春愁
冬の匂いが消えてゆく、春の風に吹かれる最中、僕の帰る頃の駅のホームは、まだ寒く、
お気に入りのコートのポケットに手を入れた。
そうして待っていても、電車か同じ帰路の見知らぬ人達しか来ない。
いつもなら小さく狭いはずのポケットは、
今はもう広く感じるからか、はたまた僕が冷えやすいだけなのか少しだけ手が冷えている。
指と指の間には、違う体温はなかった。
急行という乗り慣れない電車に乗り、君がいる駅を通り過ぎる。車窓から眺める景色は、僕を一層に虚無という闇に引きずり込む。
あの住み馴染んだ狭いワンルームで
君と食事を共にし、酒を煽り語り合い、狭いベットで肩身狭くして寝ることも、
今ではもう空に流れ割れたシャボン玉の様に
一瞬の日々だ。
愛の糸を紡ぐことが出来れば、いつしか切れるのだ。
僕は自宅に着くや否や、四つの赤い薔薇が描かれたボトルをグラスに注ぎ、琥珀色のその酒を豪快に飲み干す。
喉が焼ける様な感覚には、もう慣れている。
お気に入りのコートを壁にかけ、もう一杯、二杯三杯と喉に流し込んでいく。
時間が経つにつれて、君は誰かと笑えているのだろうか。
1人で泣いていたりしないだろうか。
その心の中に僕はまだいるのだろうか。
ふと、そんな事ばかりを考えてしまう。
聞き慣れた甘い君の声が、今でも頭の中で僕の名前を呼んでいるせいだ。
噛みしめても、唇から血が出るだけで、この心傷に比べればどうってことはない。
いくら呑んで吐いたって、心の重りが出てくることはない。
釣り針の様に引っかかって抜けないのだ。
そして気付けば、僕は抑圧する幽愁へと溺れていき、眠りにつくのだ。
翌る日も何気なく、仕事帰りに君と歩いた場所に出向き嘆息をこぼす。
今年は君と見ようと約束をたてた、通い慣れた桜並木の下で、もう来ないと分かりきっていても、僕はまだ待っているのだ。
桜咲開花前に君を。