時間
「鍵がついてる」
夜遅く実家についたとき、目を見開いて妻は言った。「去年はなかったのに」
確かに、玄関の古ぼけた格子戸には、真新しいラッチ錠が取りつけられている。
妻の実家は北陸の田舎町のはずれ、杉の木がこんもりしげった小さな山の中腹にある。ここは、時がとまった家だ。いまどきトイレはくみとりで、風呂は薪。鈍くみがかれた板張りの廊下と、仏間をかねた広い座敷。
縁側のガラス戸の向こうに庭があって、地形を利用した築山と、池をめがけて雪が降る。風に流され飛ぶように舞う北国の雪とはちがう。しめっていて重く、つぶが大きい。地面に落ちるまでが速い。
茶の間の掛け時計が、おどろくほど正確に今の時刻をつげた。
「ねじ巻き式だっけ?」
私がたずねると、妻は思い出そうとするように宙をにらんだ。「電池じゃなかったかな」
義弟が首をふった。
「ねじ巻き式だよ。時間は毎日合わせてるんだ」
青いタイルの洗面台に作りつけられた歯ブラシ立てには、子どもの手跡で家族の名前が書かれたまま。──四十年以上も、そのまま。
先日、この家はあるじを失った。
何百年も続いた旧家だそうだ。昔の家はかやぶきで、大きな写真が金縁の額におさめてかざってある。文化財に指定されると手を入れられなくなるため、義父の代に建てかえたらしい。還暦に近い妻が小学生のときだ。
義父の職業は、農業と、建具師と、山の上のお寺の『役僧』だった。役僧とは、葬儀などで導師につき従う補助の僧侶のことだ。
死出の旅路へは、義父が何枚も持っていた美しい袈裟と衣をまとわせた。高価なものだが、「残しておいてもしかたがないから」と義母は言う。
申し訳ないなあ──と、私は時々思っていた。北海道に住む私たち夫婦には子どもがいない。東京で暮らす義弟は独身だ。もしも一人でも孫がいたら、子どもを連れた私たちがたびたび帰省していたら、この家はどうなっていただろう。義父母は孫のために、風呂だけでも新しくする気になったのではないか。とても質素でつつましやかな人たちだから、わからないけれど。
遠くない未来、この家はとだえる。かつては庄屋をつとめたこともある、古い古いこの家が。
「そんなには集まらんだろうね。……さんは、手広く商売していたわけじゃないからな」
近ごろはどこのうちでも自宅で葬儀をせず、市街地にある葬祭ホールを使うという。ホールの世話をしてくれた義父のいとこが、電卓を片手にそっと眉をよせた。やんわりと家族葬を勧められたのだが、義母はきっぱり断った。
「最後はちゃんとしてあげたいんよ」
通夜の夜も、葬儀の朝も、雪だった。昔から雪国といわれるこの地方でも、今の時季につもるのはめずらしいと聞く。
火葬場へ向かうマイクロバスの窓から、外をながめた。なだらかにつらなる山々がこちらを遠まきにしている。常緑樹のあいだに、紅葉のなごりがのぞく。低く立ちこめた薄灰色の雲が、ふもとまでを覆い隠してゆく。
幹線道路の中央線にそって水がふき出し、つもった雪をとかしていた。ファストフードのロゴマークのような頂上の丸いMの字の噴水が、ずっと、ずっと、道の先まで等間隔に続いている。
ひと通りの儀式を終えた私たちは、細い坂道をのぼって家に帰った。義母、妻と私、義弟の四人で茶の間の小さなこたつをかこみ、古い写真の整理をした。
──褪せた一枚のカラー写真。義母が撮ったのだろうか、昔の家の縁側だ。あぐらをかいたまだ若い義父が、右腕を幼い娘へ、左腕を赤ん坊の息子の体へ、かかえこむようにして回している。日ざしは明るい。義父は視線を子どもたちに向けて、やわらかな笑みをうかべていた。
2022年に三回忌編を投稿しています。
『続・時間』
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