飛び降りて数年後に目を覚ました少女の話
死にたくて死にたくて死にたくて仕方なくて飛び降りた私は偶然にも生き延びて長い間眠り続けた。
その間ずっと夢を見ていただけだった。何か漠然と恐ろしいものを持っている誰かに追われる怖い夢を。真っ暗な空の下、私は崖の上に立っている。誰かに追われてそこへ辿り着いた。まるで最初からそこに来ることが決まっていたかのように。びゅうびゅうと風が唸り私の髪を激しく揺らす。崖の上には大きな紅葉の木と桜の木が一本ずつたっていてその周りを二羽のウサギが跳ねていた。その光景を見慣れているようで初めて見たようで、えも言われぬ感情になる。崖の下を覗き込むと白波が何度も崖にぶつかっては引いてを繰り返していた。素直に怖いと感じて体が震える。でも「奴」が来るかも知れない。もう逃げ道はない。口を一文字に結んで瞬きをした。そうしてゆっくりと翼を広げるみたいに両手を広げて、紺色の深い深い海に身を投げる。一瞬空を飛べた気がした。尾の長い真っ赤で立派な羽をもつ鳥が飛び、薄い雲が金色の満月に照らされている。空を飛んだ一瞬でそんなものが見えた。入水とともに水しぶきが派手に飛び散り、ドボンと音を立てて体が水と泡に包まれる。そんな夢を繰り返し見ていた。何度同じ夢を見ても、「奴」の正体は分からなかった。
それはまるで目覚まし時計のように、しかし音は小さく、細かく一定のテンポで電子音が聞こえ、私は夢から覚めた。ずいぶん長く眠っていたようで、目はなかなか開かず、何度か目を擦った。最初に見たものは殺風景な柄の板の集合体ーー病室の天井で、次に見たものは自分の体に繋がれているたくさんの管とモニターだった。
「堅田さん……?」
側で点滴を触っていた看護師さんが信じられないといった顔で呟く。ああ、確かに私は「堅田さん」だわ。看護師さんは「先生!」と早足で病室を後にした。
ややあって医師らしき人が急いでやって来て私の様子を見た。
「信じられない……これは奇跡だ」
お医者さんはそんなことを呟いた。看護師さんも感動したような顔で口元を両手で隠していた。
「お名前、言えますか?」
お医者さんは訊いた。
「……堅田東雲」
「歳は?」
「十二歳」
先生は驚いた顔をした後、にっこり笑って「大丈夫。少し混乱するかもしれないけど大丈夫だから。親御さんに連絡するね」と言って病室を出て行った。
一人になって私は自分の手のひらをまじまじと見た。思っていたよりも手のひらは大きく、指はすらっと長く、大人みたいな手はまるで自分のものではないような気がする。腰まで伸びた髪の毛が眠っていた期間の長さを物語っていた。腕から伸びる管の先も見た。モニターにはいくつかの数字と算数で習った折れ線グラフみたいな線が消えては表示されてを繰り返していた。側にあるテレビ台つきのテーブルに置いてあった入院のしおりを手に取って読もうとしたけど読めない漢字がたくさんあって諦めた。自分の右側には大きな窓があって、日に照らされている庭が見えた。庭には何人かの人が散歩しているのが見えた。ここはどこの病院だろう、私はどうしてここにいるんだろう、たくさんの疑問が浮かんだ。
「しの!」
バタバタと大きな足音を立てて女の人が病室に入って来た。
「お母さん、お静かにお願いします」
「す、すみません」
女の人はひどく心配したような顔をして私に近づいた。
「し、しの……?」
女の人は持っていたバッグを床に落とし、その震えた手が私の頰に触れた。
「大丈夫なの?生きているのね?ああ、良かったーー」
女の人の目から流れた頬を伝う一筋の涙を目で追った。
「だぁれ?」
純粋な疑問だった。私がそう言った瞬間、時が止まった。先生と看護師さんの顔は引きつり、女の人の手はすっと私から離れた。
「しの、私が分からないの?」
女の人はとても悲しげな顔をしたかと思えば、唇をわなわなと震わせて叫んだ。
「あなたのために!この三年間!三年間も!したくない仕事もして!あなたが意識を取り戻すとそう信じて生きてきたのに!意識を取り戻しても私のことが分からないなんて、そんな、そんな仕打ちないわよ!ひどいわ!あんまりよ!私はあなたのお母さんなのに!」
「お母さん、落ち着いてください。東雲さんは記憶を取り戻すのに時間が必要なようです」
「時間ってどれくらいよ!」
「落ち着いてください。ゆっくり気長に待ちましょう。それしかありません」
先生になだめられた女の人ーーお母さんは乱暴に髪をかきあげて溜息を吐いた。
「これから長い治療が始まります。いいですね?」
先生はそう言った。私はお母さんをぼんやりと見ながら小さな声で「はい」と答えた。
それから私の「治療」が始まった。
「自分のこと、何か思い出せることはあるかい?無理に思い出そうとしなくていいから、頭に浮かんだことをゆっくり教えて欲しいんだ」
主治医の先生と担当の看護師さんはそれぞれ同じ質問を私にした。主治医の先生からは「面談」の時に、看護師さんからは点滴の交換の時に。
「何も、思い出せません……」
私の答えはいつもそうだった。本当は何度も何度も見たあの夢の記憶はあった。何かに追われて崖に追い詰められて海へ飛び込んだあの夢は。けど話す気にはならなかった。そんなに重要な記憶でもない気がした。
「ねえ、お前どこが悪いの」
いきなりそう尋ねられて顔を上げると、目の前に金髪のお兄さんが立っていた。びっくりして反射的に、ヒィと小さく悲鳴をあげた。お兄さんは病院の庭のベンチのそばで車椅子に座って本を読んでいた私に声をかけた。
「ねえってば」
「あなただぁれ」
「俺はショウ。お前は?」
「東雲」
「東雲か」とお兄さんは呟いて、「お前どこが悪いの」と同じことを訊いた。
「どこも悪くないわ」
「嘘つけ。どこかが悪いから病院に入院してるんだろ」
「そうね、じゃあ私はどこが悪いか分からないから入院しているんだわ。強いて言うなら頭が悪いかしら」
「お前面白いな」
お兄さんは笑った。お兄さんの金髪の毛先が太陽の光が当たり透き通っていて綺麗だと思った。お兄さんはごく自然な流れで私の隣にあるベンチに座った。
「お兄さんはどこが悪いの?」
「心」
「へぇ。心なんて目に見えないのにどうやって治すの?」
「ひたすら先生に話すんだ。俺の人生の話とか今感じていることとか。他には心理テストを受ける。絵を描いたり文章を書いたりするんだ。あとは薬を飲んで様子を見る」
「それで治るの?」
「分からない。けどきっとそうするしかないんだ」
ショウは悲しそうな顔をして俯いた。私も同じように俯いてショウの手を見つめた。綺麗に切り揃えられた爪の輪郭を目線でなぞった。
「俺、近くに同じくらいの歳の子がいないからお前のことちょっと気になった」
「同じくらいって言っても、私まだ小学六年生よ。お兄さんは高校生くらいに見えるけど」
「……俺にはお前も高校生くらいに見えるけど?」
「何言ってるのかしら」
大人っぽいと言われたみたいで心がこそばゆくなって思わずふふっと笑った。
「お前いつから入院してんの?」
「それが分からないの。気付いたら病院にいたって感じ」
「倒れたのか」
「そうかもね。でもそうだとして、どうして倒れたのか、倒れる前に何をしていたのか思い出せないのよ」
「大変そうだな」
「そうよ、治療もよく分からない機械に身体中を見られたり血を取られたり手首足首と胸に管を繋がれたりするの。ご飯もまだ少しずつしか食べれないから点滴をしなきゃいけないし、自分の力では歩けないから車椅子を使わなきゃいけないしリハビリも受けなきゃいけない」
私は「検査」と「治療」のことを思い出して自分の体を抱きしめた。
「まあ、頑張ろうぜ。お互い」
「そうね、頑張りましょう」
突然、どこからかショウを呼ぶ声が聞こえて、ショウは立ち上がった。
「呼ばれた。また来る」
ショウはそれだけ言い残して庭を去った。私はショウの後ろ姿を見えなくなるまで目で追いかけた。ショウは名前を呼んだ人らしきおばあさんに駆け寄っていた。
私も話し相手がいなくなったし今日のところは早めに病室に戻ることにした。病室で夕飯を食べて、夕食後のお薬を貰った。長い廊下の端、壁一面が窓になっているところ、そこに映る自分の姿を見て、私は持っていたコップを床に落とした。中身がこぼれ出て、車椅子の車輪の下に水たまりができた。その時まで自分の姿をまともに、意識して見ることなんてなかった。
「あなた、だぁれ……?」
コップを持っていた手で私は自分の頰に触れた。外はすっかり暗くなって、それによって窓に反射した自分の姿は、私が知っている私じゃなかった。私は病室まで急いで車椅子を動かして駆け込んで、入ってすぐのところにある鏡で自分の姿を見た。
「そんな、どうして」
私が知っている私はクラスで二番目に背が低い小柄な女の子。でも鏡に映っていたのは、もっと大きくなって胸もある、高校生くらいの女の子。
「……俺にはお前も高校生くらいに見えるけど?」と、今日ショウが言っていたことが頭をよぎる。こんなことってーー思わず立ち上がって鏡に映る自分の体を見た。
そこで私の意識は途絶えた。最後に聞こえたのは自分の体が床にぶつかる音と「堅田さん!」と私を呼ぶ、看護婦さんの声だった。
「東雲ちゃん、頭は痛まないかい?」
目が覚めた私に主治医は訊いた。
「ちょっと痛い……」
「後で薬をもらってくるよ。倒れる前の記憶はあるかい?」
「鏡で自分の姿を見たわ。なんでか分からないけど、私、急に成長してる。私、小学生なのに。ねえ、どうして?私はどうなっているの?」
首を掻きむしる私の手を握って、主治医は言った。
「落ち着いて聞いてほしい」
主治医は真剣な顔をしていた。
「東雲ちゃんが運ばれてきたのは君が十二歳、小学六年生の時のこと。それから三年間君は目を覚まさなかった。それが突然目を覚ましたのがついこの間のこと。君の意識は十二歳で止まっているけど眠っている間にも成長して体は十五歳になっている。理解できるかい?」
「言っている意味はわかるけど理解は難しいわ」
「そうだろうね。今はまだそれでいいんだ。ゆっくり治療して普通の十五歳になろう」
そこで私はあの夢を思い出した。数年間ずっと繰り返し見ていたあの夢を。
そうだ、お母さんが三年間も、と言っていた。
「先生、あのね」
そう言ったところで主治医の胸ポケットに入っていた携帯電話が鳴った。主治医はボタンを押して応答する。きっとお仕事の連絡なんでしょう。先生は「すぐ行きます」と答え、チラリと時計を見て電話を切った。
