転移
1
祖母は、さる大手マヨネーズ会社の社員だった。
不器用ながらも真面目で実直な人物で、仕事を愛し、家族や隣人を愛し、俺たち兄妹のことも可愛がってくれた。
俺が優等生として生きてきたのも、この祖母の影響だ。
『――我が社のマヨネーズのように正しく生きろ』
『――我が社のマヨネーズのように真っ白な心であれ』
『――我が社のマヨネーズのように見えないところに星を持て』
そんな教えを俺はずっと守り続けてきた。だが……、
「離せ! 死なせてくれ!」
「離すわけないでしょ! お兄ちゃん、やめなさい!」
この日、俺――弦木 恭一郎は知ってしまった。
世界に正義などない。
神もいない。
正しく生きても人間は幸せになれない。
午後八時、夜の国道。自動車が時速七〇キロで飛び交う脇の歩道で、俺は妹と揉み合っていた。
ちなみに、妹の名は弦木ふたば。四学年下の中学一年で一二歳。
この妹、ちびで痩せっぽっちで、いつもゴロゴロしながら漫画や小説ばかり読んでる“自称”文学少女のくせに、思ったよりも力があった。後ろから羽交い絞めにする手を振りほどけない。
「お前、けっこう腕力あるんだな?」
「お兄ちゃんが特に体力ないんだってば! まったく、ちょっと嫌なことあるたびに、いっつも死ぬ死ぬ言って……。ほんとは死ぬ気なんてないくせに!」
どうでもいいが、お前、そろそろブラジャーつけろ。膨らみかけの小さな胸や、うっすら浮き出た肋骨が、俺の背中に当たっている。
もし兄以外の男子が自殺しようとしていても、こんな風に抱きついて止めたら絶対駄目だぞ?
「とにかく離せ。俺は世界に絶望したんだ。
お祖母様はよく言ってた。『マヨネーズの心を持ちなさい』と。
『嫌なことがあっても腐ってはいけない。つらいことがあっても傷んではいけない。防腐剤なしでも長い賞味期限を持つ我が社のマヨネーズのように』
――だが、そんな欺瞞の言葉はもう信じない!」
「その癖よして! ウザいから! 無駄に芝居がかったマヨトーク!」
兄に向かって、ウザいとはなんだ。人が真面目に話しているのに。
「いいか、聞け、ふたば。俺はもうおしまいなんだ。学校でなにがあったか言っただろう?
俺は今まで優等生として、ずっと清く正しく生きてきた。努力もしてきた。他の連中が遊んでいるときも勉強して県内一の名門校に入学し、上位の成績を維持してきた。――なのに、その長年の努力は一瞬で水泡に帰したんだ! あのヤンキー女の狡猾な罠で!」
痴漢冤罪――衆人環視の前でのセクハラという濡れ衣を着せられてしまった。
俺のことを嫌っている、あの女の手によって。
あのヤンキー女は幼稚園、小、中とずっと同じ学校で、その間ずっと俺に嫌がらせを続けてきたが、まさか他所の高校(しかも我が校は男子校だ)にまで押しかけて、こんなことをするとは思わなかった。
遊び半分なのか、それとも憎悪によるものなのか。自分の身を犠牲にしてまで俺を陥れようとは……。
「いやいやいやいや……。違うってば、お兄ちゃん」
「……? なにが違う?」
「今回みたいのは痴漢やセクハラじゃなく、いわゆる『ラッキースケベ事故』ってやつだってば」
「ラッキーだと?」
「そうよ!
『放課後、時代錯誤なロングスカートヤンキー女から校門前に呼び出されて、行ってみたらたまたま落ちてたバナナの皮で滑って体勢を崩して、慌てて目の前のものを掴んだらそれが例の子のスカートで、いろいろあって結局そのまま転んで足首までずり下ろした。しかも金具が引っかかってパンツも一緒に』なんて……。
漫画か! 男子の読む漫画か! むしろ、これ相手の方が死にたいって思う案件じゃないの?」
また、わけのわからないことを。
この妹、すぐに漫画と現実を混同する。
「まったく……。前から思ってることだけど、お兄ちゃんてば、バカでなきゃ頭良さそうに見えるしカッコいいのに……」
「なんだと」
優等生で有名だった俺の、いったいどこがバカだというんだ。
「だいたいそのヤンキー女って加藤さんちの八千代ちゃんのことでしょ? だったら絶対ワナなんかじゃないし、騒ぎを大きくする気もないと思うよ。だって、あの人は、ほらアレだから……」
「うるさい! いいから止めるな! 死なせてくれ!」
と、俺たち兄妹が、そんなやりとりをしていたときのこと……。
――ぴかあ
突如、視界が謎の光に包まれた。
なんの前触れもなく、唐突に。
「な……なんだ、この光は? どうして、こんな眩しい……?」
それは目のくらむような虹色の光。
最初、俺は車のヘッドライトなのかと思った。違法の改造パーツかなにかで、こんなライトもあるのだろう。その程度に考えていた。
だが、そうじゃなかった。この光は、もっと特別なものだったのだ。
「あ、あれ……? お兄ちゃん、たいへん! わたしたち、体が消えてくよ!?」
「そんな、馬鹿な……」
俺たち兄妹の肉体は、眩しい虹の中へと消えていく……。
2
気がつくと、俺たちは全く違う場所にいた。
『――あり得ないことでも起こるときは起こる。本来は混ざり合うはずのない水と油が、我が社のマヨネーズの中では一つになっているように』
祖母ならば、今の状況をそう評するに違いない。
余談だが、マヨネーズは『卵』と『油』と『酢』を原料とする。卵が触媒となって化学反応を起こし、油と水(酢)は混ざり合う。神の手でなく化学によって起きる奇跡だ。
(いや――マヨのことはもう忘れよう。思い出すな。お祖母様の話なんて全部嘘だ。俺は正しく生きていたのに、世界に裏切られたのだから……)
ともあれ、俺たちの目の前には、見たこともない景色が広がっていた。
夜であったはずなのに、頭上には澄んだ青空。
周囲は、一面の花畑。
薔薇に少しだけ似た真っ赤な花が、景色すべてを埋め尽くすほどに咲き乱れていた。
その花には、タマゴ型の果実が生っていたが、
色は白く、サイズも直径10センチほどとあって、まるで本物の鶏卵のよう。
このような実をつけているということは、薔薇ではなく俺の知らない植物なのだろう。薔薇にはこんな実はないはずだ。
赤い花と白い実、緑の葉。
そんな目の眩む極彩色の花畑に、俺とふたばは立っていた。
いや、正確には『花畑の中』ではない。その脇にある、菅かなにかの茂みの中だ。腰ほどの高さがある茂みに立ち、赤と白の景色を眺めていた。
「ここは、どこだ……?」
「わたし、わかる……。たいへんだよ、お兄ちゃん! わたしたち、異世界に――ファンタジー世界に来ちゃったんだよ!」
ファンタジー世界!?
いや、その意見はさすがに小説やら漫画やらの読みすぎだろう。
漫画と現実を一緒くたにするんじゃない。
……そう言ってやりたいところだったが、ふたばの言葉には説得力があった。
なぜなら、
――ちょろろろろろろろろろろ……
「――え……っ? えっ? き……きゃああああああっ!? な、な、なんだ貴様らは!? 今、どうやって現れた!? クッ、殺せ!」
目の前に、鎧姿の女騎士がしゃがみ込んでいたからだ。
茂みの中で、おしっこをする女騎士が!!