ふたりの三分間クッキング
1
「行くぞ、キョーイチローよ」
「ああ、うん。わかった……」
カーラは絶望的な顔の俺にそう言うと、
馬車を停めて、道沿いにあった大木に馬をつなぎ、荷台にあった荷物の大半を手際よく背中に担いだ。
「キョーイチロー、残りの荷を頼む。あとは軽いものばかりだ」
「ああ……。馬はこれで平気なのか?」
「問題ない。木に『狼除け』の魔法印が刻まれているであろう?」
たしかに奇妙な模様が刻まれている。この模様のある木には狼も泥棒も近寄らないとのことだったが、それが単なる『おまじない』なのか、それとも現実的な効果を持つ『魔法』なのかはわからない。
そして今度は山の中を歩いて二〇分ほど。体力のない俺にはキツい道のりだったが、意外にも馬車よりは楽だった。
こうして俺たちは、やっと目的地に辿り着く。
山の中にある、なにもない小さな空き地――木々の間にできた、ほんの直径五、六メートルほどのスペースに。
「うむ、ここがいい。見よ、キョーイチロー。ここから木々の植生が違っていよう? 木の葉の色が黒ずんでいる」
「ぜぇぜぇ、はぁ……本当だ。黒いな……」
雑な受け答えをしたが、たしかに黒い。地球の椿に似た深緑色になっていた。
「ここは既にフィル=セロニオ郷の外――いや、イース国の領外であり、さらには人類の生存圏の外側になる。即ち“暗き森”。野蛮なオークたちの支配領域だ」
「オークの縄張り……?」
テレビゲームの敵で出てくる、あのオークか?
「そうだ。やつらの縄張りだ。とはいっても、このあたりはまだ境目――緩衝地帯といったところだな。木の葉が完全な漆黒色にはなっていまい? オークどもも、こちらのことを気にかけぬであろう。密かに“まよねず”を作るにはもってこいだ」
たしかに人目もなく、すぐ近くには小川もある。必要な条件は揃っていた。完璧だ。
それに、そもそも、もう歩けない。今から他の場所を探す気分にはなれなかった。
「どうだ、キョーイチローよ?」
「ぜぇぜぇ……ああ、申し分ない。始めよう」
唯一、『オークの縄張り』という点が気になったが、そこは目をつぶることにした。
2
大荷物で来た俺たちだったが、荷車の大部分は汚れたベージュ色のテントで占められていた。
つぎはぎだらけのボロテントだが、破れた穴はちゃんと塞いである。風や土埃から作業と製品を守ってくれることだろう。
これが俺たちの工場となる。
カーラが手際よくテントを組み立てている間、俺は他の荷物をチェックする。
(まずは、卵――)
今朝、畑からもいだばかりの卵だ。これほど新鮮なものは地球でもそうそう手に入らない。フィル=セロニオ郷だからこそのものだった。
(せっかくの卵が、だいぶ割れたな……。三分の一くらいは使えなくなってる)
大目に持ってきてよかった。想定済みとはいえ余計なロスだ。このあたり、次回から対策を考えるべきだろう。ありがたいことに他の器具は無事だ。陶器類も割れてない。
「よし。カーラ、鎧を脱いで割烹着をつけろ。それと、頭に三角巾を巻くんだ。髪が入ったら困る。口元も布で覆え」
「うむ。こうか……?」
こうして俺たち二人は割烹着姿となる。
さっきまで『いかにもな女騎士』だった彼女が、今ではまるで『給食当番』といった格好だ。俺は口布の下でクスッと笑った。カーラの口元の布も微妙にモゴッと動いていたので、俺の姿も笑えるものだったらしい。
その後、水を汲み、火をおこす仕度をし、いよいよ作業開始となる。
「キョーイチローよ、湯はなんのために使うのだ? それに酒まで。前に食堂で作ったときは、こんなもの使ってなかったであろう?」
「そうだ。マヨネーズの材料は、基本的には卵と油と酢だけだ。湯と酒は材料じゃない」
