神の味
1
手作りマヨネーズというものは、製法さえ知っていれば意外と簡単に作れるものだ。
主な材料は、卵と油と、味つけの塩。
全て、この場で手に入る。
(本当は、マヨネーズのことなんか忘れたかったが……)
俺にとって、あれは『正しく生きること』の象徴だ。世界に裏切られ、優等生としての人生を失った今となっては、ただ忌まわしいだけの存在というのに……。
(だが――この人たちのためなら、作ってもいいか)
お祖母様はよく言っていた。
『――人との出会いを大切になさい。生卵と油と酢、異なる三つが出会うことで我が社のマヨネーズも生まれるのです』と。
ここは俺を裏切ったのとは別の世界だ。もう一度だけマヨネーズを信じてみよう。
「では姫様、生卵を一ついただきます」
まず生卵を黄身と白身に分け、小ぶりの鉢に黄身だけを入れる。そして、そこにオリーブ油と酢を加え、さらに味付けで塩を少しとハーブ粉をほんの少々。
オリーブ油は、この世界では――少なくともこの村では、比較的安価であるらしい。遠慮なく使っていいと言われていた。多めに使用するので助かる。
黄身一個につき油はおよそ150cc、酢は10cc。塩は小さじ一杯で、ハーブはほんの一つまみ。
あとは、ただ混ぜるだけ。
手作りするときのコツは、材料を一度に入れず、少しずつ混ぜていくこと。それと、材料の味の強さに応じて比率を調節することだ。
この世界の酢は雑身が多く、臭いもキツいので、量は気持ち少なめにする。――こうして混ぜると、やがて鉢の中身は真っ白になっていく。
黄色い卵黄と、緑がかった薄黄色のオリーブ油、淡いピンク色をした酢。
そんな色とりどりの材料を用いたのに、出来上がるマヨネーズは白くなる。
それを見て姫とカーラは『まあ』『ほう』と感嘆の声を上げていた。
「できました。これがマヨネーズです」
完成まで、ほんの三分。
味見したが、いつもながらの良い出来だ。さすがに『本物』(祖母の会社で製造されたもの)ほどではないものの、他の会社の製品にならば勝るとも劣るまい。
「まあ……。なんて不思議なのでしょう。初めて見る食べ物です」
「我が故郷では一般的な食品です。他の料理につけてお食べください」
俺は席から立ち、マヨネーズを姫のもとへと持っていこうとしたのだが――、
「待つがいい。まずは、このカーラ・ルゥがいただこう」
カーラが俺の前に立ちはだかり、俺から鉢をひったくる。毒見役を買って出ようということらしい。たしかに、姫に得体の知れぬものを食べさせるわけにはいくまい。
彼女は初めて見るこの白くどろりとした粘液を、木のさじで一掬いしてスクランブルエッグの上にかけ――一瞬躊躇したのちに、意を決して一口ぱくりと頬張った。
すると……、
「――んほぉお゛お゛おおおおおおおおおおおッ!?」
急に、異常な声を上げた。
目は白目を剥き、椅子から床に転げ落ちながら。
「あ……あああ、うう……。な、なんだ、この味は……!? ひぎぃいいいいいンっ!」
「カーラ・ルゥ!? どうしたのです! まさか、毒が……? ああ、カーラ・ルゥ! カーラ、カーラ! しっかりなさい!」
驚いて駆け寄る姫に、カーラは膝をがくがくと震わせながら答えた。
「い……いえ、姫様、心配ご無用です……。ただ、驚いただけで……」
「どういうこと……? つまり、美味しくなかったということなの?」
「逆です。この“まよねず”とやらは、怖ろしく、その……美味であったのです!」
「まあ」
「喩えるなら、そう――このカーラ・ルゥ、神に会いました! 口にした瞬間、世界の全てが鮮やかな色彩の集合体として目に映り、それが私の脇を驚くべき速度ですれ違っていくのです! まるで光の濁流! まるで渦! そして、その奥にある一筋の光明、それこそが“まよねず”の旨味……!! いや、これほどの眩しさは、むしろ神の御業ではなく魔性の仕業かもしれませぬ! ああ、私は怖ろしい。この美味なるものは神か悪魔か……」
カーラ、意外に詩人だな?