「何か言いかけたかい?」
「いいえ、何も」
「そうかい。じゃあ今日はもうおしまい。また明後日面談をしよう」
そう言って主治医は診察室を出て行った。
その後しっかり歩けるようになるためにリハビリを受けた。三年間ずっと眠っていたせいで筋力はほぼなくなっていた。ゆっくりと歩けるようになるまで時間がかかった。
「お前、今日元気ないな」
「そうなの。だから放っておいて」
「ばあちゃんが元気ない奴がいたら放っておくのも優しさだけどそいつの話を聞いてあげるのもまた優しさだっつってた」
私は悲しい顔のままショウの方を向いた。
「何があったんだよ。話せ」
命令口調でも、おばあちゃん思いのショウは優しかった。
「私、意識は十二歳なの」
「うん」
「でも体は十五歳なの」
「そうだな」
「だから気持ちがついていかなくて……私、普通の子になれるのかしら、高校に通えるのかしら。みんなは当たり前の生活をしていたのに私はずっと眠っていたから不安で。体ばっかり大きくなって頭の中は小学生のままなんて。どうして私が三年間も眠ることになったのかも思い出せないし、過去のことも、親の顔も、名前さえ思い出せないのよ」
気付けば私は自分の手を噛んでいた。不安だったから。怖かったから。この感情を表す適切な言葉が浮かばなかったから。噛んだところが赤くあざになっていた。
ショウは噛み付いている私の手を口から剥がして握ってくれた。
「思い出さない方が良いのかもな」
ショウは言った。
「でももしお前が思い出したいと思っているのならじきに思い出せるさ。全部。いいことも悪いことも。それまでは焦っちゃいけない」
お前なら大丈夫、ショウはそう言ってくれた。このとき確かにショウとの信頼関係が生まれたような気がした。
それから頻繁にショウに会うようになった。いつもベンチで本を読んでいるとどこからか現れて「よう」とか「おい」とか声をかけてきた。
私はどんどんショウに会うのが楽しみになってきていた。病院の庭で本を読みながらショウを待つ時間の方が病室にいる時間よりも長くなっていた。先生は外でいろんなものに触れることで記憶を取り戻すかも知れないと言っていた。私は相変わらず先生に夢の話はしなかった。
ショウはいろんな話をしてくれた。同室の人のいびきがうるさいから個室に移りたいこと、でも兄弟にも重い病気の人がいてどこか別の病院で入院しているから贅沢は言えないこと、お父さんにもお母さんにもその兄弟の病気は詳しく教えてもらえないこと、病院食はオムライスが美味しいこと、病院内のレストランはハンバーグが美味しいこと、担当の医師は優しいけどお母さんは厳しいこと、お父さんは海外で働いていて滅多に帰国しないこと、それを寂しく思うこと。
「俺、人に会うと人の周りに色が見えるんだ。その人の雰囲気のイメージカラーみたいな。うまく説明できないんだけどさ」
「そうなの?」
「そう。で、お前は紫色。俺の好きな色」
「そう。それは良いことだわ」
「なあ、お前は俺のこと、何色に見える?」
「そうねえ……」
私はショウが言うみたいに人の周りに色が見えるわけではなかったから思いついた色を言うことにした。
「ショウは赤だわ」
「赤か。俺赤も好きだ。流れたての真っ赤な血の色みたいな赤が」
その言葉を紡ぐショウの顔を、目を見てゾクッとした。まるで赤ずきんちゃんを待ち構えているような狼に似たその表情を見て何か思い出せそうな、でも思い出したくないような気がしていた。
「ショウ……?」
恐る恐る声を掛ける。
「どうした?」
ショウはなんでもないみたいな顔で私の顔を見た。さっき一瞬見せた恐ろしい顔ではなく優しい顔で。
「なんでもないの」
「そうか」
ショウは笑っていた。珍しく歌も歌っていた。
「どこの国の歌なの?」
「さあな。でも子守唄なんだとよ」
そう言ってショウは歌い続けた。ショウの優しくて低い声に私はだんだん眠くなり、頻繁に目を擦ったけど結局眠ってしまった。
私を見つけてくれたのは担当の看護師さんだった。すっかり暗くなった空が眠っていた時間の長さを物語っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ただ眠ってしまっていただけ。……ショウは?」
「誰かしら。お友達?」
「そう、友達。近くにいなかった?金髪で肩幅は広くて背はそんなに高くない子」
「見なかったな。友達ならまた会えるよ。さ、病室に戻りましょうか」
私は先を行く看護師さんの後ろをついていった。病室で窓の外をぼんやり眺めながらずっとショウのことを考えていた。
「なあ、お前の人生って、どんな?今、幸せか?」
ある日ショウは真面目な顔をして私に訊いた。今、幸せか。
「よく分からない。悲しいとか苦しいとか今は気持ちが分からない。でもショウに会ってお話ししている時間は好きよ。病院生活で唯一楽しいと思えるから」
「そっか」
ショウは嬉しそうだった。私も嬉しかった。
「でも残念」
「え?」
「俺、退院するんだ」
「あ……そう、なんだ」
ずっとじゃないのは分かってた。ただお話しするだけの関係だったけど、退院という終わりが来るのは分かってた。
「けど、」
彼は笑う。
「またお前に会いに来るよ。まだ外来で定期的に通院しなきゃだし」
「そう、じゃあ、楽しみにしてるわ」
私たちはその時に連絡先を交換した。いつでも連絡を取り合えるように。私にとってショウの連絡先は宝物だ。これがあればいつどこにいてもショウを感じることができる。私が眠っていた三年の間で技術が進歩したから。
それから暑い夏が来て私とショウは熱中症にならないようにとショウの外来の日には私の病室がある十七階の食堂で会うようになった。
大体は私が食堂でショウを待っているのだけど、私が病室のベッドで眠っていたり本を読んでいたりすると、「おい」とカーテンの外から声をかけられる。その声の主がショウだと分かると私は起き上がり、ショウと一緒に食堂に向かうのだった。
私が病院で関わる人が一人増えたのは八月の特別暑い日のことだった。その日は「おい」でも「起きてんのか」でもなく、「しのちゃん」という女の子の声だった。
その子はカーテンの隙間からそっとベッドを覗き込み、「ああ良かった、起きてた」と安堵していた。髪は短く、背は高く、利発そうな子だという印象を持った。
「お邪魔するわね。目を覚ましたってのは本当だったんだ。良かった……」
「あなただぁれ?」
「覚えてないの?私、ニア。同じ小学校の」
そういえばそんな名前のお友達がいたような気がする。でもニアも成長して大人っぽくなっているせいか、小学校の時にどんな顔だったか思い出せずにいた。そんな私にニアは小学校の卒業アルバムを見せてくれた。
「これが私」
ニアは習志野ニアと書かれている顔写真を指差した。その時、何かがパアッと開けた。
「ニア……ニア!思い出したわ!毎日一緒に給食を食べたし体育でペアになってたよね。私が男子たちと打ち解けずにいた時に助けてくれたよね。移動教室の時は一緒に手を繋いで歩いたよね」
思い出は咲き乱れる花のように頭の中でぱあっと咲いて、いっぱいになった。
「毎日一緒に帰ったよね。あの、止まれの標識がある交差点まで。止まれの線まで一緒に歩いたよね」
「そう、そうよ!しのちゃん、やっと思い出した?」
ニアは泣いていた。
「しのちゃんが学校に来なくなってから私寂しくて、何度もここに通ったのだけどしのちゃんは起きなかった。死んじゃったのかと思ってた。そのうち私は中学生、高校生になってしのちゃんのところに来ることもなくなったのだけど、この間しのちゃんのママに偶然会って、しのちゃんが目を覚ました事を聞いて、居ても立っても居られなくて来ちゃった」
「ありがとう、ニア」
私はニアを抱きしめた。ニアも私の背中に手を回してくれた。
「ところで、お兄さんは元気なの?」
「お兄さん……?」
「しのちゃん、お兄さんがいたでしょ?あら、それは思い出せないのかしら」
ニアは驚いたような表情で首を傾げた。
「私、お兄ちゃんがいるの?」
「そうよ、名前はねーー」
ニアが言いかけた時、「失礼するよ」と病室のカーテンが開いた。
「あら、お客さんかい」
そこには主治医が立っていた。回診の時間だった。
「先生!この子はニア。小学生の頃の仲良しさんなの。ニアと話してるとなんだか全部思い出せそうな気がするのよ」
「そうかい。それは良かった。けど一気に思い出そうとしなくて良いんだよ。ゆっくりでいい」
「そうね。わかったわ」
「ニアちゃんと言ったね?ごめんよ、東雲ちゃんは今から診察なんだ。席を外してくれるかい?」
「わかりました、先生。しのちゃんをよろしくお願いします」
「ああ、わかったよ。東雲ちゃん、診察室に来れるかい?」
「ええ、行けるわ」
私はベッドから降りて先生の後ろをついていくことにした。ニアは卒業アルバムを片付けて一緒に病室を出て、診察室の前まで歩くのを手伝ってくれた。そして「また来るね」と言って小さく手を振った。
私と先生は診察室の椅子にそれぞれ座った。先生は私の前に鉛筆と真っ白の紙を置いて言った。
「家族の絵を描いてごらん。思い出せるだけでいいよ」
「知ってるわ、これ。心理テストね?」
「よく知ってるね。どこで知ったんだい?」
「他の患者さんから教えてもらったの。庭で知り合った男の子よ。その子は心が病気なんだって言ってたわ。私もそうなの?」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。だからはっきりさせるためにこうしていくつもの検査をしなきゃいけないんだ」
ふうん、と私は鉛筆を手に取った。
お母さんの絵はすぐに描けた。会って日も浅いから。お父さんの絵もなんとなくこうだったかなって想像半分で描けた。でも、お兄ちゃんだけは描けなかった。描こうとしたら手が震えて、鉛筆の線が揺れる。耳鳴りがして頭が痛くなる。どうしてこうなるのかはわからない。私は鉛筆を置いて手をギチギチと噛んだ。
「東雲ちゃんにはまだ早かったかな」
主治医はそう言ってショウがしてくれたように私の手を握ってくれた。
「私、お兄ちゃんのこと思い出せない」
「うん」
「思い出そうとしたら頭が痛くなって、こうして手を噛みたくなる」
「そうかい」
「苦しい」
「東雲ちゃんが三年前に飛び降りて自殺未遂を図った上に記憶をなくしているのはお兄さんが関係しているのかも知れないね」
「え?」
飛び降り、自殺……?