「では、なぜ用意した?」
そうだな、そのあたりも一から教えるべきか。理論を知らずに作業をしては大きなミスを起こす可能性もある。
――俺も、もと優等生だ。人にものを教えるのは慣れている。中学のときは、よく同級生に勉強を教えたものだ。
俺の大嫌いな、あの女にも……。
「いいかカーラ、湯と酒は消毒のために使う。生卵を使うので、雑菌は大敵だ」
「ザッキン……? 貴様の話は、わからぬ言葉ばかりだな?」
そうか、この世界では、まだ細菌は発見されてないんだな。
少なくともカーラはその存在を知らないらしい。
「雑菌というのは、腹痛の原因になる小さな生物のことだ。目に見えない毒虫と考えてもいい。卵の殻の表面にはこの毒虫がいて、毒を撒き散らしている可能性がある」
「聞いたこともない話だが……しかし、それならば安心しろ。剣騎士の視力でも、そのような虫は見えぬ」
「いいや、視力の良さは関係ない。普通、卵の殻は口にしないし、火を通したときに虫は死ぬが――マヨネーズは生卵を使うので、念入りに消毒する必要がある。殻にいた虫や毒が手について、そのまま卵に入ることがあるからな」
聞いた話では、地球でも日本以外では生卵を食べることはできないらしい。
殻の表面の洗浄を丁寧にしていないため、サルモネラ菌やその毒素が付着しているのだそうだ。
「とにかく衛生が大事ということだ。まず、作業用の道具を煮沸しろ。完成品を入れる容器も。煮沸というのは湯で煮ることだ」
「うむ、わかった。――卵はどうやって洗う? これも湯に入れるのか?」
「駄目だ。そんなことをしたら、ゆで卵になるだろう? 卵は、まず酒で拭くんだ。殻の表面を、酒を浸した布でこうやって拭く」
ありがたいことに、傷の治療用の蒸留酒が城にあった。これを使う。
「これで消毒――虫やその毒を消せる。そのあとは、また水で洗え。川の水をそのまま使うなよ? 一旦煮立った湯を冷まして使え」
「なるほど……。そのための酒であったか」
「酒で拭いたあと水洗いするのは、念入りに毒消しするためと、それからアルコールの臭いを消すためだ」
今回持ってきた道具の多くは、消毒と洗浄のためのもの。実際のマヨネーズ作りのためでなく、いわば準備のためものだった。
面倒ではあるが、お祖母様も言っていた。
『――ものごとは全て準備が九割。我が社のマヨネーズのように』と。
「ふむ……。手間はかかるが、しかし理に適っているな」
「当然だ。マヨネーズ作りは科学だ。化学であり生物学でもある。味の芸術は、感性でなく理論と学問によって作られる」
これも、お祖母様の言っていた言葉だ。
卵を洗い終われば、いよいよ現物を作る。あとはテントの中での作業になる。
「卵は、とりあえず五〇個あればいい。――卵を割って大鉢に入れる。その後、黄身だけをこっちの容器に移す」
「生卵の黄身だけを……? どうやるのだ?」
「これだ。この木製のおたまを使う。ちょうどいいのが台所にあったので拝借してきた。穴がいくつも開いてるだろう? これを使えばいい」
穴あきのおたまだ。湯を掬わずに具だけを取るための道具だったが、生卵の黄身を選り分けるのにも使えるだろう。おたまに黄身を残し、穴から白身だけ落ちていくはず――。
(――と思ったが、少し穴が小さかったな。あまり効率よく白身が落ちない……。次までにヤスリでも使って穴を拡げよう)
多少使いづらくはあったが、なんとか五〇個分、黄身だけを選り分けた。
「キョーイチローよ、使うのは黄身だけか?」
「そうだ。お祖母様の会社式だ。白身を使う会社もあるらしいが、黄身だけの方が格段に味はいい」
「そうか……。だが、白身はもったいないのではないか?」
