼻が赤くてもやっぱりかわいいんだな、と思わず見とれた。怜は少し髪が伸びていて、そして相変わらず奇跡のようにかわいかった。
「そっか。もう飽きちゃった?」
うっとり見つめる先で、怜が首をかしげた。
咄嗟に、否定しなくては、と思った。飽きたわけがない。本当は毎日食べたい。けれど寒い中配達してもらうことが辛くなったのだ。そう説明したいけれど、そんなに長い文章を話すなんてできる気がしなかった。
言葉が喉の奥でぐちゃぐちゃに絡まった。情けないほど長い間、口ごもった。
千尋がこうなってしまうと、普通の人は「この人、ちょっと変」という顔で黙って前からいなくなる。けれど怜はじっと千尋を見つめて静かに言葉を待っていた。
「……さ、寒いから」
ようやくそれだけを口にすると、怜は千尋の思いと全く違うことを言った。
「そうなんですよね。寒いとどうしても冷たいサンドイッチは避けちゃいますよね」
「そ……そ、そうじゃ……なくて……」
誤解を解きたくて焦った。極度の口下手である千尋は、これまでも言葉足らずのせいで発言の意図が正しく伝わらないことが何度もあった。けれどそれをあえて訂正することはなかった。私の発言の意図はあなたの解釈とは違うんですと言って、相手の気分を害することが怖かったし、訂正しようとしたところでうまく話せる自信もないからだ。けれど今はどうしても自分の気持ちを伝えたかった。怜には自分を正しく理解してもらいたいと心の底から思った。それは千尋が初めて味わう気持ちだった。
「そうじゃなくて……あなたが、寒いから」
怜は最初、意味がわからないという顔をした。やがて吹き出して「バカね」と言った。
めまいがした。
バカなんて言われたら、普通はムッとするものだ。それなのに怜が言う「バカ」には、脳を溶かすほどの甘い響きがあった。
それはこの「バカ」が、怜が嬉しい時に思わず口にしてしまう口癖だからだと千尋が気づくには、もう少し年月を待たなければならない。この時はただ自分にはMっ気があったのかと、それこそバカな勘違いをするほか千尋には術がなかった。
「じゃあ、あったかくなったらまた注文してね」
怜はそう言って去って行った。千尋は桃色の花に包まれて呆けた顔でそれを見送った。怜がいなくなってからようやく「はい」と返事をしたせいで、その時たまたまそばを通った女性社員によって、千尋はしばらく「幻覚が見えている」というあらぬ噂を立てられた。
あったかくなったらというのは何月何日になったらということだろうかと真剣に考えた。「春分の日」と「四月一日」の二択まで絞り、うんうん唸って検討した。もちろん早い方が良かったので春分の日にしようと思ったけれど、もし怜が四月一日だと思っていたら春分の日に入った注文を見て、辛抱の足らない男だと思うかもしれない。熟慮に熟慮を重ねて最終的に四月一日に決定した。カレンダーの四月一日に丸をつけた。丸をつけてから、その日が会社の創立記念日で休みであることに気づいた。創業者を恨んで手が震えた。創立記念日こそ働くべきではないかと思った。やむなく予定を四月二日に変更した。
四月二日を心待ちにしていた千尋に神は残酷な運命を与えた。辞令が出たのだ。四年目に入った千尋は、それまでいたビルから二駅離れたところにある別の営業所に異動することになった。これではもうサンドイッチを注文できない。四か月も待ったのになんて仕打ちだと、ベッドに突っ伏してバタバタともがいた。
パン屋に会いに行って異動になったことを怜に告げようかと思った。名前を覚えていてくれた怜だから、きっとあたたかくなったらまた千尋がサンドイッチを注文すると思っているだろう。別に約束したわけではないけれど、やはり何も言わずにいなくなるのは失礼ではないかと思った。
けれど一方でそれは思い上がりな気がした。また注文して、という怜の言葉はおそらく社交辞令だ。それをまるで自分を待ってくれているかのように思い込んで、わざわざ異動になりました、なんて告げに行くのは自意識過剰な気がした。
けれど実はこれらは悩むだけ無駄な問題だった。千尋には根本的な問題があった。
パン屋に行く勇気がない。怜に異動を告げることで彼女がどう思うかなんて、パン屋に行ける勇者だけが持てる悩みだ。千尋には思い上がる資格すらなかった。
どうしていいのかわからず悶々としているうちに新しい営業所で働き始めていた。自分が情けなさすぎて深く落ち込んだ。
