52.大人の意地
頭上を見上げれば、満天の星々。
そして、地球よりも大きく見える月。
天体観測の趣味なんてないけど、素直に綺麗だなと思う。
周囲は痛いほど静かで、時折聞こえる薪のパチパチと爆ぜる音が、なんとも安らぐ。
キャンプ用の椅子に深々と腰掛けた俺は、タブレットを膝に置いて静かに目を閉じた。
異世界でキャンプ。
自然の中で、ゆったりと過ごす。なんとも、贅沢な話だ。少し前の俺では、異世界の部分を取り払っても想像もできなかった。
ゴブリン退治を終えた俺たちは、月影の里には戻らなかった。
距離的に日帰りは充分可能だったが、新しいキャンプ装備を試すことにしたのだ。というか、これが予定通りではある。
野営のOJTみたいなものだ。本條さんには通じなかったけどな、OJT。
野営の場所は、カイラさんが選んでくれた。
森の中の開けた一角。《水行師》のスキルがあるから水場を考慮しなくていいのは楽だと言われたのは、ちょっと嬉しかったりしたのだが……。
「ここをキャンプ地とするわ」
と不意打ちを食らって思わず吹き出してしまった俺に、罪はないと思う。パラダイムシティの交渉しない交渉人も、認めてくれるはずだ。
ゴブリン戦の疲れはあったが、設営はスムーズだった。
初めての設営ということで手間取る部分もあったが、装備自体が優秀だったのだろう。
「思っていたよりも簡単でしたね」
「そうだな」
最初のひとつで手順を学習すると、二つ目、三つ目は実にスムーズに設置できた。
やっぱり、高級品は違うな。
金に糸目を付けない。なんと響きのいい言葉か。
だけど、片付けのことを考えると、できればテントは組んだままの状態で《ホールディングバッグ》にしまっておきたいところだ。
でも、体積的に難しいんだよなぁ。
追加で石を払ったら、《ホールディングバッグ》の容量拡張とかできないものかな? 《ホールディングバッグⅡ》とかあってもおかしくないよね? 今度落ち着いて、スキルやアプリの総ざらえをしたほうがいいな……。
食事は、キャンプ用品を用意した時に、ついでに買った缶詰なんかを試してみた。
豪華というわけではないが、外で食べると美味しさに楽しさが加味される。
将来的にはインスタントラーメンとかも試してみたいが、それにはメフルザードをどうにかしなきゃいけない。
まったく、ままならないものだ。
大人しく、うちの会社の社長に収まってくれればいいものを!
そして、今。
夜になって、俺と本條さんはたき火の周囲で寛ぎ、カイラさんは夜の見回りに出ている。
つまり、エクスはいるが二人きり。
エクスは、自分の都合で出てこなかったりするからね……。例えば、今みたいな状況とか。
だが、こういう事態は今後も発生するだろうから、うろたえてはいけない。ドイツ軍人ぐらい、うろたえない。
もっとも、少なくとも本條さんはまったく意識していないようだ。
なにしろ、キャンプチェアに腰掛けて、ずっと例の魔道書を読みふけっているのだから。
本の外観が酷い。めちゃくちゃ酷いことを除けば、実に絵になる光景だ。SNS映えというよりは、洋館とかに飾ってある絵画のよう。
「それ、面白い?」
本條さんが読書の手を止めたタイミングを見計らい、俺は尋ねた。
そろそろ寝る時間だから、そのクッション的に声をかけたというのもあるし、ひとつ確認しておきたかったというのもある。
「はい。一度では理解できないのが、とてもとても素敵です」
「ほう」
なるほど、分からん。
いや、実は分かる。
一回読んだぐらいじゃ、頭に入らないくらい難しい。それはつまり、何度でも繰り返し読めるということ。
それは本條さんにとって、とてもとても素敵ということなのだろう。
「本当にありがとうございます」
「有効活用できたほうが、本も喜ぶさ」
「そう……ですね」
ただ読んで楽しむだけではない。
理力魔法の呪文書としての有効活用。
それに思い至り、本條さんは儚げに微笑んだ。
薄闇の中、それは怖いくらいに魅力的だった。
「今日はどうだった? いや、どう思った?」
「正直なところ、実感がありません」
俺の唐突な問いに、本條さんは間髪を容れずに答えた。
ただ、本を閉じない。
「必要なことですし、悪いことをしているわけでもありません。他者の命で成長してきたというのも理解しています。自分でやるか、他人にやってもらうかの違いでしかないはずです」
一分の隙もない、論理的な答え。
もしかしたら、魔道書に目を通しながらずっと考えていたことなのかもしれない。