だが、そうだろう。美味かろう。
薄味で調味料の乏しい世界で、しかも、ここしばらく自分の作った不味い食事しか食べていなかったのだ。
そんな人間が初めてマヨネーズを味わえば、神や悪魔くらいは見えるだろう。
祖母曰く、『世界三大珍味はトリュフ、フォアグラ、我が社のマヨネーズ』。手作りの紛い物とはいえ、この食品は地球で最も美味なものの一つだ。
(とはいえ、今の反応には驚いたな……。一瞬、この世界の人間には毒なのかと思った)
まさか、『んほお』なんて叫ぶとは思わなかった。
「まあ、カーラ・ルゥ。信心深いお前が、比喩とはいえ『神に会った』なんて……。そんなに美味しいということなのね? でしたら、わたくしも一口――」
そう言って伸ばした姫の手を、カーラはがっと掴んで止めた。
「いけません、姫様! これは……よくないものです!」
「あら、子供には毒とでも言うの? また、わたくしを子供扱いして……。でも、フタバも同い年だけど、よく食べているのでしょう?」
「いいえ、とにかくいけません! 口にしたら駄目になってしまいます。このカーラ・ルゥのように騎士の強靭な意志がなければ、果てしなく“まよねず”を食べ続ける廃人となりかねません!」
麻薬じゃあるまいし、大げさなことを言う。
たしかにカーラがマヨネーズを口にしたときの感想は、どこか麻薬めいたものであったが、しかし地球人ならだれでも知っている通り、マヨネーズに中毒性はない。見た目は白く変わっても、その成分は卵と油と酢でしかない。
ただ、果てしなく美味いというだけだ。
「それと……キョーイチローよ、もしかしてこれは『調味料』なのではないのか!?」
……? 急に、なにを? カーラは妙なことを訊く。
「もちろん調味料です。これは我が故郷では、最高の調味料であり――」
「いかん! それは駄目だ! 異国人の貴様は知らぬだろうが、このイース国では、全ての香辛料・調味料は専売制なのだ!」
「専売制?」
「そうだ。国家より認められた特許商人のみが製造・販売することができる。それ以外の者が勝手に扱うことは重罪なのだ。場合によっては死罪にすらなり得る」
調味料が重罪?
なんて珍しい……と思ったが、よく考えれば地球でも普通のことだ。
我らが祖国の日本でも、つい最近まで塩は専売公社でのみ扱っていた。
人体に必要な塩を専売化することで、国は税や許可料を取ることができ、また極端な値上がりや値崩れを抑えることもできる。
この国では、塩のついでに他の香辛料や調味料も扱っているというだけに過ぎない。
(そうか……。この世界で調味料文化が未発達なのは、そのあたりに理由があるんだな)
なにやら、いろいろと腑に落ちた。
「ですが、見ての通り、マヨネーズは卓上にあるものを混ぜただけで……」
「否だ。キョーイチローよ、許されぬ。そのような言い訳、法に通用すると思うか? そもそも、本当に卓上にあるものだけで、これほどの美味が生まれるはずがあるまい! なにかの魔法を使ったのであろう!?」
誤解ではあったが『魔法のよう』と言われて悪い気はしなかった。
それに俺の発言は、たしかにただの言い訳だ。地球でもマヨネーズは一個の独立した調味料として販売されているのだから。
「汝は異国人ゆえに、この国の法は知るまい。なので、最初の一度は見逃そう。しかし――次はない!」
そう言ってカーラは窓を開けると、マヨネーズを容器ごと投げ捨てる。
陶製の鉢は割れ、中身は地面にぶちまけられた。――あまりに突然の行動に、シア姫が目は丸くする。
「まあ、カーラ・ルゥ! お客様の作ったものに、なんてことを!」
「姫様、お許しを……。しかし、これも姫様のため。違法を許せば、姫様の身にも害が及びましょう。――キョーイチローよ、汝にも理解してもらおう」
「ええ……。当然のことでしょう」
せっかく作ったのに残念ではあったが、カーラの立場も理解はできた。それと、初めて見るマヨネーズを怖れる気持ちも。
(この世界では、まだ早すぎる調味料ということか……)
地球でも、マヨが誕生したのは近世以降のことになる。中世ヨーロッパ風の異世界で受け入れられないのは当然だった。
――どれほど美味であろうともだ。