「まあな。しかし、格言にもある。
『もったいなくても白身は捨てて黄身だけで作る、我が社のマヨネーズのように』だ。
あとで焼いて昼食にしよう。――この黄身に、他の材料を加えていく。油と酢、それに塩、ハーブ粉……。卵黄一個につき、酢は大さじ一杯、塩は小さじ一杯、ハーブ粉少々、そして油は――」
これが、驚きの量なのだが――。
「150cc」
「ひゃ……150だと!? ずいぶんと油が多いのだな!?」
そうだろう。俺も最初に知ったとき、あまりの量に身が震えた。
150ccといえば缶コーヒー一本分。たとえば一般に市販されるチューブ入りマヨネーズは容量二五〇ccなので、そのうち約二〇〇ccが油であるということになる。マヨの八割は油でできていた。
「これで準備は整った。あとは、この材料をかき混ぜるだけで出来上がりだ。実験の意味で、まずは卵10個分作る。――カーラ、お前が混ぜろ」
「私がか? 緊張するな……。なぜキョーイチローが自分でしない?」
「強い力で混ぜた方が美味くなるからだ。お前は魔法で強化された筋力を持つ剣騎士。当然、俺の作ったものより美味くなる」
「なんと……!! 今朝のあれよりも美味というのか!?」
「そうだ。それも、格段にだ」
カーラは、膝をかたかたと震わせていた。『今朝のマヨよりも美味』を想像したためだろう。あまりに強烈すぎる美味さというのは、恐怖と区別がつかないらしい。
「カーラ、味見が楽しみか?」
「い、いや、キョーイチロー……味見は貴様に任せる!」
「いいのか?」
「構わん! それほどのものを口にしてしまっては……剣騎士の強靭な意志を以ってしても、果たして正気を保てるかどうか……」
大げさな。だが、この世界の人間にとっては、それほどの美味なのだろう。
――いや、死罪を覚悟して密造するんだ。
そうでなければ困る。俺はカーラに、材料の入った鉢を渡した。
「さあ、混ぜるんだ。速く、丁寧に、一定のリズムで規則正しく」
「う、うむっ!」
割烹着姿の剣騎士カーラは、真剣な顔でマヨネーズを混ぜ始める。
まるで機械だ。
モーター仕掛けのように素早く、そして、疲れることなく一定リズムで動き続ける。
――この速さ、力強さ、精密さ。ぼろ布テントの工場で、カーラの動きだけが本物のマヨネーズ用工業機械のようだった。
「いいぞ、カーラ。その動きだ。力強くかき混ぜれば、その分だけ完全に『乳化』する。油の分子を水の分子が包み込み、より舌触りが滑らかなものとなる。市販のマヨネーズに近い味となるはずだ」
「ニューカ? シハン? また、聞いたことのない言葉を――。むっ……!? キョーイチローよ、卵黄が白くなってきたぞ!」
「そうだ。これが乳化という現象――本来は混ざるはずのない油と水(酢)が、卵を触媒として混ざり合う。互いの分子が結びつくことで、こうして乳白色に染まるんだ」
「おお、油と水が……。これは、やはり魔法――それも錬金術の類であるな」
途中、何度か匙を使って味見をし、また混ぜるのを繰り返す。
混ぜ始めてから、砂時計で計って三分――。
「うん……。やったぞ、カーラ! 最高の味だ!」
ついに、納得できる味になった。
いやも納得どころではない。完璧な出来栄えだ。本物と――地球で市販されていたマヨネーズと、ほぼ変わらない。
さすがに油や酢の品質が低い分、やや味は劣っていたが、一方、材料の卵が新鮮であるため、その欠点を補っていた。
鮮烈な卵黄の味がする。好みによっては本家より美味と感じる者さえいるだろう。
まさしく最高の味、奇跡の味だ。喜ぶ俺を見て、カーラもごくりと唾を飲み込む。
「カーラ、この調子だ! 同じ時間、同じ分量の比率で、また卵黄10個を混ぜろ!」
「うむっ!」




