悪の華
―― 一目会ったその日から、悪の華咲くこともある
フランスの詩人ボードレール(1821~1867)
その夜、昔の夢を見た、
「――あははははは……。ばーか、しんじてやんの。こんなのうそにきまってるでしょ?」
“悪”とは力だ。
子供のころ、あの女がそう言っていた。小学五年のバレンタインデーの放課後に。
当時は『不良』でなくまだ『悪ガキ』とだけ呼ばれていた加藤八千代は、校舎の裏に俺を呼び出した。だが、それはよくある種類の悪戯だった。彼女は隠れていた仲間たちと一緒になってさんざん俺をからかった。
そのあとで――、
「――あんたは勉強できる“よい子”でしょ? だから悪くなくてもいいの。でも……」
うんと小声でこう囁いた。
「――でも、あたしは頭悪いし、家も貧乏だから、悪くなくっちゃいけないの」
彼女はそれからも、仲間がいる前では徹底的に俺を苛めた。
(……俺も、その力を持とう。もう、今までの自分でいたくない)
悪は力。シア姫にカーラ、この貧しい村――善なるものの無力を、これほどはっきりと目にさせられたのだ。正しい自分ではいられない。
「……いちゃん、お兄ちゃん起きなよ。もう朝だよ」
妹に体を揺すられ目を覚ますと、すでに窓の外では朝日が昇っていた。
「そろそろ仕度した方がいいんじゃないの?」
「ああ、そうだな……。よし、始めよう」
2
太陽の動きが地球と同じであるならば、今はざっと午前七時。
女騎士カーラが自分の寝室から廊下に出ると、ちょうどそこにいた俺たちと目が合った。
「フタバ……それに、キョーイチローも……。なぜ、そんな格好をしている?」
「あっ、カーラさん。おはようございます。服、勝手に借りちゃいました。これ、召使いさん用の服ですよね? わたしたちの国だと、女子用は『メイド服』、男子用は『執事服』っていうんですよ」
そう。
俺たち兄妹が着ていたのは、ふたばが使用人の待機室らしき部屋から見つけてきた服だった。
全体的に落ち着いたデザインをしており、また金属製のチャックやプラスチックのボタンはついてなかったが、それ以外は地球式のメイド服や執事服とよく似ていた。
「どうです、似合います? ……あれっ、カーラさん、なんだか微妙な顔してる。もしかして、勝手に着たらいけませんでした?」
「いいや、それは構わぬが……。しかしフタバよ、なに故、召使いの服などを? 客人にそのような卑しき職の格好をさせては、私が姫様から叱られる」
「えっ、この服、そういう扱いなんですか!? うちの国だと、けっこう人気ある服なんだけどな……」
いや、冷静に考えれば地球でも同じだ。召使いの服なのだから、そういうものだ。
「ま、いいや。カーラさん、今の『なに故、召使いの服などを?』って質問の答えですけど、そんなの決まってるじゃないですか」
「なんだ?」
「わたしたち、姫様のために働こうと思って。ただお世話になるんじゃ悪いから」
「働く!? 召使いとしてか? 客人そんなことをされては、本当に姫様に叱られる!」
「いいから、いいから。わたし、お料理得意なんですよ? いっつもご飯作ってるから。この世界――じゃなかった、この国にない珍しいお料理を作ってあげます。ちゃんとしたご飯、しばらく食べてなかったんでしょ?」
「それは、まあ……」
“紅百合の騎士”カーラ・ルゥは、戸惑いつつも『ごくり』と唾を飲む音を出し、自分でそれに気づいて顔を真っ赤にさせていた。
昨日から薄々思っていたのだが――カーラの“紅百合の騎士”という称号、もしかすると『よく顔を真っ赤にさせてる』という意味であるのかもしれない。なにかあると、すぐに耳まで赤くなる。
「じゃあ、カーラさん、台所使わせてもらいますね」
「う、うむ……」
実際、ふたばは料理が得意だ。
小四のころから、ずっと料理はふたば、それ以外は俺が家事を分担している。昨夜も料理の本を見ながら『この世界、卵料理の種類少なすぎ! 姫様とカーラさんにもっといいもの食べさせなきゃ!』と嘆いていた。
「カーラさん、この国ってあんまり卵料理の種類ないですよね? 実は昨夜、客間の本棚に料理の本があったから、寝る前に読んでたんですけど――見たところスクランブルエッグ以外には、オムレツと目玉焼きとゆで卵くらい……。茶碗蒸しやプリンって食べたことあります? それから、スフレやたまご蒸しパンも」
「いいや、どれも聞いたこともない料理だが……」
「じゃあ、朝食にどれか作ってみますね。美味しくって、しかも安上がりなやつを」
「なんと!? 美味である上に安上がりだと? そんな、魔法のようなことが……いや、本当に魔法であるのか!?」
カーラはまた、ごくりと喉を鳴らしていた。
「では頼むぞ……。それと、一応念を押しておくが――」
「――? なんです?」
「“あれ”は作るな。昨日の、ほら……」
「ああ、マヨネーズ? わかってますって。犯罪ですからね」
「うむ……」
ふたばの返事に、カーラは安堵したような、あるいはそうでもないような、どこか煮え切らない顔をしていた。
この表情の理由に、俺は察しがついていた。
妹が台所で料理を始めたので、今度は俺がカーラと話す。
「カーラ殿――」
「なんだ?」
考えてみれば、カーラの名を本人の前で声に出して呼ぶのは初めてだ。
おかげで、つい『カーラ“殿”』などという古風で堅苦しい言い回しをしてしまった。
「カーラ殿、我ら兄妹が滞在中、この城の雑事を手伝いましょう。我が妹ふたばが、姫様とカーラ殿のお食事を作ります」
「なるほど……。それでキョーイチローよ、貴様はなにをする? 貴様のような妹想いは、自分だけ怠けてはいられまい?」
「自分では、さほど妹想いとは思ってませんが……しかし、無論です。俺は料理以外の家事全般と、それから――」
きっとカーラは、ずっと気になっていたに違いない。さっきの顔もこれが理由だ。
この俺が手にしていた“これ”を。
俺が左手に持っていた、この蓋つきの小さな金属盆を。
盆の上になにが乗っているのか。蓋の内側になにがあるのか。
もしかして、それは“あれ”ではないのか? ――そんな期待もしていよう。
(さっきから『ごくり』と鳴らしてる喉も、本当はふたばの料理を期待してじゃなく――)
この中身を期待してのことかもしれない。現に、今また唾を飲み、顔を赤くさせていた。
「詳しくは、ここではちょっと……。どこか別の部屋でお話ししましょう」
「う、うむ……」
俺とカーラは、廊下の突き当たりにある階段を降り、地下の物置部屋へと向かう。
それは使わない壷やら食器やらが置かれた倉庫だが、壁と床は石造りで扉も分厚く、窓はない。
灯りは薄暗いランプのみ。本来は牢獄として使うための部屋かもしれなかった。殺風景で音漏れもせず、密談をするにはちょうどいい。
――カーラ殿、貴方の想像している通りだ。
蓋の中身は、例の“あれ”だ。