「ですが、そんな認識ではいけない気がして……それが気持ち悪いです」
気持ち悪い。
その年相応の潔白さに、俺は羨望に似たなにかを憶える。
「まあ、それでいいんじゃないかな」
今の俺には、そんな綺麗な考え方はできないのだ。
「これは本條さんの倍ぐらい生きてるから自慢気に言うんだけど、0か1で割り切れることなんて、びっくりするほど少ないんだよ」
ほんとにね。
0と1で構成されているプログラムですら、どこが駄目か分からないこと多数だからね。
「たぶん、世界は絡まったスパゲッティでできてるんだと思う」
「スパゲッティですか?」
「スパゲッティコードって、聞いたことない?」
人類悪のことだよ。
「……秋也さん、ありがとうございます」
顔を伏せているので、どんな顔をしているのか分からない。
けど、まあ、悪い方向には進まないだろう安心感はある声だった。
「もう、寝ますね」
「うん。それがいい」
睡眠って、すごいからね。
「俺は、カイラさんを待ってるから、遠慮なく」
「そうさせてもらいます」
本條さんは、「おやすみなさい」と綺麗な所作でお辞儀をすると、自分のテントへそそくさと入っていった。
なんとも綺麗な所作。
育ちが違うなぁ……。
「オーナー、あれがいわゆる誘い受けというやつですね?」
「絶対違うから。俺を犯罪者にしてどうする」
「同意があれば問題ないのでは?」
「問題しかない」
などと、ある意味で空気を読んで出てきたエクスとバカ話をしていると、カイラさんが戻ってきた。
「あら、ミナギくん。先に寝ていて良かったのに」
「まさか。カイラさん、どうだった?」
「平和なものよ。でも、一応仕掛けはしてきたわ」
夜番が必要ないようにねと言って、自分のキャンプチェアではなく、俺のほうへ近付いてくる。
そして、ぐっと顔をのぞき込んできた。
「大丈夫?」
「ああ。本條さんなら、もう寝るってさ。たぶん、心配ないと思う。彼女は賢いよ。賢いだけじゃいつか折れることが分かっているぐらい、賢い」
肉体も精神も、立ち直りが早い。
命を狙われて、命を奪っても。
これが若さか……と、ちょっとうらやましくなる。
「違うわ。ミナギくんよ」
「俺?」
俺は別に、なんともない。
そんなに繊細にできてない。もしそうだったら、とっくに会社辞めてるからね。
「でも、自分よりも弱い敵を相手にするのは初めてだったでしょう?」
俺は答えない。
「今までは、あれこれ考える余裕がなかったけど、今回は違ったわよね?」
「まあ……ね……。辛くはないけど、きつくはあるかな」
別に忌避することもない。
罪のない存在を相手にしているわけじゃない。
だけどそれでも、ゲーム感覚で割り切ろうとするには、リアルすぎた。
匂いがね。ちょっときつかったな……。
改めて、命を奪っているという実感があった。
「でも、ここで俺が音を上げるわけにはいかないからね」
「分かったわ」
大人の矜持。
それを捨てられないことを理解してくれたようだ。
カイラさんは納得してテントへ入……ろうとはしなかった。
ホワイ?
「み、ミナギくん……っっ」
「はい?」
返事をすると、カイラさんの白皙の美貌が視界を占拠した。
え? え? え?
強引に椅子の隙間に入ってくる。
気付けば、カイラさんに抱きしめられていた。
「きょ、今日はこうして寝ましょうか?」
「はひゃ?」
おれはしょうきにもどった。
「こ、これは、特別なことではないのよ? うちの里でも、初任務の後は家に帰ることを許されているの。影人として成長するうえでのイニシエーションみたいなものだから」
他意はない。
そう、カイラさんが早口で主張する。
「でもこれは……」
「嫌?」
「きけんがあぶない」
添い寝。
カイラさんと添い寝。
本條さんがすぐ側で寝てるのに。
寝袋で添い寝……だと……?
「あ、エクスはスリープモードに入っているので。ほんと、全然まったく気にしないでください。むしろ、その姿を心から応援するものです」
「そんなことを言って、写真撮って脅すつもりでしょう」
エロ同人みたいに! エロ同人みたいに!
危ねえ……。
エクスがいなかったら、危うく流されるところだった……。
その後、なにが起こったのか。それは、箱の中の猫の生死と同じく定かではない。
とりあえず、変な夢を見るようなことはなかったとだけは言っておこう。
シリアス(っぽい)話は終わり。
次回、やっと、冒険者ギルドへ……?