もう怜に会うことはないのだと思った。そう思って初めて自分は本当に怜が好きだったのだと思い知った。つりあわないとか十分幸せだとか理屈をこねて自分の気持ちをごまかしてきたけれど、本当は怜が好きだった。言葉を交わせて嬉しかった。名前を覚えていてくれて胸が震えた。毎日会えて幸せだった。嬉しくてかわいくて大切で、日々の生活の中で怜が何にも代えがたい存在だった。会いたくて会いたくてたまらなかった。
毎日夢に見るほど会いたくて、やっぱり勇気を出してパン屋に会いに行こうとも思った。けれど千尋にとって「パン屋に行けば怜に会える」というのは、「アメリカに行けばバラク・オバマに会える」というのとほぼ同義だった。そのくらい遠くて、正当な理由が必要で、そしておそれ多いことだった。
不毛な片思いを続けていた千尋に奇跡が起こったのは、それから八か月ほどした十二月の半ばのことだった。
奇跡は美容院で起こった。ある日美容院を訪れると、入り口から怜が出てきた。最初は見間違いだと思った。会いたいと強く願うあまり幻まで見るようになってしまったのだと。その証拠に千尋の知っている怜は栗色の髪だったのに、目の前の女性の髪は黒かった。
「影山さん?」
そう声をかけられて、やっぱり怜なんだと息を飲んだ。目の前に怜がいる。まだ名前を覚えてくれている。何もかもが信じられなかった。怜の後ろから千尋の担当美容師の万里が出てきて「え、もしかして二人、知り合い?」と千尋と怜を見比べた。怜は頷くと千尋のそばに寄って来て「お久しぶりですね」と極上の笑顔で言った。
「怜ちゃんのこと好きだろ」
万里には一瞬で見抜かれた。
万里はどう思っているか知らないけれど、千尋にとって万里はこの世で一番心を開ける相手だった。万里は昔から千尋を雑に扱うが、決して見捨てない。「怜ちゃんかわいいもんなあ」とニヤニヤしながら千尋の髪をカットする万里が、この事態を黙って見ているはずがなかった。
万里のおせっかいで年明けに三人で飲みに行くことになった。怜と万里はかなり親しいようで、そのおかげか三人で飲もうという万里の誘いを怜はあっさり承諾したらしい。万里は千尋と違い、かっこよくて社交的だ。自分とは正反対の万里と怜の仲がいいという事実はますます自分に望みがないことを示しているようで、千尋を落ち込ませた。
三人で飲みに行く名目は千尋の誕生日だった。千尋は一月に生まれたことをこの時ほど嬉しく思ったことはなかった。
信じられないことに怜は千尋にプレゼントを用意していた。それはバーバリーのハンカチだった。自分なんかのために怜が時間を割いてプレゼントを用意してくれたなんて、身に余る光栄とはまさにこのことだと思った。感謝してもしきれないのに千尋が言えた言葉といえば、蚊の鳴くような声の「ありがとう」だけだった。その後もまともに会話などできるはずもなくて、ただ万里と怜が楽しそうに話すことに「へえ」とか「そう」と相槌を打つだけで夢のようなひとときはあっという間に終わってしまった。
もらったハンカチはもったいなくて使えなかった。ベッドの上に横になって、何度も包装から出して、またしまって、また出しては喜びをかみしめた。大切に引き出しにしまって、また取り出して、結局いつもそばに持っていたくて、包装に入れたまま通勤鞄にそっとしまった。会社で嫌なことがあってもこれを見れば元気になれる気がした。
二月には万里の誕生日会があった。交友関係が広い万里の誕生日会は毎年バーを貸切にして行われるが、千尋が参加したことはなかった。人が多く集まる場所は苦手だ。知らない人とまともに話ができるとは思えないし、きっと居心地悪い気持ちを抱えたまま一人で過ごすことになるだろう。考えただけでも憂鬱だ。けれど頭には万里の声が響いていた。
「怜ちゃんも来るぜ」
結局その日仕事を終えた千尋はスーツのままでバーに駆け付けた。
予想通り、千尋はほとんどの時間をバーの隅で一人きりで過ごした。怜は万里やその友人たちと楽しそうに話していた。もちろん万里にプレゼントを用意してきていた。
怜を少し遠い人に感じた。千尋の知らない人たちと活発に言葉を交わす怜はとても楽しそうで、やっぱり自分は怜にはつりあわないと痛感した。
サンドイッチを配達してくれていた頃の怜は、その瞬間は自分だけの怜だった。自分だけの言葉に答え、自分だけに言葉をかけてくれた。けれどバーでの怜は、千尋が見たこともないような仕草や笑顔で大勢の人に囲まれて楽しそうに盛り上がっていた。そしてそれが怜にはとても似合う気がした。怜は次々に色んな男から声をかけられて、千尋のように一人になることは一瞬たりともなかった。胸がしんと静かに痛んだ。