主治医はしまったという顔をした。
「飛び降りて自殺を図ったことも、覚えていないのかい?」
「覚えて、ないわ……」
「こりゃ参ったな」
主治医はぽりぽりと頭をかいた。
「東雲ちゃんはこの病院の三階から庭に飛び降りたんだ」
頭が真っ白になった。真っ白な頭でたくさんのことを考えようとした。
「私、死のうとしたのね?だったら目を覚まさない方が良かったんじゃ……」
私が飛び降りたその日に私自身が抱いていた感情を知る由は無かった。きっと先生もそこまでは知らない。
「それは違うよ、東雲ちゃん。君は生きるんだ。一度は終わってしまった人生を、目覚めたことで第二の人生を送れるんだ。これは奇跡だよ」
先生は私が描いたお母さんとお父さんの絵のそばに「第二の人生」と書いた。
「二度目の人生、何かしたいことはあるかい?」
「うーん……」
私は考えた。自分が死のうとしていたことを知って頭は混乱していたけど、それでも先生からの質問に答えようと努めた。
「早く家族のことを思い出したい。記憶を取り戻したい。学校に通いたい。賢くなりたい。普通の十五歳になりたい。普通に生きていたい」
「そうかい、そうかい。それじゃあ全部叶えるために治療を頑張ろうね」
「はい、先生」
私の心に、第二の人生は病気を完治させて自分の希望通りの人生にするという目標ができた。
次の日、私は外出できる時間になった瞬間に病棟を出て庭に向かった。私が飛び降りた場所へ。
私は紅葉の木のところに見覚えがあった。ゆっくりと車椅子を降り、地べたに体をくっつけた。地面すれすれの視点から上を見上げると紅葉の木が見えた。今は黄緑色の葉をつけているその木の周りが私の血で赤く染まったのは、確か紅葉が赤く色づいている時。寒い日だったと、思う。
「おい」
急に声をかけられて肩がビクッと揺れた。
「あ、ショウ……」
その顔を見たらなぜか安心してしまって、ぽろぽろと涙が溢れる。
「どうしたんだよ」
心配そうにショウが言った。
ショウは私が起き上がるのを助けてくれて、私はそのままショウに抱きついた。
「私、飛び降り自殺しようとしたんだって。でも何も思い出せない。家族のことを一番に思い出したいのに全然思い出せない。お兄ちゃんがいるんだって。顔も名前も思い出せないけど、そのお兄ちゃんが原因かも知れないんだって。でも本当に思い出せないの。脳が全てを拒んでるみたいに。思い出そうとしたら頭が痛くなって手を噛みたくなる」
私は泣いた。記憶はすべて自分だけのものなのにその宝物を誰かに全部盗まれたような、もう二度と取り返せないような気がしていた。それがどうにも悲しくて、歯がゆくて、苛立って、幾つもの感情に支配された私は、もう泣くしかなかった。
「最低だな、その兄貴」
「最低なのかな、分かんない。何も分かんない」
「俺ならお前を幸せにしてやれるのに」
私はショウの首に回していた自分の腕を解いて、びっくりしたような、照れくさいような顔でショウを見た。ショウは真面目な顔をしていた。
「……ありがと、ショウ」
「どういたしまして」
私たちはそう言って微笑み合った。何かに守られているような、何があってもショウが助けてくれるという確信のようなものが心に芽生えた。
ニアは一週間に一度、私の元を訪れてくれた。ニアはファッション雑誌をよく持ってきてくれて今流行りの服装を教えてくれた。他にも授業で習ったことを面白く教えてくれて、私はニアが言うことをノートに書いて勉強した。他の十五歳の子たちはもっとたくさんの教科書の内容を勉強して、大学受験のことや就職のことを考えるんだろうけど、今の私にはまだ無縁の話だった。
「ニアは高校を卒業したらどうするの?」
「うーん、まだ一年生だしそんなに真面目には考えてないかな。進学はしたいと思ってるから二年生になったら大学の資料請求したりオープンキャンパスに行ったりしようと思ってるけど」
「ニアは勉強を教えるのが上手いから教師に向いてると思う」
私は思ったことをそのまま口にした。ニアはちょっとびっくりした顔をして、
「それ、本当に言ってる?」
と言った。
「本当だよ。ニアが持ってきてくれる問題集の解らないところは全部ニアの説明を受けると理解できるんだもん。私が賢いとかそう言うわけじゃないよ。だって中学三年間眠っていたし小学校の卒業式にすら出られなかった私でも解るんだもん。すごいよ。基礎すら知らない人に高校の授業の内容を説明するのはきっと難しいことだろうよ。基礎から説明しなきゃならないから根気も要るし。誰にでもできることじゃないよ」
ニアは嬉しそうな顔で、「そっか」と言って、「しのちゃん。私、頑張るね」と意気込んだ。
私の入院期間は三年と三ヶ月。退院する頃にはすっかり元気になって車椅子なしでも誰の手も煩わせず普通に歩けるようになっていた。
「東雲ちゃん、今日は退院の日だね」
「先生、お世話になりました」
「うん、うん。元気になって良かった。想定よりも早めの退院だけど、何か不安なことはないかい」
「大丈夫。まだ外来でお世話になるのよね。通院頑張ります」
先生はにっこり笑って「そうだね、一緒に頑張ろうね」と言った。
荷物をまとめていると、「しの」と声をかけられた。振り向くとお母さんが立っていて、「迎えに来たわよ」と笑顔で言った。お母さんのことは少しずつだけど徐々に思い出していた。お母さんがお見舞いにきてくれる時に、思い出した記憶の話をするとお母さんは泣いていた。良かった、良かったと繰り返しそう言って私の頭を撫でた。それまではちょっと態度が冷たかったけど、それは記憶のない私とどう向き合えばいいのか分からなかったからだと思う。私も記憶のない自分と向き合うのは難しかった。今でも全ての記憶が戻った訳じゃないけど、主治医の言う通りゆっくり自分と見つめ合えばいいんだと思う。
家に帰って、自分の家をまじまじと見た。庭にある立派な桜の木、リビングにある四人掛けのダイニングテーブル、自分の部屋にある学習机とベッド、集めていた色あせたファッション雑誌とそのおまけ、何もいないウサギ小屋。何か思い出せそうな気がした。
「しの、降りて来なさい」
二階の自分の部屋にいると、お母さんが声をかけてきた。リビングに降りると、オレンジジュースが注がれていて、近くには何冊ものアルバムが置いてあった。
「これ、しのが生まれてから小学生になるまでのアルバム。何か思い出せるかしら」
私はお母さんと一緒にアルバムを開いた。そこには生まれたての私、小さいお兄ちゃんらしき人と遊んでいる私、泣いている私、笑ってる私、怒っている私、眠っている私、幼稚園の入園式と卒園式の写真、小学校の入学式の写真、ニアと写っている写真ーーたくさんの写真がアルバムに貼ってあった。そこで私は異変に気付く。
「お兄ちゃんの写真が途中からないよ?」
いくつかの家族写真には兄が写っていない。お母さんはなんとも言えぬ、悲しそうな目をしていた。
「しののお兄ちゃんはね、今は違う家で暮らしてるの」
「違う家?」
「そうよ。おばあちゃんの家よ」
「それはどこなの?」
「ここから電車で一時間くらいかしらね」
「一時間……」
「行くつもりなの?やめておきなさい。しのはお兄ちゃんに会うべきじゃないわ」
「でも私、家族のこと全部思い出したいの」
「お兄ちゃんのことだけは思い出さない方がいいわ。お兄ちゃんは死んだの。そう思ってちょうだい」
その言葉で、お兄ちゃんは生きているんだと確信する。それ以上話すことはないと言わんばかりにお母さんは席を立ってしまった。
お兄ちゃんは今どこで何をしているんだろう。どうしてお母さんはお兄ちゃんのことを思い出さないように言うのだろう。疑問ばかりが頭に浮かんだ。
「おい、どうしたんだよ」
ハッとして顔を上げる。心配そうな顔のショウが目の前にいた。
「ご、ごめん」
顔の近さにドキドキしながらそう言った。場所は病院内のカフェ。私の外来の日に合わせてショウを呼んで二人でお茶をしていた。
「なんかあったのか」
「うん……ちょっとね」
「話してみろよ」
ガヤガヤとした店内の喧騒にショウの声がよく通る。
「お兄ちゃんのことなんだけど」
私は真面目な顔で話した。
「お母さんがね、お兄ちゃんの存在を隠すの」
それから私はお母さんが言っていた、お兄ちゃんがおばあちゃんの家で暮らしていることとその家が私の家から電車で一時間くらいかかることをショウに言った。ショウは終始真面目な顔で聞いてくれていた。たまに打つ相槌が話していて心地よかった。
「お前はそのお兄ちゃんに会いたいのか?」
「そりゃ会いたいよ、会ってみたい。だって家族だもん」
「そうか、でもお母さんがそいつのこと隠すのには理由があるんじゃないかって俺は思うんだ。会うことが悪いとは言わないけど、その隠す理由を知るのが先なんじゃないか」
「なるほど」
ショウは私にはない意見を言ってくれた。確かにお母さんが隠す理由を知りたいと思った。
だから私は家に帰ってお母さんに訊いた。
「どうしてお兄ちゃんはこの家にいないの?」
お母さんはまた悲しげな顔をした。
「あなたを守るためよ」
「守るって、何から?」
「お兄ちゃんの、あなたに対する意地悪から」
お母さんは言った。
「しの。いい?意地悪する人とも仲良くできるだとか、人はみんな話せば分かり合えるとか、そんなのは絵空事なの。嫌なことをしてくる人とは離れたほうが良いし、言葉でいくら説明しても分かり合えない人もこの世界にはたくさんいるのよ。そういう良くないものからは離れるに限るの。例えそれが家族だとしても」
お母さんの言っていることはわかるようでわからなかった。
「お兄ちゃんの名前は?」
「喜翔。堅田喜翔よ」
喜翔。私は名前を聞いてもどんな意地悪をされたのか、親がわざと私たちを引き裂くようなことをしたその原因を全く思い出せずにいるのに、なぜだか懐かしいような気持ちになった。
私は不意にショウのことを思い出した。私はお母さんに病院で出会ったその素敵な男の子の話をした。
「そんな子がいるのね。しのはその子にお世話になっていて、その子が好きなのね」
「そうなの。とても大事な人なの。金髪がよく似合う男の子で、聞き上手なの」
「そう。今度うちに呼んでらっしゃいな。私も会ってみたいわ」
「わかった」
私は自分の家にショウを招く時のことを想像をしてふふっと笑った。
それから二週間後、私はショウの外来の日に合わせてショウを家に招いた。私はショウのことをもう全部知った気でいた。ショウをリビングに招いて、そっとショウを抱きしめた。お母さんはパートで家にいなかった。
「私、ショウのことが好きだよ」
生まれて初めての告白で、初恋だった。顔が火照っているのがわかる。照れくさいし恥ずかしかったけど、伝えなければ後悔すると思った。第二の人生は自分の意思を大事にしようと決めていた。
