秘密(その2)
1
ミ・メウス市の市庁宮で、スー・キリル巡回判事は、ぺきり、と鉛筆を折った。
この世界の鉛筆というのは、どちらかというと『細いクレヨン』といった形状であり、また、その硬度も青銅や真鍮に近いものである。
だが剣騎士の名門グレンセン家の血筋があれば、苛立ちの中、半ば無意識で、へし折ることは容易だった。それも片手の指のみでだ。
「……これは巡回判事閣下、手柄を上げたというのに、なにをそんなにお怒りで?」
眼鏡の『秘書官』レドレシス・ジャナ嬢にそう問われ、スー・キリルは我に返った。
「ご無礼――いや、失敬した、レドレシス嬢……。見苦しいところを見せてしまった。怒ってなどはいない。ただ――苛々としていただけで……」
「そうでしたか」
たしかに、形の上では手柄を立てたことになるのだろう。
今日の朝、彼の率いる兵士たちは、第六天使のギルドに対して大規模な強制捜査を開始した。
このギルドはミ・メウス市で最大規模の犯罪組織であり、違法の賭場、違法の売春、違法の武器、そして最近では違法の調味料までも扱っていた組織だ。
重装歩兵を中心とした五〇名以上の兵たちは、本拠地である第六天使亭(先日のオーク騒ぎで半ば廃墟と化していたが)に乗り込むと、第六天使を含むその場に居合わせた幹部数名を捕縛。さらには数々の違法行為の証拠品を押収した。
だが――。
(これしきの程度のもの、このスー・キリルが望んだ手柄ではない……)
スーが手を下さずとも、オークによる襲撃でギルドは既に壊滅状態。
主だったメンバーはどこかに逃げ出し、新たな組織を作る最中であったらしい。
まだアジトに残っていたのは大怪我をしたハーフエルフのボスと、新組織に入れてもらえなかったあぶれ者たちだけだった。
そのくらいは踏み込む前にわかっていた。
だが、あのオーク騒動の原因がこのギルドだというのは街中に知れ渡っており、その後始末をつけるべく、こうして形ばかりの突入をする必要があったのだ。
いわば街の声を鎮めるための生け贄といったところか。
「閣下、気を落としてはいけません。ギルドの頭目は捕縛できたのですし――」
第六天使は重傷で、しかも騒動の最中とあってろくな手当てもされぬまま放置されていた。
だが、今後は重犯罪者用の牢獄で手厚い治療を受けられるだろう。皮肉なものだ。
「それに、逃げ遅れた客の身柄と、顧客のリストも押さえられました。これは充分に誇っていい功績ではないかと」
“不道徳の園”の客たちだ。
中毒者というのは度し難いもので、オーク騒動のあとであったというのに“まよねず”目当ての客が数名、隠し部屋で白濁まみれとなっていた。
――とはいえ、客たちはそのほとんどが大物すぎて、スー・キリルでさえ勝手に裁くことはできない。
現在、コトヴィック大公が一人ずつ『政治的判断』をしている最中だ。
ちなみに領主であるメウス子爵も、隠し部屋で捕縛された『逃げ遅れ組』の一人だった。
もし彼が釈放され、領主の地位が保たれたとしても、これからは今まで以上にスーに頭が上がるまい。
今後、スー・キリル巡回判事は、この街でなんの制約もなく活動できることになる。ある意味、これが最大の成果と言えよう。
――否、そのくらいしか成果はなかった。
「スー・キリル閣下、今回の結果は誇るべきものではあります。……が、しかし、唯一残念であったのは、例の“クピド”についてでしょう。その人物についての情報は、なにも得られないままなのですから」
「わかっている……」
街に“まよねず”を持ち込んだという白い狐の仮面の“クピド”。
捜査を進めれば、必ずその名に行き当たる。
『この商品は“クピド”が作った』
『“クピド”の商品は品質が違う』
『腐ると知ってれば“クピド”から買えばよかった』
この者こそが全ての鍵だ。
しかし、その正体は一切不明。
情報のない、最近になって突如出現した謎の人物だった。
その手がかりは、たった一つだけ――。
「閣下……この者についての唯一の手がかりは、スー・キリル閣下ご自身です」
そう。スーの記憶のみ。
「もう一度、よく思い出してみてくださいませ。
そのときに見た女――閣下がかつて贈ったという仮面の女は、例の従妹ではなかったのかを……」
これが、たった一つのヒント。
城門前の広場で見かけた仮面の女が、はたして従妹のカーラ・ルゥ・グレンセンであったのかどうか。
これだけが、謎の人物“クピド”へと繋がる、一本のかぼそい蜘蛛の糸だった。
だが――。
「……いいや、違う」
スーは、大きく首を横に振る。
「僕のあげた仮面は、金に困って売ったらしい。それが本当かどうかまではわからないが――久しぶりに彼女の姿を見てわかった。あの仮面の女はカーラ・ルゥじゃない」
「間違いございませんね?」
「無論だ」
どうして愛した女を間違えられよう。
あの日見たときはマントで体格を隠していた上に、目にしたのも一瞬のみ。
しかも、仮面がよく似ていたから見間違えたというだけのことだ。
「カーラ・ルゥは女性だが、戦場を駆ける剣騎士だ。細身に見えても、軍馬のように鍛えられた筋肉を持つ。――しかし、城門前で見た仮面の女は違った」
女にしては背が高かったが、鍛えられた体をしていなかった。マントで体格を隠してはいたものの、歩く姿勢だけでもそのくらいわかる。
「あの『狐の仮面』は僕の贈ったのとよく似ていたが、中身はカーラ・ルゥではない!」
確信を持って、それは言えた。狐仮面の“クピド”は従妹でないと。
こうして、手がかりは全て失われたが――しかし、スー・キリルは安堵していた。
(未練、なのかもな……。僕を裏切った女のことで、こんなに安心できるとは)
我ながら女々しいとは思いつつも、同時に心から嬉しくあった。
だがレドレシス秘書官は、そんな穏やかな表情を浮かべるスーに対し、唇に微笑みを浮かべつつ、眼鏡のレンズ越しに氷点下の視線を投げかける。
「スー・キリル巡回判事閣下、お聞きください……。貴方はこのミ・メウス市の塩ギルドと塩密売網を壊滅させました。これが、手柄その一。
さらには新たな調味料“まよねず”を扱うギルドを潰し、メウス子爵を含む大物たちの弱みを私に掴ませてくれました。これが手柄その二とその三。ですが――」
話の途中で眼鏡を外し、うんと声を潜めて――秘書官のレドレシスでなく、この王国の影の支配者たる女大公として、彼に告げた。
「これでは、足りん。お前に約束した褒美……シアーテルズ姫の転封願い、とても聞き入れるわけにはいかないな」
「は……」
転封とは、つまりは領地を他の場所に変えること。
スーは、シア姫の領地を呪われたフィル=セロニオ郷から他の土地にしてもらうべく、自分の信念も誇りも捨て、大公のために働いていたのだ。
なのに、あの“クピド”と“ブルゥ”とかいう二人のせいで、その努力は無に帰そうとしている――!!
「大公殿下、次こそは必ず……」
「いいとも、スー・キリル。機会はあげよう。シアーテルズ姫は愛らしい乙女だが、私は同じくらいに銀貨も好む。――地上から“まよねず”を根絶し、“クピド”とその相棒の首を討ち取れば、姫のことは諦めようじゃないか」
大公の言葉にスー・キリルは、深々と頭を下げて感謝した。
(※2017年9月13日)本作、書籍化することになりました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。