こういう気持ちになることは初めてではなかった。内向的な性格なので、恋愛ごとに限らず、友達といても職場の飲み会に参加してもこういう孤独を感じる場面は何度もあった。そしてその度に傷ついた。どうしようもない自分の性格を悲しく思った。輪の中心にいる怜を見て、身の程知らずの人を好きになってしまったなと下唇をかみしめた。
ところが何がどう転んでそうなったのか千尋は怜を送ることになった。誕生日会は翌朝まで続くが怜は日付が変わる前に帰るつもりだったらしく、引き止める男たちに手を振って千尋と一緒に店を出た。
「影山さんちは……逆方向ですね。終電ぎりぎりになっちゃうし、ここまでで大丈夫です」
怜はバーの最寄駅まででいいと言ったけれど、千尋はたどたどしく怜の最寄駅まで送ると答えた。本当は心配だから家まで送り届けたかったけれど、言い出せるはずがなかった。
電車はものすごく混んでいて、千尋と怜は必然的にかなり接近することになった。もしかしたらこれが嫌で怜は送ることを断ったのではないかと悲しくなった。触れてしまわないように気をつけながら、他の人に怜が潰されないようにかばうのは大変だった。満員電車の中ではもちろん会話もままならなくて、怜から目を逸らして駅に到着するのをじっと待った。早く着いてほしいと思うと同時にいつまでも着かないでほしいとも思った。
酒臭い車内で怜がふと何かに気づいたように千尋を見上げた。顔を向けるとあまりに近くて一気に頭に血がのぼった。
怜が小さな声で「これ……」と千尋の鞄を指さした。そこには怜からもらったハンカチの包みが少し顔を出していた。
「あの日から、入れっぱなし?」
囁くように尋ねられ、意味がわからなくて何度もまばたきをした。
やがて質問の意味に気づいて慌てた。
怜は包装に入ったままのハンカチを見て、千尋がもらったことを忘れて鞄に入れっぱなしにしていると思ったのだろう。せっかく贈ったのに使ってもらえないどころか一カ月以上も放置されていると思ったのだ。どうしよう。絶対に傷つけてしまった。
「ち……ちが……」
否定しようとしてうまく言葉が出て来なくて、鯉みたいにぱくぱく口を動かした。言いたいことが一気に喉まで上がって来て、どれから口に出したらいいのかわからなかった。
もったいなくて使えなかったんです。あなたからもらったものは包装まで大切で、そのままの状態で持っていたかったんです。いつでも眺められるように毎日鞄に入れて持ち歩いていたんです。
「ま、毎日……」
ようやくそれだけ口にしたけれど、毎日持ち歩いていたなんて聞いたら気持ち悪がられるのではないかと思ったら先を続けられなくなった。けれど怜はまっすぐ千尋を見つめたまま続きをじっと待っていた。
「いつも……そばに、も、持っていたくて……」
もうどうにでもなれと口にした時だった。
電車が大きく揺れて怜が千尋に倒れ込んできた。反射的に抱きとめたことで体が密着してしまい、思わず天を仰ぎ見た。肩に怜の顔が乗っていた。思考が止まった。心臓がものすごい速さで打った。どうしていいのかわからず、体を引くべきか、腕を離すべきか、さんざん悩んだ挙句、結局一ミリも動けなかった。
電車がまた速度を安定させたことを確認すると、怜を支えていた腕を離して静かに上に上げた。痴漢の冤罪を防止するために効果的な姿勢だ。わざと触ったんじゃありません。やましい気持ちなど持っていませんと、心の中で何度も唱えた。
やがておかしなことに気がついた。電車は安定した速度で走っているのに、なぜか怜の体は千尋にもたれかかったままだった。電車はたしかに混んでいるけれど、それにしてもくっつきすぎではないかと思った。千尋は身を固くして埃が溜まったエアコンの吐き出し口をひたすら見つめ続けた。心臓がドキドキとうるさくて息苦しかった。だからその爆音に怜がそっと耳を傾けていることになんて気づく余裕はまるでなかった。
結局千尋は怜をマンションまで送った。怜がそう頼んだからだ。
「もし終電がまだ大丈夫だったら、マンションまで送ってもらえませんか。駅からそんなに遠くないし……私、もう少し影山さんと話したいな」
もちろん部屋に上がることはなく、そのまま帰った。駅に戻る道の途中、何度も立ち止まって考えた。どうして怜は突然マンションまで送ってほしいと心変わりしたのだろう。しかも最後には「送ってくれてありがとう。おやすみなさい」と言って腕にまで触れてきた。何がどうなっているのかわけがわからなくて、頭を抱えてうずくまった。