「ひどいことされても?」
ショウは言った。
「うん、何されても」
私は本気でそう思っていた。そう思えるほど好きだった。
「暴力を振るわれても?」
ショウはニヤリと笑った。その笑みに一抹の不安がよぎる。私の顔から笑顔がサッと引いたのがわかった。ショウは何を言っているんだろう。
「強姦されても?」
その時私の頭の奥がチカチカと光り始めた。何かを思い出せそうな、でもそれは決して思い出してはいけない、思い出しては自分が壊れてしまう、そう感じた。でもそれは止まらなかった。まるで生き物が命を授かった瞬間、血流が勢いよく心臓に流れ込むように、脈打つたびに記憶は頭の中を駆け巡った。思い出したのは、血。真っ赤な血。兄の拳から流れる血。自分の頬、額、陰部から、流れる、血。
いつかショウがその人の雰囲気の色を見ることができると言った日、私がショウは赤だと答えた時に見せた、あのゾクッとする顔をしていた。
「しの」
「おい」でも「お前」でもなく、「しの」と呼ばれたその時に、私は記憶を取り戻した。何をされたのかも、それがお母さんの言う「意地悪」なんて可愛らしい言葉では言い表せないほどに酷いことであることも。
「しの、死ねよ」「しの、殺すぞ」「しの、後ろ向け」「しの」「しの」「しの」その声の響きが心に染み渡る。今まで呼ばれたどんな呼び方よりもはるかにしっくり来るその呼び声が、とんでもなく恐怖だった。
「うわああああああああ」
私は耐えきれず、その感情は絶叫に変わった。ショウを突き飛ばし、私はふらふらと後ずさり、耳を塞いでしゃがみこんだ。何かに激しく裏切られた気がした。もう思い出す前の時間には戻れない。もう、二度と、ショウを愛せない。喜翔は愛せない。人生最大の愛だと思った。もうこれ以上人を好きになることなどないと思っていた。しかしその相手は私に暴力を振るい、強姦し、私を、私の人生を、めちゃくちゃにした張本人だった。
「東雲ちゃんがこの病院の三階から庭に飛び降りて自殺未遂を図った上に記憶をなくしているのはお兄さんが関係しているのかも知れないね」という主治医の言葉が頭の中で反芻される。そうだ、すべての元凶は喜翔にある。ショウにある。ショウは、喜翔は、すべてを知っていて私に近づいたんだ。私のことを庭で見つけたあの時、喜翔は何を思って私に近づいたんだろう。
私は肩で息をして喜翔を睨みつけた。喜翔は笑っていた。
「しのの主治医の言う通り、俺のことは思い出さない方が良かったんじゃねえの」
「それでも、私はーー」
何も知らなかった時よりも不思議と心が楽だった。どうせいずれ知ることになる事実だったから、それが早まっただけのこと。自分が持つ大きな心の傷を知れたから。何も知らないよりは良い。でも私は傷ついた。今ならまた病院の三階から飛び降りそうな気持ちだった。三年前のあの日、私はきっとこんなにも傷ついていたんだ。
「喜翔を、許さない」
「許さないって、どうすんだよ。俺はお前の大好きなショウくんだぞ」
「復讐してやるから。私はもう十二歳の無力な小娘じゃない。きっとなんだってできる」
「もう一回死ぬことになるかも知れないぞ」
「いいわよ別に。だって私もう既に一度死んでるもの。もう何も怖くない。もう一回死んだっていい。でももう一回死んだとして私はもうあなたのことを忘れない。親のことも親友のことも忘れたとて、あなたのことだけは忘れない。永遠に恨みながら生きていくわ」
数分前まで好きな人だったその人は実は自分の兄で、私に酷いことをした人で、私に自殺未遂をさせた人だった。受け入れがたいその事実が、強い痛みとなって心を襲う。
「何やってんだ」
唐突に後ろから聞こえたのは低い声。
「親父」
喜翔が振り向いて言う。リビングのドアが開いていて、そこにお父さんが立っていた。私は「お父さん!」と叫んで縋るように駆け寄った。
「帰ってたんだ」
「ああ、さっき日本に着いたんだ」
「どうしてここに?」
「自分の家に帰るのに理由が必要か?」
「俺たちを捨てたくせに父親面かよ」
喜翔は吐き捨てるように言った。いつかにお父さんが海外で働いていてなかなか帰って来ないから寂しいという話を喜翔から聞いていた。
「捨てたってどういうこと?」
「他に女作ったんだよ」
「喜翔。口が悪いぞ」
「事実だろ」
喜翔は私に向き合って言った。
「しのは記憶が無いんだから全部俺が教えてあげないと」
「喜翔……?」
どさっと物が落ちる音がして玄関の方に目を向けると、お母さんがスーパーから帰ってきていた。
「喜翔、どうしてあなたがここにいるの。お父さんが呼んだの?」
「しのに呼ばれたんだよ」
「しのが……?どうして?」
「この人がお兄ちゃんだって知らなかったの」
「で、俺は妹をちょっといじめただけでこの家出禁になったのに、なんで浮気したこのクソ親父は普通にこの家に帰ってるんだよ。おかしいだろ」
「俺はお母さんにちゃんと謝ったし許しも得た。でもお前はだめだ」
「じゃあ俺はしのに許しを得たらこの家に帰ってきても良いのかよ」
「喜翔、私はあなたを絶対に許さない」
「一体、何がどうなっているの……」
お母さんは困惑していた。私も困惑していた。今日は心が疲れた。心労のあまり寝込んでしまいそうだった。いろんなことを一気に知ってしまった。
「取り敢えず喜翔はお袋のところに帰れ」
お父さんは鬱陶しそうに喜翔に言った。
「はいはい。邪魔者はいなくなりますよ。俺がしのと同じことになっても後悔すんなよ」
喜翔は捨て台詞を吐いて玄関に向かった。ドアが開く音がして、心なしか乱暴に閉まる音がした。何事もなかったかのようにお母さんは微笑む。
「お父さん、お帰りなさい。今日はすき焼きにしましょう」
「ああ」
お父さんは一言そう答えて私に向き合った。
「しの、目が覚めて本当に良かった。もう飛び降りたりするなよ」
お父さんは私の頭を撫でて三階にある自室へ向かった。
「お母さん、私手伝う」
「ありがとう、しの。あなたとまたこうして一緒にキッチンに立てるのが幸せでたまらないわ」
お母さんは私をぎゅうっと抱きしめてから玄関に置きっぱなしになっている買ったばかりの食材をキッチンに運んだ。
私は喜翔が去っていった玄関の向こうを覗いたけど、もう誰もいなかった。自分の脅威がいなくなったことで安心したけど、実の親に邪魔者扱いされた一人の人間のことを考えた。私は家庭に歓迎され、お父さんに頭を撫でてもらったしお母さんに抱きしめてもらえたけど、喜翔はおばあちゃんの家で暮らすことをお父さんに強いられてお母さんに抱きしめてももらえない。それが少し可哀想で、でも自業自得だと思う自分もいた。ざまあみろとも思った。そう思われても仕方ないことを喜翔は私にした。
「しの」
「はーい」
私はお母さんに呼ばれてキッチンに向かった。家族三人で食べるすき焼きは病院食のオムライスよりもハンバーグよりも美味しかった。でもなぜだか頭の中から喜翔のことが離れなくて、久しぶりの家族団欒なのに何を話したのか、どんな会話を両親としたのか覚えていない。なんでもない他愛ない話だと思うけど。
喜翔に復讐したいという一心で私は何かに取り憑かれたように毎日復讐の意味を携帯で調べた。今まで復讐なんて言葉とは縁のない生活を送っていたからいざ復讐しますといった時にどんなことをすればいいのかわからなかった。そうは言えどもそれを人に尋ねるのも違うと思った。もしかすると私が飛び降りたのは喜翔への復讐かも知れなかった。だとすればもう彼は罰を受けている。家庭から追い出されると言う罰を。私はまだ心にくすぶっているこの復讐心を一人で抱えることで喜翔への思いは強くなると感じた。今度はもっと衝撃的な復讐で彼の心を私が受けたのと同じくらいズタズタにしてやりたい。私はその気持ちを忘れてはならない。そう思っていた。
それはまるで日常を引き裂くような雷鳴だった。電話の音がこんなにも憎いと思ったことはない。私の携帯かと思ったけどそれはお母さんの携帯の着信音だった。
「もしもし」
お母さんはなんでもないみたいに普通にその電話を受けて、
「え……」
顔を青ざめた。
はい、はい、とお母さんは丁寧に相槌を打って、喜翔の心地よかった相槌はお母さん譲りなのかなんて考えたりした。親譲りの何かを持っているということは元々家族だったということだと、喜翔との血縁を思い出して吐き気がした。
お母さんはその電話を切ると、青ざめた顔のまま、リビングで本を読んでいた私の方を向いた。
「し、しの」
お母さんのこんなにも不安そうな表情を見たことがない。お母さんは縋るように私の腕を掴んで言った。
「もう二度と飛び降りたりしないわよね……?」
お母さんがどうしてそんなことを訊くのか分からなかった。きっと今かかってきた電話が関係しているのだ。
「なんの電話だったの?」
私はお母さんの質問には答えずにそう訊いた。お母さんはゆっくりと、少し低い声で言った。
「おばあちゃんが倒れたの。もう喜翔の面倒を見る人は私たち両親以外にいないのよ。まだ未成年の喜翔は私たちが面倒を見なきゃいけない義務があるの。……わかるわね?」
そういうことかーー私は絶望した。
「つまり、喜翔がこの家に戻ってきて、一緒に暮らすことになるのね?」
「ええ、そうよ……」
お母さんはとても不安そうな顔で私を見ていた。
「いい?しのが飛び降りた日の話をするわ」
お母さんは静かに語り始めた。
あの日、出かけてくると一言だけお母さんに伝えて、お母さんはニアと会うのだと思って快く送り出したこと。数時間後、病院から私が飛び降りたと連絡が入ったこと。頭を強く打っていて目を覚ます可能性は限りなくゼロに近かったこと。目を覚ましたとしても障害が残る可能性があること。それでも両親は何度も相談を重ねて、私が目を覚ますことを信じて延命治療を行うことに決めたこと。私が飛び降りた一週間後に喜翔が私に意地悪をしたことを両親に告白したこと。それに怒ったお父さんが喜翔をおばあちゃんの家に置いてきたこと。喜翔は何度も抗議したけどそれでも両親は喜翔を許さなかったこと。三年後、喜翔は自分の手首を切って自殺を図ったこと。それで私と同じ病院に運ばれて精神科に入院することになったこと。その数日後に私が目を覚ましたこと。
「同じことを繰り返して欲しくはないのよ、しの。これはお母さんからのお願いだけど、もう飛び降りたりして欲しくないの。しのにも喜翔にも自分の命を粗末にするようなことをして欲しくはないのよ。もうあんな気持ち、味わいたくないわ」
お母さんは目に涙を浮かべていた。
「怖いのよ、しの」
お母さんがどれだけ心配で不安なのか、その顔を見れば痛いほどにわかった。
