呪い
1
「では姫様、お休みなさいませ……」
「ええ、お休みなさい」
と、挨拶を交わして部屋を出た。
廊下に出てきたカーラを、ふたばがいきなり呼び止める。
「カーラさん、さっきの話って本当なんですか!?」
「フタバ……それに、キョーイチローも……。貴様たちの国では、立ち聞きは行儀の良い行為であるのか?」
「それは、ごめんなさい……。でも、ええと――」
「なんだ、フタバ? 訊きたいことでもあるのか?」
「はい。あの……この村って、どうしてそんなに貧乏なんです?」
我が愚妹の不躾で遠慮のない質問に、カーラも思わず苦笑する。
「ふん……。貧乏に決まっている。ここの農地からはろくな作物が取れないからな。飢え死にすることはなくとも金が入ってくる道理がない」
「ろくな作物が取れないって……でも、卵の花はあんなに生えてるじゃないですか」
「残念だが、あの卵のせいで金がないのだ。あの花――タマゴケイトウは、村人たちが望んで畑で育てているわけではない。実は、あれは……」
カーラが続けて口にした言葉は、あまりにも意外な、そして異世界らしい理由だった。
「“呪い”なのだ」
「呪い?」
「そうだ。魔女の呪いだ。この国の者なら、おとぎ話で子供でも知っている。――この地はもともと麦の産地であったのだが、何百年か昔の飢饉の際、村人が魔女に騙されて願いごとをした。『卵を腹いっぱい食べたい』とな。それ以来、この一帯の農地からは、あのタマゴケイトウが生えるようになった……いや、あれしか生えなくなったのだ」
畑から穫れるのが秋にならねば食えぬ麦でなく、卵であればよかったのに。――村人の一人がそう願った翌朝、村中の畑にはあの赤い花が生えていたという。
地球でなら伝説や神話の類でしかないが、この異世界では今ここにある現実だ。
「おかげで飢饉が終わっても、ずっとこの地は貧しいままだ」
「……? それ、よくわからないです。卵は取れるわけじゃないですか」
「毎日、卵だけを食べるのならば問題あるまい。
だが、実際には人は卵だけでは生きてはいけぬし、農民は卵だけ育てて食べてもいけぬ。農作物は売って金にしなければ。――それに税もだ。この国では税は銀貨で納める決まりになっている。どうしても金は必要だ」
「じゃあ、卵を売れば?」
「だれが買う? 卵は村中で取れるのだぞ? 他所に売ろうにも、どこの村や町でも鶏くらいは飼っている。そもそも卵は穀物と違って日持ちがしない。商品にはならぬ」
たしかにそうだ。
卵は倉庫に長期保存することもできず、出荷の準備をして荷馬車で運んでいるうちに鮮度はみるみる失われていく。それならば、消費地の近くで生産すべきだ。
地球のように冷蔵庫があれば――あるいはトラックや高速道路があれば、他所へと売りに行けるだろう。しかし、この世界ではそうはいくまい。
まして卵は壊れやすいものの代名詞。運ぶだけでも骨が折れよう。
「商品になる作物は、呪いの汚染が少ない村はずれの農地で作った麦と、川辺に自生する水オリーブの油くらい。
だが油は近くに大きな産地があるので、さほどの金にはならぬ。――あとは領民たちの出稼ぎだ。若い者たちが他の町で働いて賃金を得る。現状、これが一番の収入源となっている。村として健全な形とは言いがたい」
どうやら、思った以上に深刻な状況であるらしい。
前の領主は重税を課すことでなんとか領地経営をしようとしていたようだが、話を聞く限りでは焼け石に水というものだろう。シア姫の言う通り、税でなんとかなるレベルじゃない。もっと根本的な解決策が必要だった。
「姫様は領主になられて二年目だが、国庫に納める領地税も、去年はほとんど私財で立て替えられた。だが、さすがに今年はもう無理だ……。
領地税は銀貨五〇〇枚。王都の徴税人が来るのは三ヵ月後。それを過ぎれば領地と貴族号は没収されよう」
つまりは、あと三ヶ月――。あまりにも短すぎるタイムリミットだ。
「貴族でなくなれば、姫はコトヴィック大公の求婚を断れぬ……。平民は上級貴族の命令に逆らえぬのが、この国の法であるのだからな」
そして、例の『ババア大公の百合妾』というわけか……。
2
俺とふたばは寝室に戻り、またベッドに腰掛ける。
「お兄ちゃん、寝巻きに着替えるから、ちょっと後ろ向いててよ」
「わかった」
用意されていた寝巻きは、女物のワンピースドレスに似た形状のものだった。
男女共用でズボンはない。背中側はサイズ調節のためか大きな穴が開いて、それを紐で留めるようになっていたが――、
「あれっ? へんなところから頭出た……。お兄ちゃん、助けて! こっち見てもいいから手伝って!」
「やれやれ……。なあ、ふたば――」
ふたばはジタバタと寝巻き相手に格闘するうち、スカート部分がめくれ上がってパンツ丸出しになっていた。
もしかすると暗い空気を払拭すべく、わざとおどけていたのかもしれない。
――だとすれば、その後の俺の発言は、そんな妹の気遣いを台なしにするものであったのだろう。
「……この世界も、『いい世界』じゃなかった」
「そうだね、お兄ちゃん……」
俺は、ここが『地球の日本よりいい世界』だと思っていた。シア姫やカーラ・ルゥのような善良な人間たちが住んでいたから。
だが、本当はそうじゃなかった。
「ここも、同じだ。地球と同じだ」
世界に正義はない。神もいない。この異世界でもそうだった。
正しき者が苦しむ、絶望の牢獄だ。
「まあね……。でもね、お兄ちゃん、こう言っちゃなんだけど、姫様やカーラさんの方が事情は全然深刻なんだからね? お兄ちゃんはただのラッキースケベ事故なんだから」
「いいや、同じだ。変わらない。罪なき者が悪意に負ける――そんなおぞましい、決して存在してはならない世界だ!」
「また、カッコつけて芝居がかった言い方しちゃって!」
黙れ。今、はっきりと理解した。もとから世界は、そうだったのだと。
俺は、ずっと夢を見ていた。
現実から目を閉ざし、ありもしない空想の夢を――。
俺が信じていたのは、騎士や魔法などよりずっと現実離れしたファンタジー。
『――正しく生きていれば、幸せになれる』
そんな、ただの“夢”だった。地球にもこの《地平》にも、どこにもない非現実。いや、むしろ信じた者ほど不幸の沼に沈んでいく“悪夢”ですらあったろう。
だが、もう目覚めた。決意は固い。
(……俺は、今日から“悪”に生きる!)
悪が力というならば、俺は力を手に入れる。
決意は固い。一目会ったその日から、悪の華咲くこともある。
シア姫やカーラとの出会いが、俺の運命を変えたんだ。
3
同時刻――。見慣れぬ星座の空の下。
「――って、なにこれ! どうなってるわけ!?」
“少女”は苛立ち、足元の地面を蹴りつけた。
そこは、神聖王国の外に広がる荒野。――乾いた土と、奇妙な形の岩の群れが、ただ視界の一面に存在していた。
彼女の初めて見る景色だ。
「なんだっての……。ここ、日本じゃないの? なんで光に包まれたら、こんなところに来てんのよ!?」
長いスカートを引きずりながら、少女は荒野を歩き続けた。