22話 壊れていたこの世界で
母親の成り立ちです。
私はごく普通の家庭に生まれた。
貧乏というわけでもなく、裕福というわけでもない家で育った。
欲しいものを全て買ってもらえたわけではないが、生きる上で必要なものは、揃えて貰えるぐらいの家庭環境だった。
ただ、私の好きになった人は、普通の人ではなかった。
大学で出会った。一つ上の先輩。
彼のその優しい表情と、甘い声に恋をした。
観覧車でプロポーズをされ、2人での生活が始まった。
苦しい時も、辛い時も、彼がいれば挫けることなく頑張ることができた。
あの頃は、晴れた空を見上げて「生きている」ということが、実感できた。
桜の木が綺麗な、春の季節。
彼との子が生まれた。
幸せになって欲しい、という思いと彼の名前を合わせて「幸太郎」と名付けた。
あれから数年後。
人生とは良いことばかりが続くとは限らない。
晴れの日があれば、雨の日もあるという事だ。
家で夫の帰りを待っていたあの夜。
我が家に一つの電話がかかって来た。
「飯竹さんが倒れました。すぐに病院へ駆けつけてください。」
元々、夫は体が弱かった。
もうじき生まれて来るであろうお腹の子の為に、無理をして、仕事をしていた事が体に響いたのだろう。
程なくして夫は亡くなった。
人とは簡単に死ぬものであるということを学んだ。
昨日まで一緒に居た暖かさも。
朝まで聴くことのできた、彼の声も。
全てが夢の中へと消えていった。
死とは、マイナスではなくゼロである。
夫を早くして亡くしたこの悲しみは、限りなくマイナスに近かった。
もう、いっその事、幸太郎と共に死んでしまおうか……
そんなことを考える毎日だった。
大きくなったお腹に、手のひらを合わせる。
命が生きている感覚がわかる。
夫が最後に私に残してくれたものが、確かにそこにあった。
これからは、子供達の為だけに生きていこう。
それを理解した瞬間。
今までの積もった悲しみが全て私に降り注いだ。
床は濡れ、私の声が、体に響く。
どのくらいの時が経っただろうか……
一生分の悲しみと涙は出し切った。
私は、本当の母親になる覚悟を決めた。
もう、子供達の前では、弱音を見せない。
涙は流さない、強い母親になろうと、そう決めたのだ。
雪が降り止まない季節に、娘が生まれた。
人に愛される子に育って欲しい。
そういう願いを込めて、「莉里」と名付けた。
終わる命もあれば、始まる命もある。
死とは、一瞬であるが生きるというのは、一生である。
出来る限りの愛をこの子たちに注いでいこう。
そう考えていた時、また、悲劇は起こる。
息子の幸太郎に心臓の病が発覚したのだ。
元々、体の弱かった夫の子であるから覚悟はしていた。
医者によると、恐らく遺伝であろうとのこと。
学校へは行かず、経過観察が必要らしい。
友達と遊ぶことも出来ず、話すことも出来ない。
日に日に弱って行く幸太郎の姿に、私の心は耐える事ができなかった……
心臓のドナーを探すための活動を行うが、中々、提供者は現れない。
心臓のドナーを見つけるのは、砂漠の中で針を探すくらい難しい事らしい。
いつの間にか、息子の姿と、夫の姿を重ねてしまう自分がいた。
もし、このまま死んでしまったら?
私は、息子の名前通りのことをしてあげられただろうか……
息子は虚な目で、私にこう言った。
「ママ、僕は、ママの子になれて嬉しかったよ…次、生まれ変わる事があっても、もう一度…ママの子になりたいな……」
その日以来、息子の容態が安定しなくなった。
医者によれば、このままドナーが見つからなければ、命はもう長くないらしい。
泣きたかった。神様は、また私から全てを奪うのだろうか…
一つを乗り越えてもまた一つ、別の壁が立ちはだかる。
これがもし、人生であるというのであれば、私は生まれてこなければよかったのかもしれない。
本当に苦しい……
「ママ?」
繋いだ手先で、娘の悲しそうな表情が目に入る。
そうか、私はこの子たちに最後まで愛を注ぐと、そう決めたのだ。
やれる事は全てやってやる…!
その日、私は先生に掛け合った。
どんなことをしてでも良い!
息子を助けて欲しいと。
先生の表情が曇る。
硬く閉ざされた口から驚きの言葉が飛び出た。
それは、私がこの一年間待ちに待っていた、あの言葉だった。
「心臓のドナーが見つかりました。」
その言葉を聞いた途端。全てが報われたような気持ちになった。
だが、医者の話はこれで終わりではなかった。
「ただ、一つだけ重要な問題があります。心して聞いてください。」
心臓の手術なので、体に大きな負担が掛かることは覚悟をしている。
成功率がそれ程高くないことも。
そういう事だろうと、その時はそう思っていた。
だが、医者が次に口にした言葉は、私の常識の全てを覆すものであった。
「ドナーの提供者は、狼男です……。もしかしたら、幸太郎君に大きな影響を与えてしまうかもしれません。」
医者の顔がさらに曇る。
「狼男とは、本来、満月の夜に人の脳を喰らってその形を保とうとします。人ならざる者、それが狼男です。
それが、もし、人になってしまった場合。心臓が幸太郎君に与える、影響力とは、私達に想像する事が出来ません。
それでも、心臓の移植をしますか?」
話を聞いた時、私は話の全てを理解する事ができなかった。
狼男?ヒトの脳を喰らう?
ただ、一つ気になることは、影響力だ。
もし、息子が狼男になってしまったら?
人を殺して、脳を喰らうようになってしまったら?
息子が殺人犯になってしまったら?
嫌なことばかりが頭をよぎる。
これらの想像は、必ずしも起こることではない。
それでも…私は、それでも、息子に生きていて欲しい。
知らないままでいい。
貴方は苦しまなくていい。
辛い時は、私が寄り添うから。
壊れていたこの世界で、生きる希望をくれたのは貴方だから。
責任は私がとる。
私はこうして覚悟を決めた。
「先生。お願いします。息子を助けてください!」
先生は、少し考えた後、深いため息をついた。
「わかりました。私も責任を負いましょう。幸太郎君がもう一度、幸せになれるようお手伝いをします。」
こうして、息子の第二の人生が始まった……
次回から話が進め始めます。