「お母さん、私が飛び降りたのはきっと喜翔への復讐よ。お兄ちゃんが手首を切ったのはきっとお父さんとお母さんへの復讐よ。どうすればこの連鎖は終わるのかしら」
「あなたの中にはまだ喜翔への復讐心は残っているのね?だったら喜翔がこの家に戻ってきてまたあなたに意地悪をしたらまた飛び降りるの?」
「分からない。同じ家で暮らすにしても、極力喜翔には関わりたくない。顔も見たくない」
私はまた叫びたくなった。もう小さい頃の仲のいい兄妹には戻れない。あんな酷いことをされたら許せない。絶対に。
お母さんは更に不安そうな顔をした。だけどどんなこと言ったってどう足掻いたって喜翔はこの家に来る。私が住むこの家に。
「できるだけ喜翔とは関わらないように、ご飯も喜翔の分は部屋に運ぶようにするし、部屋も離れたところに構えるわ。しのの部屋には鍵が付いてるし、お母さんがパートで家を空ける時も大丈夫よね?」
「うん、きっと大丈夫」
お母さんがいない時間はイヤホンで音楽を聴いて過ごそう。そうやって遣り過ごそう。できるだけ喜翔が家にいることを意識したくない。自分にとって脅威だから。実の兄だけど、兄だと思いたくはない。
三日後、喜翔は家に戻ってきた。
「ただいま」
玄関から聞こえるその声を聞いた瞬間に鳥肌がたった。私は逃げるようにイヤホンをつけて好きな曲を大音量で流した。
そうして喜翔のいる生活が始まった。喜翔は幸い家を空けることが多かった。どこに行っているのかは知らないし興味もないけど、今帰ってくるんじゃないかと思うと玄関先やリビングに行くのが怖かった。私は殆どの時間を自室で過ごした。
その日は最悪だった。私は生理の日でお腹も腰も頭も痛くて、薬を探しにリビングに降りた。そこに喜翔がいた。
「どうして」
お母さんが喜翔の分の食事は喜翔の部屋に届けるから接触はないと言っていたのに。
呆然と立ち尽くす私の前で、喜翔はダイニングテーブルでお母さんの料理を食べながら「座れよ」と隣の椅子を引いた。
「嫌だ」
私は首を横に振って階段を駆け上がった。その後ろを喜翔はついてきた。
「来ないで!」
「待てよ」
私は自室に入ると急いで鍵を閉めた。ドアの内側にもたれかかって、ずり落ちる形でヘタリと座った。お腹がシクシクと痛んだ。喜翔はドンドンとドアを激しく叩いて「出てこいよ!なあ!仲良くしようぜ!」と叫んだ。私はその場から動けなくて、ドアの向こう側に喜翔がいることが受け入れがたくて、何も考えたくなくて、何も思い出したくなくて、私はぎゅっと目をつぶって両耳を塞いだ。多分五分くらいずっとそうしていたと思う。五分間喜翔はドアを叩き続け、私は目と両手を塞ぎ続けた。頭痛は増していた。頭が割れるんじゃないかと思った。
「喜翔!」
階段の下からお母さんが叫んだ。偶然パートから帰ってきたのだろう。私は助かったと安堵した。
「何をしているの!しのには近づかないでって言ったでしょう!」
「俺はただ前みたいに仲良くしたいだけだよ」
「それも良くないのよ。自分の部屋に戻りなさい」
「チッ」
喜翔は素直にお母さんの言う通りに従うみたいだった。けどドアを離れる時、喜翔は確かに「またね」と言った。それがどう言う意味をもつ単語なのかも考えたくなかった。一刻も早くおばあちゃんの体が良くなって喜翔が私の家から出て行って欲しいと思った。一緒に暮らすことに精神的な限界を感じていた。
私は勉強したいと思った。早く学校に通いたい。きっと知識がなければ喜翔への有効な復讐が思い浮かばない。
私は携帯で真っ先に親友のニアに連絡をした。
『ニア、お願い。私に勉強を教えて』
ニアは自分の復習になるからと快諾してくれた。
小学校で勉強していたのは国語、算数、理科、社会。それが中学生になると算数は数学になり英語が加わる。一番苦労したのは英語だった。知識レベルが小学六年生で止まっている私は今まで英語に触れたことがなくて、どう勉強していいのか分からなかった。単語を覚える他にも文法も覚えなきゃいけなくて、それがどうにも思い通りにいかなかった。それでもニアは根気強く何度も何度も説明してくれた。問題集は端が擦り切れて膨れ上がるくらい繰り返し解いた。全ては喜翔への復讐心が原動力となっていた。
季節が変わって冬が来る頃。寒くなったリビングに暖かい暖房の風が吹く。久しぶりにお父さんが帰ってきていて、両親と私の三人で焼肉に行った。
「しの、体調はどうだ」
「極めて良好よ。もう走れるし勉強もできるわ」
「そうか」
お父さんは満足そうに微笑んだ。
「私、法律を勉強したいの」
喜翔を法で裁きたい。それが私なりの復讐だった。一つの季節の間ずっと復讐について考えながら勉強してきた私なりの答えだった。
お父さんもお母さんも一瞬びっくりしたような顔をして、それから嬉しそうな顔をしていた。きっと何よりも未来のある話をしたのが嬉しかったんだと思う。私が生きようとしているその姿を見て安心したんだと思う。例えそれが復讐心からくるものだとしても、そんなこと両親は知る由もない。
「しのならできるわ」
「ああ、俺の娘なんだから当然だ。全面的に応援するよ、しの」
両親は背中を押してくれた。
その次の週から私は塾に通うことになった。お父さんが見つけてきたその塾は私が中学生になったら通おうと思っていた塾で、マンツーマンで勉強を見てくれるところだった。そこに加えて家庭教師もつけてくれた。それで週に二回やってくることになったのが如月先生だった。如月先生は有名な大学の出身で、お父さんの仕事仲間の息子さんだった。
「こんにちは、初めまして。如月京です」
初めて家に来た時、玄関で如月先生は挨拶してくれた。くるくるに巻かれた黒髪の、眼鏡をかけている高身長なお兄さんという印象だった。サラサラの金髪の喜翔とは真逆のタイプだった。
如月先生はまずは小学校の頃の勉強から、全部の教科を見てくれた。小学校の内容の勉強を一通り終えると、中学校の勉強も始めた。私はニアに見てもらっていたところ以外の、まだ理解できていないところを伝えると、根気強く基礎から教えてくれた。説明がすごくわかりやすくて、声の響きも心にそのままストンと落ちるようで、聞いていて心地よかった。
如月先生は途中からニアの受験勉強も見るようになった。リビングで三人並んで勉強するのは楽しかった。ニアの受験勉強は大変そうだった。ニアが解らないところを如月先生が一緒になって考えていた。シャーペンを顎にくっつけて考える様を見て、それが考えるときの癖なんだと気付いた。
一時間半の勉強時間は毎回あっと言う間に過ぎていった。
「また来るね」とニアは言って、「また、来週に」と如月先生は言った。
玄関で二人を見送って私はリビングに戻った。
「誰だあの男」
気配もなく、突然後ろから声がした。ギョッとして思わず肩が跳ねた。私は喜翔の存在に気付くと、ダイニングテーブルに広げた教材をいそいそとかき集めた。なんでこの時間に喜翔が家にいるんだろう。いつもはいないのに。心臓がキュッと掴まれたような痛みが走った。頭もお腹も痛い。
「家庭教師よ」
小さくそう答える。
「他の男見てんじゃねーよ!」
喜翔は突然声を荒げて乱暴に壁を殴った。咄嗟に問題集で顔を覆って壁を作る。怖い。怖いよ。
「俺だけ見てればいいだろ!」
「どういう意味よ」
「お前俺のことが好きなんだろ」
「もう好きじゃないわ。もう私に関わらないで。お願いだから……」
「俺はお前の好きなショウだぞ」
「もう違うわ」
私は教材を抱えて階段に向かった。その行く手を喜翔が阻む。
「これはお前のせいでできた傷だ」
喜翔は乱暴に私の腕を掴み、自分の手首にある大きな赤く膨れ上がった傷跡を私に見せつけた。
「よく見ろよ!なあ!」
「離して!自業自得でしょ。私のせいなんかじゃない」
「なんだと」
「私がつけた傷じゃないわ。あなたが切った傷よ」
喜翔は口を一文字に結んで息を整え、それから恐ろしいことを言った。
「俺はお前が好きだ」
私は何が何だか分からなくなった。数分前に身につけた復讐の為の学力がどこか遠くへ飛んで行ってしまったような気がした。
「信じられない」
私は小さな声で言った。唇が震えた。
「散々酷いことをしておきながら好きですって?」
「俺はお前の好きなショウで、お前は俺の好きな東雲だ。結ばれただろ、俺たち」
「……気持ち悪いわ」
「なんだと?」
「あなたはショウじゃない。喜翔よ。私を大事にしないし傷つけるばかりで害悪だわ……私が飛び降りた原因はあなたよ。もう好きなんかじゃない。興味もない。触らないで。関わらないで。不快よ」
私は精一杯の強がりと勇気を出してそう言うと、喜翔を押しのけて階段を駆け上がった。
「おい!」
喜翔の声が私を捕まえようとする。喜翔が追いかけてくる。私は振り切るように自室のドアを開けて鍵を閉めた。
私は教材を乱雑に机の上に置いて、布団に潜って「第二の人生」について考えた。喜翔がこの家にいるとどうしても理想的な「第二の人生」を送れない。私の心を掻き乱して邪魔をする。
私は部屋の鍵がかちゃかちゃと音を立てていることに気付いた。金属と金属が擦り合わさって生まれるその音で、喜翔がピッキングをしていることに気付く。咄嗟に逃げ場を探した。ベランダしかない。
私が布団から飛び出して裸足のままベランダに出て振り返ったのと、喜翔が部屋のドアを開けるのはほぼ同時だった。喜翔が舌なめずりをしながらベランダに近づいてくる。私はあの日のことを思い出した。病院から飛び降りたあの日のことを。喜翔はベランダまでやって来て、私はベランダの隅に追いやられた。びゅうっと風が吹き、あの夢を思い出す。あの三年間見続けた夢を。庭にある桜の木が揺れていた。
手も足も、体全体が震えていた。もう三年前には戻りたくない。喜翔の思い通りにはさせない。そう思うのに、体が動かなくてこの状況を打開できない。
「また飛び降りるのか」
喜翔は不敵に笑う。私はベランダの手すりに手をかけてそのまま腰掛けた。
「もう、なんだっていいや」
私は呟いた。限界だった。生まれたのは、更に深くて濃い復讐心。心が、どんどんと黒いものに支配されていく。心臓が激しく脈打っていた。
「東雲」
喜翔が手を伸ばす。私は両手を広げる。夢の中で翼を広げたみたいに。二階のベランダから落ちたって死にはしないとは思っていたけど。
「危ない!」
誰かに抱きとめられるとは思わなかった。
「誰だテメェ!しのに触るな!」
喜翔が私たちを見下ろして二階のベランダから叫ぶ。私を抱きとめた人も叫んだ。
「あなたこそ東雲さんに触れないでください!」