そばを通った酔っ払いが「兄ちゃん、気分でもわりいのか」と声をかけてきた。悪くないです。むしろいいです。でもわからないことだらけで吐きそうです。嬉しくて苦しくて胸の中がぐちゃぐちゃで、いっそ全部吐き出してきちんと整理できたらいいのに。
公園で顔を洗って冷静になって駅に着くと終電は終わっていた。ふらつく足で長い列に並び、タクシーに乗った。窓の外のネオンがまぶしすぎて目を開けていられなかった。
頭が端から桃色に染まりそうになるのを押し戻すのが大変だった。そんなはずない。だって理由がない。浮かれた推測が湧き出てくるたびに一つずつ丁寧に潰した。現れては潰す。現れては潰す。まるでモグラたたきみたいだと思った。
それから一週間ほどして万里から怜の連絡先を受け取った。「怜ちゃんが会いたいって言ってたぜ」とニヤニヤした顔で言われ、四回聞き返して呆れられた。
意味がわからなかった。また浮かれそうになって、ありえないと自分に言い聞かせた。
さんざん悩み抜いた挙句、そうか、きっとお店に来てくださいという意味だと結論づけた。怜はこの三月でパン屋を辞め、春から本屋に就職すると言っていた。きっと最後にパンを買いに来てほしいのだ。怜の店はパン屋であってキャバクラではないけれど、綺麗な女性がさえない男に「会いたい」なんて言うのは、「お店に来てください」「売り上げに貢献してください」という意味であることは、この世の摂理だと思った。
だからお金をたくさん下ろして、勇気を振り絞って店に行った。
思った以上の洒落た店構えに怖気づいた。街のパン屋さんだと思っていたのに、大きなオフィスビルの一階の外国のような外観の店だった。着飾った客やスーツ姿の男女が次々に出入りしていた。足が震えて店の前で長い時間立ち尽くした。
土曜日だった。よく考えたら怜は週末にもバイトに入っているのだろうか。もしも店に怜がいなければ出直さなくてはならない。今日ここへ来るまでに一生分の勇気を使い果たしてしまったのに、出直すとなったら一回死ななければならないではないかと愕然とした。
怜がいてほしいと願う反面、いたらどうしようとも思った。何と言葉をかければいいんだろう。「会いたいって聞いたから来ました」とでも言えばいいのか。なんて上から目線の発言なんだ。できない。そんなことできない。
いなかったらどうしよう。いたらどうしよう。動物園の熊のようにパン屋の前をうろうろした。自分がバカになった気がした。そういえば去年の今頃、怜に「バカ」と言われたんだった。怜は正しかったな……と間抜けな顔で空に目をやると「影山さん!」と突然後ろから声がした。怜が店の入口から飛び出してきた。
千尋は固まった。怜がすぐそばまで駆け寄ってきた。「あ」とか「あの」と何度か繰り返し、ようやく「万里が……」と口にすると、それっきり何も言えなくなってしまった。
「万ちゃんから伝言を聞いて来てくれたの?」
怜は首をかしげた。千尋は「はい」と弱々しく頷いた。怜がくすくす笑う。
「たしかに会いたいって言ったけど、お店に来るとは思わなかったな。あれ、デートしたいって意味だったのに」
デート? 意味がわからなくて、思わず「万里と?」と問い返した。
「なんでこの流れで万ちゃん?」
怜は呆れたように笑った。
「私がデートしたいのは、あなた、です。影山さん」
怜の人差し指が千尋の胸にトンと当たって、まるで矢が刺さったような衝撃が走った。
その瞬間、千尋は完全に恋に落ちた。
今までは、ふわふわと浮いているような気分だった。怜が好きで、ちょっとしたことに喜んでは落ち込んで、まるで紐のついた風船のように空へ舞おうとしては引き戻されながら、ふわふわと空を漂っていた。
けれど今この瞬間、千尋はどこか得体のしれない場所に落ちた。ストンと音がしたと思えるほど、それはもう見事に落ちた。落ちてみるとそこはとても落ち着いた場所だった。ずっとふわふわと不安定だったのに、落ちてからは地面に足がついてまっすぐに立つことができた。怜が好きだ。すごく好きだ。何に臆することもなくただ素直にそう思えた。
これが恋なんだ。恋とは落ちるものなんだ。途端に世界が色を変えた。
ハート形の心臓に矢が刺さって、千尋のまわりを天使が飛び交う。鐘の音が狂ったように鳴り響き、世界中の光を集めたようなまばゆいきらめきがあたりに降り注いだ。天使の数はどんどん増えて、ピーともチーともつかない高い声で千尋に訪れた奇跡を祝う。
けれど一番天使に見えたのは、目の前の焦がれ続けた女性だった。
ただ毎日叶うはずないと言い聞かせながら、それでも想い続けた愛しい女性だった。