恋する乙女のように卑劣であるべし(前編)
1
――恋と戦争は、いかなる手を使っても許される
イギリスのことわざ
戦争をする者は、恋する乙女のように卑劣であるべし。
今、ミ・メウス市には二人、この格言をその身で体現している者が訪れていた。
一人は“クピド”ことツルギ・キョーイチロー。
もう一人は、この国の影の支配者の一人、アマデジス・ジャナ・コトヴィック大公である。
二人が顔を合わせ、直接対決することになるのは、まだずっと先のことになるが――しかし、その見えない剣の切っ先は、今にも触れ合う寸前にあったのだ。
そんな美貌の女大公は、ミ・メウス市庁宮の四階にある巡回判事用執務室にて――、
「スー・キリル巡回判事閣下、お話が」
「はっ、大公殿下……」
「シッ。不注意だぞ、スー・キリル卿よ。おしのび中だ。部屋に二人だけでも気を抜くな。
閣下、私のことはレドレシス・ジャナ秘書官――いや、レドレシス嬢とお呼びください」
「ああ、うむ……。わかった……レドレシス嬢」
スー・キリルは女性の部下を『嬢』などと呼ぶ男ではなかったが(そのような呼び方、よほど威張り屋の上司のみがすることだ)とはいえ絶大な権力を持つ女大公に命ぜられ、やむ得ずそれに従った。
大公は年下の若者にそう呼ばれ、まんざらでもない顔で話を続ける。
「スー・キリル閣下……例のギルドの摘発、二、三日遅らせてはいかがでしょう?」
「……なんだと?」
スーには意外な発言だった。
コトヴィック大公は新たな調味料“まよねず”が塩利権を揺るがすかもと、陰ながら指揮を執るべく乗り込んできたのに。
彼女に急かされてスーは“まよねず”を一手に扱う第六天使のギルド――あの組織は扱う犯罪が手広い分、規模が大きく、厄介な相手と言えた――を潰すべく準備を進めていたというのに、まさか当の大公自身から『待った』がかかるとは。
「なぜです……なぜだ、レドレシス嬢? 作戦決行は明日なのだぞ? 貴官は一刻も早く、地上から“まよねず”を失くしたいのだと思っていたのに――」
塩利権の憂いとなる存在は、決して許さないはずなのに――。
「もちろんです、スー・キリル閣下。ですが私の独自の情報網が、裏社会に妙な動きを察知しました。例のギルドの周辺です」
「動き?」
「ええ。具体的になにが起きようとしているのかまではわかりませんが……しかし、見ておきたいのです。我らの“敵”が、どれほどの力量を持っているのかを」
ギルドを一つ潰しても、きっと“まよねず”は地上から消えまい。なぜなら、その裏には真の敵――商品を製造している者が別にいるからだ。
今、蠢動しているのはそれであるのだと、コトヴィック大公は考えていた。
白い狐の仮面を被った、あの“クピド”と呼ばれる人物であると。
2
ミ・メウス市の裏社会では、ここ数日、ちょっとした騒ぎが続いていた。
「第六天使とやらよ、答えてもらおう。あの“まよねず”は貴様から買った――メウス子爵はそう証言している。真偽はいかに?」
「そりゃあ、まあ……。“まよねず”を扱ってるギルドは、古今東西この俺様ンとこだけだけどよォ――」
「ならば、我が主の病に責任があると認めるのだな!」
その日の昼下がり、女神通りの第六天使亭に、突如、一人の騎士が殴り込んで来た。
それも鎧姿で、手には大槍という完全武装だ。
――この男はさる大物貴族に仕える剣騎士であるという。
なんでも主人が突然腹痛で寝込み、その原因を調べたところ、この市の領主であるメウス子爵から賄賂として贈られた“まよねず”であったのだとか。
「我が主は、病のために王都での閣議に出席できず、名門の名誉を大いに損ねた。その責、貴様に負ってもらおう。……そうだな、まずは銀貨10枚ほどいただくか」
「はン! そんな雑な嘘で、俺様を強請ろうってぇのかい!?」
実を言えばこの男、『貴族の家来』というのは嘘であったが、下級とはいえ剣騎士であることと、子爵から賄賂を受け取ったさる大物貴族が腹痛で寝込んでいたことは本当だった。
彼はただの流浪の剣騎士だったが、どこかから腹痛騒動の情報を掴み、こうして強請りに来たらしい。
だが、そんな完全武装の剣騎士を――、
「これでも喰らいな!」
第六天使得意の火焔魔法が包み込む。
鎧の下で肉の焼け焦げる音がし、やがて騎士は床に倒れた。絶命していた。
この第六天使の攻撃魔法は、戦場や魔物の迷宮でも通用するレベル。“ブルゥ”には実質的に敗れたが、それはあの赤兜が強すぎただけにすぎない。
「だれか死体を片付けな! ッたく、つまらねえ言いがかりを……」
ここしばらく、似たようなことが続いていた。
難癖をつけて返金を求める者や、この騎士のように金を脅し取ろうという者。
彼女のギルドは凶暴さで名が知れていたというのに、それでも腕自慢や命知らず、他の組織のメンバーといった連中が、連日この第八天使亭に押しかけて来ていた。
「ふン……。いいか、“まよねず”ってぇのはな、半月くれえは腐らねぇもんなんだよ! 作った“クピド”がそう言ってたんだ! 文句があんなら、あの男に責任取らせな!」
「ですが、その……」
口を挟んだのは、傷だらけの顔をした大男。
ギルドの幹部の一人であり、かつてこの店で“ブルゥ”に最初に殴られた男でもある。見た目と違って良識派で知られた男だ。
「なんだァ、“キズ顔”? 意見があるってえのか?」
「いえ、その――“クピド”はたしかに一、二ヶ月持つと言ってましたが、それはあの男が作った純正のもののことで……子爵に渡してるのは、例の――」
低品質マヨで五割ほど水増ししたもの。
――そう言いかけた口を、第六天使は手元にあった花瓶で殴りつける。
陶器が割れると同時に、大男の前歯は飛び、ただでさえ傷だらけの顔の上唇に、ざっくりと深い傷が増えた。
「手前ぇ、混ぜ物をさせた俺様が悪いってのか? あァ?」
「ふぃえ……。れふがオーク製はふぉんとに……」
第六天使は苛立ちで、ちっ、と舌打ちし、まだ血の出ている“キズ顔”の顔面を「うるせえ!」と今度は素手の拳で殴りつけた。
『――“まよねず”は一日か二日で腐って食えなくなる』
『――買った次の日には、容器の底に腐れ汁が溜まってる』
『――さる大物が、腐った“まよねず”で病にかかったそうだ』
オーク製の“まよねず”で商売をするようになって、まだ10日足らず。
第六天使たちの商品の評判は、既に地に落ちていた。
いや、評判だけではない。
事実、オークから仕入れたマヨネーズは数日で底に黄色い汁が溜まり、場合によってはカビが生え、悪臭を漂わせることもあった。
食べて腹痛を起こした客もいる。これは紛れもない事実だった。
「ッざけんじゃねえぞ! せっかく塩ギルドが潰れて、調味料密売の商売を手に入れたってえのに!」
さっきの騎士の殴り込みの一件も、すぐに街に広がることだろう。
大物の上客でさえ腐った“まよねず”で病にかかる――このショッキングな報せは、商売に少なからぬ影響を与えるに違いない。
第六天使の苛立ちは募るばかりだ。