抱きとめたのは偶然忘れ物を取りに戻って来た如月先生だった。如月先生は靴を履いていない私をお姫様抱っこして、通りがかったタクシーを止めて私と一緒に乗った。そして如月先生は私の知らない地名を運転手さんに伝え、タクシーは走り出す。喜翔がまだ何か叫んでいるような声が聞こえた。私は如月先生がいてくれる安心感でちょっとだけ泣いた。体は震えていた。如月先生はそんな私の肩を抱いて、「もう大丈夫」と繰り返し言った。
着いたのは如月先生の家だった。如月先生の家は、家というより屋敷という方が適切な、お城のような建物だ。如月先生が重厚な扉をゆっくりと開けて中に入ると、靴を脱ぎ、抱き上げていた私を下ろした。裸足にふかふかの絨毯が触れる。
「京、お帰りなさい」
奥から如月先生のお母さんらしき人が手を拭きながら出て来て、「あら」と私たちを交互に見た。
「こんにちは。初めまして、私堅田東雲と申します」
私はさりげなく涙をぬぐい、努めて落ち着いてご挨拶をした。
「ああ、堅田さんのところのお嬢さんね。いらっしゃい。京の母です。よろしくね」
如月先生のお母さんは私のお母さんに負けないほど優しそうな人だ。
「お母さん、堅田さんのところに娘さんはここにいますと連絡したいんだけど」
「はいはい、今お電話しますね」
如月先生のお母さんは廊下の奥に進む前にちょっと立ち止まって「二人とも、リビングにいてね」と言った。お邪魔します、と言った私に、如月先生は、兄貴がデキ婚したから東雲さんを僕の部屋に入れたくないんです、と耳打ちした。
如月先生のお母さんは私のお母さんに私がここにいると連絡した後、「お母さんが迎えに来られるそうよ」と美味しくて温かい紅茶を淹れてくれた。
数十分後、インターホンが鳴ってお母さんが来た。
「しの!」
お母さんは大袈裟に心配していて、私を見るなりきつく抱きしめて「大丈夫だった?」と言った。
「如月先生が偶然いてくれたから助かったの」
「そう。京くんありがとう」
「いえ、たまには忘れ物もしてみるものですね」
如月先生はそう言ってお母さんに微笑んだ。
お母さんは如月先生のお母さんと少し世間話をして、「そろそろ帰りましょう、しの」と私を促した。
「またいらして」
如月先生のお母さんはそう言ってくれた。
「またお邪魔させてください。紅茶、美味しかったです。お邪魔しました」
私はぺこりとお辞儀をして如月邸を後にした。
もう二度と帰りたくないと思う反面、私の居場所はあの家にしかないとも思った。
「しのの部屋の鍵をもっと複雑なものに変えなきゃダメね」
お母さんは言った。数日後に鍵屋さんがやって来て、私の部屋の鍵はピッキングされにくいものに変わった。
ベランダから飛び降りたあの日以来、ニアと私は如月邸にお邪魔して勉強するようになった。如月邸から家に帰ると一目散に自室に向かい、鍵をかけて椅子に座って勉強したことの復習をした。如月塾のない日は、ニアと長電話したり、オススメされた漫画や本、雑誌を読んだり、動画サイトで音楽を聴いたりした。
そんななんでもない一日のことだった。
「お前の部屋のウサギ二羽、どうなったか教えてやろうか」
玄関から入ってすぐの部屋、元は物置小屋で今は喜翔の部屋になっている部屋から声がした。如月邸から帰って靴を脱いでいた時だった。
「俺が殺してやったんだよ」
私は随分と可愛がっていたウサギのことを長い間忘れていた。空になったウサギ小屋を見ても何も感じないようにしていた。あの夢に出て来た二羽のウサギは飼っていたウサギだったんだ。
私はカッとなって喜翔の部屋のドアを開けた。喜翔はそうすることが分かっていたみたいに一人がけのソファにゆったりと座ってこちらを見ていた。
「最低」
私は吐き捨てるように言った。ミミとキキ、二羽のつがい。十歳の誕生日にお父さんに買ってもらった私の大事なウサギ。確かミミは妊娠していた。
私の心は壊れていた。もう涙も出ない。
「最低ね。人間の底辺だわ。自分の血縁者だと思いたくない。私の大事なものを片っ端から壊して、一体私をどうしたいの」
「自分だけのものにしたいんだよ、しの。分かってくれ」
「分かりたくないわ。永遠にあなたのものになんてならない」
死ねばいいんだ、小学生だった私に喜翔は何度もそう言った。
「死ねばいいのよ」
今度は私が言う番だった。
憎悪のこもった目で喜翔を睨みつけて部屋を出た。喜翔は最後まで笑っていた。
何度目かの診察の時、私は告白した。
「先生、私兄から殴る蹴る首を絞めるなどの暴力だけじゃなくて性的な暴力も受けていました。死ねや殺すなどの暴言も受けてました。多分私が飛び降りたのはそのせいです」
「性的な暴力」と言うのには恥ずかしさが伴ったけど、主治医には事実を伝えなければならないと思った。
「そうだったんだね。教えてくれてありがとう」
それから主治医は不安を取り除き感情の高まりを抑える薬を出してくれた。精神状態を落ち着かせる為だ。服薬する薬は多くなっていて、前よりも心が落ち着いていると感じている。
喜翔が家にいるときは音楽を聴きながら本を読んで現実逃避しているし、そもそも喜翔は毎日どこかへ出かけているようだった。
如月先生とは塾のない日も会うようになった。如月先生は私が外で喜翔と接触することを恐れていて、ボディガードとしてそばにいさせて欲しいと言った。それが始まりだった。私がベランダから飛び降りたのがかなり衝撃的だったようだった。私は一緒にいて心地よさを感じていたので買い物に行く日は必ず如月先生に連絡した。如月先生はいつも連絡してから二十分以内に私の家まで迎えに来て、用事のある日は予めこの日はボディガードできませんと連絡が入るようになっていた。如月先生は通院のお供もしてくれた。
何度かそうしていて、病室から出て待合室で本を読む如月先生を見ることに幸せを感じるようになっていた。横顔が素敵だった。私に気づいて小さく手を挙げるその仕草も好きだった。私は、もうボディガードと守られる側の関係では満足できなくなっていた。
それに気付いてたのかどうかは知らないが、告白したのは如月先生の方だった。
「男性に恐怖心を抱いているのは分かります。あなたのお兄さんがあなたに何をしたのか全ては分かりません。でも私に守らせてください。全ての恐怖からあなたを守らせてください。好きです。僕とお付き合いしてくれませんか」
そんな言葉に一本の立派な赤い薔薇が添えられていた。
私はとても嬉しくて、でも少し怖かった。この人までも豹変して私を傷つけることになったらどうしよう。兄のように私に暴言と暴力を力任せにぶつけてきたらどうしよう。男の人に力で敵わないのはよく分かっている。
それでも賭けてみようと思った。今までどんなところにでも付き添って、寄り添ってくれていた彼がいつまでも私の側を歩いてくれるだろうと。
「はい、喜んで」
私は笑顔でその薔薇を受け取った。如月先生は幸せそうな顔をして、私を恐る恐る、ゆっくりと抱きしめた。私はその広い背中に腕を回した。
「京、と呼んでください」
「京。もう敬語はやめませんか」
「やめよう、お互いに」
私たちはお互いに微笑みあった。とても幸せな一日だった。
京と付き合ってから、彼の呼び名だけでなく生きやすさも変わったと思う。何かあった時にそばにいてくれる人がいる安心感で生きている幸せを感じた。三年間眠っていたけど目を覚まして良かったと思える。彼と出会う為に目覚めたのではないかとも思えた。私は運命を感じていた。
如月先生とニアのおかげで私は高校生になれた。一年遅れの高校一年生で、ニアは先輩になった。初めて制服に手を通した時、私のセーラー服姿を見てお母さんは感激していた。でも私はついこの前まで小学生だったのに、いきなり高校生になったことに戸惑いを隠せなかった。中学校に行っていないけど、友達はできるだろうか。普通の十五歳としてみんなと打ち解けるだろうか。けど勉強面は心配なかった。たくさん勉強したから。学校で習うことだけじゃなくて、ファッションや美容、流行のものも雑誌を何冊も買って勉強した。
始業式の日、校長先生の長いお話を聞きながら私は緊張していた。人混みの中でニアを探したけど見つけられなかった。
教室に入ると、担任の先生がやってきた。髪は短く、背の低い綺麗な女の先生だった。
「担任の山瀬弥生です。一年間、よろしくお願いします」
山瀬先生は一礼して、それから生徒の各机の上に置いてある教科書の数や内容に不備がないかの確認を促した。
私は確認する際に、一冊の教科書を床に落としてしまった。それを拾ってくれたのは隣の席の女の子だった。
「あ、ごめんなさい。ありがと」
私はそう言って教科書を受け取る。
「あたし、深田南。よろしくね」
「よろしく。私は堅田東雲」
「東雲ちゃんって呼んでいい?あたしのことは南でいいよ」
「あ、じゃあ私のことも東雲って呼んでよ。南」
「わかった。そうする。よろしくね。あたしお父さんが転勤族で、中学はこの辺じゃないから友達ができるか不安で。隣の席が東雲で良かった。東雲とは仲良くなれそう」
「私も正直友達ができるか不安だったの。そう言ってくれて良かった。お互い友達作り頑張ろうね」
私と南はお互いの拳を小さくコツンとぶつけた。
移動教室も帰りも体育の二人組も南と一緒だったし、帰りにファミレスで一緒に宿題をやったり南の家に遊びに行ったりした。小学校の頃ニアと同じことをしていたなあと少し懐かしくなった。
私はニアにメールをした。
『友達できたよ』
数分後、ニアから返信が来た。
『良かったじゃん。私も安心だわ』
『ありがと。本当に良かった。ニアに教えてもらった勉強が役に立ったよ。如月先生にも感謝だわ』
『またファミレスで語ろう。今週の土曜日空いてる?』
『空いてるよ。学校近くのファミレスで会おう』
『オッケ。大好きよ、しの』
『私も大好き。土曜日楽しみにしてる』
土曜日、いつもはしないお化粧までして、私の一番のお気に入りのスカートを履いた。部屋にある姿見で何度も服装をチェックして、「いってきます」と家を出ようとした。その時。
「男か」
玄関の近くの喜翔の部屋のドアが開いた。私は急いで靴を履いて逃げるように家を出た。
「待てよ」
という喜翔の声と玄関が閉まる音が同時に聞こえた。私は走った。心が一瞬で恐怖心に染まった。喜翔が追いかけてきている気がしたけどそんなことはなかった。私はホッと胸を撫で下ろして、急ぎ足でファミレスへ向かった。
「しのー!」
ニアはもうファミレスの入り口に着いていた。手を振るニアに駆け寄った。
「ニア!お待たせ」
「待ってないよ、大丈夫。入ろっか」
「うん」
私たちはテーブルに着くと、ドリンクバーと軽食を頼んだ。
私は新しくできた友達のこと、制服にまだ慣れないこと、勉強はなんとかついていけていることなどを話した。ニアは受験勉強の話や進学の話をしてくれた。進学先の候補に都内の有名な大学の名前がいくつか出てきて、ニアならいけると思った。
二人で談笑していると、「こんにちは。お嬢さんたち」と声をかけられた。その声を聞いて、あっと嬉しくなる。顔を上げると、案の定そこには京がいた。
「如月先生!」
ニアも嬉しそうに声を上げた。
「先生もお友達と?」
「まあね。東雲は本当にニアちゃんと仲良しだなあ」
「まあね。小学生の頃から仲良しだから」
ニアはハッとして「先生、一問だけ教えてください」と参考書を開いた。京も「どれどれ」とニアの側に行って解説を始めた。大好きな二人が仲良くしている様を満足げに見つめていた。
「あー、なるほど。じゃあ答えはこうですね?」
「そうそう。正解」
一通り京の解説が終わると、ニアは「スッキリした」と笑顔になった。
「じゃあ、僕は友達のところに戻るよ」
京はにっこりと笑ってそう言って、私の耳のそばで「また連絡する」と囁いた。その様を見て、ニアが目を見開く。京がいなくなるなり、身を乗り出して、「しの、もしかして、先生と……?」とキラキラした目で訊いてきた。
「そうなの」
私は恥ずかしくなって口元を両手で隠した。
「おめでとう!初めての彼氏でしょう?」
「そうだよ。初彼。幸せだよ本当に」
「いいな。私も彼氏ほしいな」
「ニアならできるよ。好きな人いないの?」
「いないことはないんだけど……」
ニアは恥ずかしそうに口をもごもごさせた。深く追求しようとしたタイミングで、注文していた軽食が運ばれてくる。話題はそこで好きな芸能人の話に切り替わった。
帰ると、玄関に大きな革靴が置いてあった。お父さんだ。
「ただいまー!」
私は元気にそう言ってリビングに入ると、案の定お父さんがいて、「おかえり」と微笑む。
「お父さんもおかえりなさい」
「ただいま。ボストンバッグにお土産が入っているよ」
「わーい。ありがとう、嬉しい」
「しの、手洗いうがいしてきなさい」
「はーい」
なんでもない会話が幸せだと、このところ感じている。多分、京と付き合うようになってから。今はまだ京との関係を両親に言えずにいるけど、そのうちお話しできればいいなと思いながら家族団欒の時間を過ごした。誰も喜翔の話はしなかった。
「東雲。聞いてるのか?」
ハッとして前を向く。京が怪訝そうにこちらを見ていた。
「ごめんごめん。なんだっけ」
「大丈夫?ここの問題が分からないんだろう?説明するから、聞いて」
「うん。その前に、えっと、なんかさ」
話し始めようとした私の目を、京はまっすぐに見つめた。京はかっちりとした服装で、髪もちゃんと整えられていて、前から思っていたけどこんな安いファミレスには似合わない。
「あのね、こんな安いファミレスで会うのが申し訳ないというか。京ならもっと高いレストランの方が合ってるんじゃない?前みたいに京が友達とここに来てるのはなんとも思わないんだけど、デートで来るのはなんか申し訳ないというか。いや、別に高いレストランに連れて行ってって言ってるわけじゃないのよ?私はこっちの方が気を遣わなくて済むし。ただ、京はここで良いのかなって」
「ああ、正直なところ、」
京はふふっと笑った。
「僕は東雲がいれば場所はどこだって良い」
私は照れくさくなって、「そう、それなら良いの」と言った。
京は「そんなこと気にしなくて良いんだよ」と優しく言って私の頭を撫で、「じゃあ、この問題の説明をするよ」とシャーペンを手に取った。
そう、あれは私の誕生日の日。何十回目かのデートの日。
私たちは少し遠くの、港にある遊園地で一日を過ごした。ジェットコースターに乗って、ゲームセンターでプリクラを撮り、VRを体験して、クレープを食べた。いつもはクールな京もこの日ははしゃいでいた。歳上だけど、そのはしゃぎようが可愛くて私は一日に何度も惚れ直した。
私たちは自然な流れで手を繋いだ。勿論恋人繋ぎで。私の手が京の大きくて綺麗な手に包まれていた。
夜、大きな観覧車に乗った。底と周りがガラス張りになっていて、京はそれにも大はしゃぎだった。綺麗な街を一望できて、京はあそこにあの建物がある、とか、あそこに行ったことがあるんだ、とか引っ切り無しに喋っていた。
観覧車が頂上に近づくと、はしゃいでいた京が一瞬真面目な顔になって、「いい?」と訊いた。なんのことかは分かっていた。
「いいよ」
私はふっと微笑んで答えて、そっと目を閉じた。
京は恐る恐る、まるで割れ物を触るみたいに大切に、丁寧に、優しく、私の後頭部に手をまわしてキスをした。誰かとキスをするのは初めてだった。喜翔ともしたことがない。いいや、今は喜翔のことなんて忘れていたかった。
私は京を抱きしめた。京も私を抱きしめた。私たちは愛し合っている。同じ気持ちでいることが幸せで堪らない。京は喜翔とは違う。心から大事にしてくれている。心に深い傷を負った私のことを怖がらせないように、傷つけないように、怖いものから守ってくれる。
私たちは一緒に夕飯を食べた。私はオムライスを、京はハンバーグを食べた。お互いのものをお互いの口に一口運びあった。
「幸せ」
「僕も」
気持ちを確認するようにそう言い合った。
食事を終え、私たちは夜の街を一緒に歩いた。夜景が綺麗だった。一つ一つの灯りが星のようで、まるで夜空を歩いているような気持ちだった。
京は珍しく鼻歌を歌っていた。私は風になびく自分の長い髪を触りながらその鼻歌を聞いていた。片方の手を繋ぎ合って夜景の綺麗な街を一緒に歩いた。
しばらく歩いた時だった。
「僕、東雲と一緒に行きたいところがあるんだ」
京は言った。
「でも、怖いなら行かなくていい。今日は家まで送ってもいい。お兄さんのことがチラつくならーー」
「京」
私は今日の唇に指を当てた。
「私は京とならどこにだって行ける」
そう言うと、京は安心したように笑った。「良かった」と。その声は心なしか震えていた。
ホテルに着くと、京がチェックインをした。予約していたようだった。
「行こう」
チェックインを終えた京は私と手を繋いでエレベーターに乗って、十七階のボタンを押した。
「怖くない?」
京はしつこいくらい何度も私にそう訊いた。
「怖くないよ」
私は答える。
部屋に着くとお姫様抱っこをされてそのままベッドに降ろされた。ベッド脇に座る私と、その前に跪く京がキスをする。京は私の靴をゆっくりと脱がせて、足の甲にキスを落とした。物語の王子様みたい、そう思った。
唇を離して、京は私の頰を人差し指で撫でた。
「怖いなら言ってくれ。何もしないから。抱きしめて眠れたら僕はそれで満足だ。愛しているからこそ、東雲の気持ちを大事にしたい。長い付き合いにしたいんだ。死ぬまで一緒にいたい。だから僕は焦らない。焦って怖い思いをさせたくない」
京は今までで一番真剣な目をしていた。私は本心を語った。
「本当は、ちょっとだけ怖い。でも京なら全部を許したい。愛しているからこそ、私は京を信じている」
「優しくする」
京はゆっくりと私の着ているワンピースを脱がせた。それから自分が来ていたシャツも脱ぐ。
裸の京は意外にも筋肉隆々だった。
「鍛えてるの?」
私は筋肉の輪郭を指でなぞった。
「また東雲が二階から降ってきてもちゃんと受け止められるようにね。まあ、もうそんなことにはさせないけど」
京は私の手の甲にキスをした。
「一緒に住まないか」
「まだ高校生だよ、私。そういうのはまだ早いよ。きっとお父さんもお母さんも許してくれない」
「僕が説得する。家も東雲の実家の近くに構える。東雲のご両親がいつでも東雲の顔を見れるようにする。でもお兄さんには会わせない。オートロックの家にするから。勿論、全部東雲が良ければ、だけど」
「うん、うん。ありがとう。私もそうしたい」
一人の人間の優しさと愛に触れて、心の一番奥深くがじんわりと温かくなる。大事にされている。自分のことを考えてくれている。大切に扱われている。愛されている。満たされている。最高の夜だった。
京は焦らなかった。すぐには同棲の話をせず、何度かうちに通って私のお母さんと何度もお話をして信頼関係を構築した。付き合っている話をして、どれだけ自分が私のことを想っているのか、どれだけ喜翔が私の悪影響になっているのか、私が二階から飛び降りた話も交えて語った。お母さんは京の話を真剣に聞いていて、京の話に共感した姿勢を見せた。何度かそうしていた後で、京は本題に入った。
「僕は東雲さんと同棲を考えています」
京は続けた。
「でも東雲さんはまだ未成年で、高校生です。東雲さんに何かあった時、正直僕は責任を取りきれません。それでも東雲さんのお兄さんと離れて暮らすことで東雲さんの精神的な安定は約束できます。家もここの近くのオートロックのマンションをもう探しています。食費や水道光熱費などの生活費はこちらで負担するのでご迷惑はお掛け致しません。許可していただけますか?」
お母さんはうーんと唸った。それから、「ちょっと待っててちょうだいね」と言ってお父さんに電話をかけた。数分間通話をしていたと思う。その間、京は少し不安だったのか、テーブルの下で私の手に指を絡めてきた。少し汗ばんでいる気がした。
通話を切ったお母さんは難しい顔をしていた。
「お父さんが、相手が京くんなら構わない、と」
京はホッとしたような顔をした。
「泰親さんの息子を信じると言っていたわ。責任重大ね」
お母さんは笑っていた。泰親さんとは京のお父さんのことで、私のお父さんの直属の部下にあたる人だ。
「父にはもう話しています。東雲さんを傷つけるようなことをすれば家を追い出すと言われました。なので僕は誠意をもって東雲さんと一緒に暮らします」
京は椅子に座ったままお母さんに頭を下げた。
「しのをよろしくお願いします」
お母さんも頭を下げた。
「そんなこと許さない」
不意に後ろから声がして、ヒッと声が出た。振り向きたくない。私は京の手を握った。握ったというか、掴んだと言った方が適切かも知れない。
「喜翔」
お母さんが口にする。
喜翔はズカズカとリビングにやって来て、「最初からこいつは気に入らなかったんだ」と言った。
「しのは俺のだ」
そう言った喜翔のことを、京は肩越しに睨んでいた。
「あなたには関係のない話よ、喜翔。部屋に戻りなさい」
「この家からしのがいなくなるなら俺もついていく。しのがいない生活なんて嫌だ」
「それは許しません。いいから部屋に戻りなさい」
喜翔はお母さんの言うことを聞かなかった。遂に京が立ち上がる。
「東雲さんは渡しません。もうこれ以上傷つけるようなことはさせません。指一本でも触れることを許しません。あなたのせいで東雲さんは二階から飛び降りたんですよ。わかっているんですか。下手したらあの時死んでいたんですよ」
京の声は震えていた。
「今日から新居が決まるまで東雲さんは僕の家で暮らします。良いですね?」
京はお母さんに訊いた。お母さんは「ご迷惑をお掛けします。でも喜翔からは離さないと」と言った。緊迫した空気が広がる。喜翔と京は睨み合い、お母さんは「どうしてこんな子に育ってしまったのかしら」と嘆いた。私は喜翔が視界に入っている恐怖で体が震えていた。そんな私の肩を抱いたのは京だった。「大丈夫、僕がいるから」と安心させるように繰り返し言ってくれた。
「しのに触れるな!」
喜翔は京に掴みかかった。お母さんが悲鳴を上げ、京は咄嗟に私を庇った。喜翔は京を殴りかかり、京は喜翔の拳を手で受け止めた。喜翔の怒号が聞こえ、私は耳を塞いだ。
もうやめてーー。私の声は声にならなかった。
「何をしている!」
突然声がして、私はハッと顔を上げた。そこにいる誰もがリビングの入り口を見た。
「親父」
そこにはお父さんが立っていた。
「お父さん!」
私とお母さんは縋るような声を出した。京はどんと喜翔の胸を突き飛ばし、喜翔がよろける。
「喜翔、お前は病院送りだ。半年ほど診てもらえ。どうかしてる」
「親父の言う通りにはならねえ」
「そうか、じゃあ警察を呼ぶ」
お父さんがそう言った瞬間、喜翔が苦虫を潰したような顔をした。
「俺は何もしてないだろ」
「実の妹を強姦したとしのの主治医から聞いている」
「あれは合意の上だ」
そう言った喜翔に、「違う!」と叫んだ。あれは合意の上なんかじゃない。怖かった。悪夢のような、地獄のような時間だった。言葉にならないくらいに。
「とにかく、喜翔はしのから離れろ。これは命令だ」
お父さんは冷たい目で喜翔に言い放った。喜翔は舌打ちして、京に暴言を吐いた。
「死ねよ、糞虫野郎」
京は動じなかった。ただただ私の肩を抱き、喜翔を睨みつけていた。
その夜から私は如月邸にお世話になることになった。私は両親と一緒に如月邸に向かった。お父さんが「少しの間ですがうちの娘がお世話になります」と京の両親に頭を下げると、「とんでもない。ゆっくりしていってください」と京の両親は言った。その後両親同士が軽くお酒を飲みながら談笑しているのをリビングのふかふかなソファに座って京と見ていた。
「疲れた」
京は小さな、本当に小さな声で言った。
「うん、私も」
今日は疲れた。喜翔が現れなければとても良い日だったのに。
「でも東雲がこの家にいてくれて嬉しい。そばにいてくれて幸せだ」
京はさりげなく私の手の甲にキスをした。
「私も、そばにいてくれて嬉しい。安心できるから」
日付が変わった頃、両親は如月邸をあとにした。
「東雲さんのお部屋はこっちよ」
案内されたのは、恐らく京のお兄さんの部屋だった。お兄さんはデキ婚したんだと京が言っていたことを思い出す。
「母さん、僕は東雲さんと結婚を前提にお付き合いをしているんだ。一緒の部屋で寝ても問題はないでしょう」
京は珍しく寂しがるような声でそう言ったけど、
「だからこそ何かの間違いが起きることは避けなければならないのよ、京」
とお母さんに言われて渋々引き下がっていた。
京のお兄さんの部屋は広くてベッドも大きくてふかふかだった。疲労困憊だった私は、お風呂に入った後、軽くベッドに沈み込んだだけで深い眠りについた。
目が覚めたのは朝で、私は持って来ていた制服に着替えた。用意された朝食を京と一緒に食べた。
「行ってきます」
と、二人で家を出た。京は大学に、私は高校に向かった。
「何かあったら連絡して」
京は昨日の喜翔のことを思い出して心配しているようだった。
「わかった」
私は頷いた。分かれ道に差し掛かった時、京はそっと私の額にキスをした。
「じゃあ、また夜に」
私は京に手を振った。
「東雲、おはよう」
「南、おはよう」
私たちは下駄箱で挨拶を交わした。
「今日小テストだってね。自信ないわ」
「南なら大丈夫よ。頭いいの、私知ってるんだから」
「やめてよ」
南は照れ臭そうに笑った。
なんでもない日常を送れていることに安心する。喜翔のいない生活が、京のいる生活が、幸せで堪らなかった。
京が新居を探すまでに時間はそうかからなかった。京が見つけた新居は、私の実家から徒歩五分圏内の、オートロックで監視カメラがいくつもあって、守衛さんがロビーにいるような立派でセキュリティ万全なマンションだった。家賃はいくらなんだろうと思ったけど、京は気にしなくていいと言った。どうやら京はもう既に働いているようで、収入はそれなりにあるようだった。それでもこんな立派なマンションに住めるのは京の実家からの支援ありきのようだけど。
引越しにはそう時間がかからなかった。家具は新しく取り揃えたし、必要なものは少なく、荷物の殆どは実家に置いてきた。
それから京との同棲が始まった。一緒に暮らすと良いところも悪いところも見えてくる。
京はお酒に弱かった。何度も吐くところを見たし、何度吐いたら自分の限界を知るんだろうと呆れることもあった。
でも酔っ払った京は普段言わないことを言ってくれる。
「東雲。好きだ」
「うん、私も好きよ」
「僕の方が好きだ。誰にも渡さない。僕だけの東雲」
京は何度もキスをしてくれた。私はお酒に酔う京には呆れていたけど、それでも好きだと思えた。好きになってよかったとも。
守衛さんからの「またあなたのお兄さんが来ていましたよ」の言葉は気にしないようにしていた。
私は京との生活と共に高校生活を送った。南とも高校三年間ずっとクラスが同じで、ずっと仲良しだ。ニアは都内の有名な大学に無事合格して、今でも連絡を取り続けている。私が入院中にニアから勉強を教わっていた時に言った、「ニアは勉強を教えるのが上手いから教師に向いてると思う」という一言で教師になることを決めたそうだ。
私も高校三年生になって、進路を迫られた。三年間眠っていた私が、高校三年生になれたのは奇跡だ。「第二の人生」をどう過ごすか、私はもう決めていた。
『××大学法学部』
進路希望調査書にそう書いた。私の目標は、喜翔を法で裁くこと。その為に私は法律を勉強する。そして私と同じように男性から怖い目に遭わされた女性の心を救いたい。そんな人になりたい。進路希望はそれしかなかった。
京にもその夢を語った。京は「応援する」と言ってくれた。
受験勉強は京の協力を得て成り立っていた。解らない問題だらけで苦労したけど、京は夜遅くまで勉強に付き合ってくれた。そのおかげで私は希望する大学に進学することができた。京と住むこの家から通える、広いキャンパスの総合大学だった。私はそこで四年間法律関係の勉強と一般教養を身につけた。他の学部の友達もたくさんできて、楽しい大学生活だった。勉強は難しかったけど、友達と協力して課題をこなしたりテストを受けたりした。
卒業式の日、袴姿の私を京が私の両親と一緒に写真を撮りに来た。今日は記念すべき日だ。
その日、私は両親をリビングに呼んで、京と並んで向き合った。
「私、如月京と婚約することになりました」
少し照れくさくてふふっと笑うと、お母さんは感激したような顔で喜び、お父さんは京君なら安心して東雲を任せられるよ、と嬉しそうな顔で京と握手した。
「お義父さん、お義母さん、これからよろしくお願いします」
京は丁寧に一礼した。
その夜だった。喜翔が家の三階から飛び降りて自殺したのは。喜翔を蔑ろにしてきた両親もこれには面食らったようだ。悲しげな顔をしたけど、「しのじゃなくて良かった」と言った。
喜翔の自室の机の上には「愛の為なら喜んで翔ぶ」とだけ書かれた紙が置いてあった。カッターナイフで何度も深く切りつけられた勉強机は喜翔の血で赤黒く染まっていた。部屋の中はまるで殺人現場だった。喜翔のリストカットは続いていたようだった。遺体にはいくつもの新しい傷があった。喜翔は最期まで歪んだ愛をもった人だったと思う。どうしてそんなに歪んでしまったのか、結局知ることはできなかった。あれだけ憎くて死んじゃえばいいと思っていた人だけど、いざ死んでしまうと何を考えて生きていたのか、どうして私に執着してたのか、ちょっとだけ知りたいと思ってしまう。
「死ねばいいのよ」といつだったか私は喜翔に言った。その通りになったけど、満足感は得られなかった。
喪主を務めるお父さんは疲れ切った顔でお話をした。
そのマイクを取り上げる、祖母。祖母は車椅子に乗っていて、怒った、憎悪に満ちた顔で言った。
「喜翔はこの親どもに殺されました」
と。その声は震えていた。
もうやめてくれと思った。もうこれ以上私の心をいじめないでくれ、と。親族が集まっている会場はざわつき、葬儀会館のスタッフさんが慌ててマイクを取った。祖母は何やら喚いていたけど、もう何も聞きたくなくて耳を塞いだ。
葬儀の日には雨が降っていた。一つの傘で、お互いの肩を片方ずつ濡らしながら京と葬儀会館を見上げた。
「目標が潰えたわ」
「また新しい目標をもてばいい」
「もう自分の兄を起訴して有罪にする以上の目標なんてもてない」
「ゆっくりでいいんだ。ゆっくり探そう。主治医もそう言ってたんだから」
「もう、何もかもわからない」
「それは思考を拒否してる証拠だ。考えるんだよ、今しなきゃいけないこととその次にしなきゃいけないことを。今しなきゃいけないことはお兄さんを弔うことで、次にしなきゃいけないことは僕らの結婚式だ。うんと素敵な式にしよう。お兄さんが心から嫉妬するくらいに」
私は自分の頰に涙がつたうのを感じた。なぜ自分が泣いているのかわからなかった。京は静かにその雫を指ですくった。
「幸せになろう。他の誰よりも幸せだと言えるくらいに」
京は言った。
季節は夏になった。
喜翔の死によって私の脅威は完全にいなくなった。私の精神状態は前よりも良くなった。私はもうきっと飛び降りることはないだろう。
病院の庭、目覚めてから初めて喜翔に会ったあの紅葉の木を訪れた。そこに一株のワスレグサを植える。
「さよなら、ショウ」
私はもう過去と決別した。これからは未来を歩んでいく。
復讐する為の勉強を通じて出会った男性と、今日、私は結婚する。私はわざと両親に喜翔の遺影を持ってくるように頼んだ。地獄にいる「奴」に見せつけてやろうと思った。
運命は、その時になってみないと運命だと気付けない。
京は喜翔が死んだ日に、喜翔が嫉妬するくらい素敵な結婚式にしようと言った。私は鏡の前に立って純白なドレスに包まれた自分の姿を見た。これも私の復讐だった。この姿で、今日結婚するのが、幸せな気持ちになるのが、誰よりも幸せだと胸を張って言えるのが、喜翔への復讐だった。
お腹には新しい命が宿っていた。
最後まで読んでくださってありがとうございます。わかりにくかった点や何か感想等あればコメントをいただけると幸いです。