さようなら、風光明媚
※展開上、性的表現及び残酷描写が含まれます。
館内が少し騒がしかったその日。
娼婦さんから表館でお客さんが喚き散らしていると聞き、野次馬根性で様子を窺いに行ったことが始まりだった。
ジーク様に初めてお逢いしたときのように支柱の影から覗き見ると、顔の疣が目立つ不細工な人がいた。
失礼な話、イボガエルにそっくり。
絶世の美青年、ジーク様が『ヒキガエル』なんて不名誉な異名を持っているけどこの人こそ正真正銘、蛙だ。
肥満体だけどわりと背が高いので横にも縦にも大きくて、少し怖い。ズーンと聳え立つような威圧感がある。
今日は不在のスコットの代わりに、下男が対処しているみたい。
名前は確か、リックさん。
若干面倒臭そうなのであまり良いお客さんではないように見える。
こんな不細工もイケメン扱いになることに少し複雑な気持ちになったけど、何故か周囲の反応はあまり良くなかった。
あからさまに眉を顰め、不機嫌オーラを漂わせる娼婦に話を訊く。
「あの客は質が悪くて有名なんだよ。出禁にすれば良い話なんだが、この国の貴族みたいだからそうはいかないみたいなんだ。普段ならオーナーがやんわり追い返してくれるんだけどなぁ」
『オーナーは下手に出る天才』『問題の客はへらへら笑って外に誘導してる』『頼りないけど手腕は尊敬する』と褒めてるのか貶してるよく分からないことを言った。
「見なよ、あれを」
「え?」
「これ見よがしに全部の指についたダイヤ!それに、ジャラジャラ重そうな首飾り!いくら顔が良いからって、彼奴が身につけたところでガラクタになるだけだよ。見た目だけは良いから余計腹が立つ」
私からして見れば普通にイケてない。
お姉さんのような"イケメンだとしても度を越した気持ち悪さ"は感じない。ひたすら気持ち悪い。
もじゃもじゃの毛皮なんて趣味が悪いし、光輝く宝石類が場違い。
何処かで似たような光景を見た気がすると思ったが、直ぐにブルック様のことを思い出した。
でもブルック様は穏やかに笑っていたからこの成金感が漂う人のような嫌悪感は感じなかった。
同じイケメン|(不細工)なのに、周囲の反応も全く違う。
「皆さん、ブルック様の時は歓迎なさるのにあの御方には近づきませんのね」
「お前の目は節穴か!?ブルック様とあれを一緒にするなよ!」
「え、ええぇ…」
私には同じ不細工に見えるから困る。
でも気の良さそうな豚さんのブルック様は聖人で、あのゲスそうなイボガエルは悪役だと言うことは察した。
「彼奴は嗜虐心がある鬼畜で有名なんだ。娼婦をいたぶるのが趣味の最低野郎さ。ここの娼婦はもう何人も彼奴に泣かされてるし、使い物にならなくなった娘もいる。私も彼奴についた後は気分が悪くなったよ」
「え、お相手したことがあるのですか?」
「まあな。その時は『金持ちだし顔も良いからラッキー』とか思って軽い気持ちで引き受けたんだよ。鬼畜野郎の噂は聞いてたけど一見優良物件にしか見えなかったから、まんまと騙されたね。あんな下衆だって知ってたら断ってたさ」
これからイボガエルを相手にする女性が不憫に思え、『可哀想ですね』と同情混じりに呟いた。
まるで他人事のように。
「はあ?何自分は関係ないみたいな顔してんのさ」
「え?」
「あれ、お前の客だろうが」
「え」
固まった私を気にも止めず、イボガエルを指差した。
「あの客はベティに逢わせろってずっと騒いでんだよ」
「わ、私!?」
「ベティの噂を聞いて味見しにきたみたいだ。でもお前の客はオーナーが通すって決まりだからなぁ。留守を任されたリックと揉めてるんだ」
リックさんが『一旦お引き取りください』と言ってもお客さんが『私を誰だと思ってるんだぁ!』と宣い、皆困っているらしい。
「私等底辺の娼婦と違って貴族様は偉いんだろうけど…。金と権力に物を言わす貴族の客ってのは本当厄介だ。こちとらいい迷惑だよ」
忌々しそうに舌を打つお姉さん。
イボガエルさん達のほうでは、まだ騒ぎが収まらない。寧ろヒートアップしてる。
「姐さんがいれば何とか追い払ってくれるんだけどな。今は仕事中だから呼べるはずもないし」
「ドロシーですか?」
「そうだよ。穏便に追い払うのが上手いんだ」
ドロシーは皆から『姐さん』と慕われている。
不機嫌だったお姉さんの表情も何処となく柔らかくなった。
「それかブリアンナ様だね。でもあの人はオーナーが居ないと風光明媚を守る使命感に燃えるから、余計に揉める恐れがあるんだよな。以前、強行突破しようとした客と大喧嘩になったことがあるし。どのみち、ブリアンナ様も常連客がお見えになってるから無理だろ」
「へえ。ブリアンナ様って凄いですね」
「あの人のオーナーへ向ける愛は凄まじいよ。オーナーの妻の座を狙ってるって噂だしね。結婚して夫婦二人で店を切り盛りしたいと酔った勢いで話しているのを聞いた娼婦がいるらしい」
「ええ!?な、何ですかその気になる噂!」
「だろう?今度ゆっくり聞かせてやろう」
にんまり笑うお姉さんは噂好きで口が軽い性格なのか、ぺらぺら喋ってくれる。
女子特有の楽しい空気が流れていたのに向こうから届いた声にぶち壊された。
『私を誰だと思ってるんだ!』って叫ぶの何度目になるんだろう。でも本当に何者なんだろ。
「姐さんもブリアンナ様も居ないし、あれを早くどうにかしてほしいんだけどなぁ」
染々と呟くお姉さんと同じ気持ちを抱いてる人が多いということは、皆の表情で分かる。
しかも私のお客様と言うこともあって居たたまれなくなる。
「わざわざ私が出向いてやってるのに『帰れ』とはなんだ!早くベティを出さんか!」
「いえ、ですからベティはーー」
「もう良い、退け!私がベティを捜す!」
「こ、困ります!お客様!」
怒りに任せて何度も『ベティ』『ベティ』と叫ぶお客さん。
この騒ぎが私のせいだと思うと胃が痛くなる。
スコットが『オーナーが通す』と言ってるなら私がお相手することもなさそうだけど。
だったら私が一度姿を見せて怒りを宥めたほうが良いんじゃないかとさえ思った。
いや、でも、ぶっちゃけあのイボガエルの前に出て行きたくない。
支柱から体半分を覗かせていると、驚いた表情のリックさんとばっちり目があってしまった。
「べ、ベティちゃん!?」
「(げ!) 」
何故呼ぶ!?
慌てて顔を引っ込めても遅かった。
条件反射で名前を叫んでしまったリックさんのせいでイボガエルさんが『ベティ!?何処にいる!』と更に騒ぎ立てる。
まだ姿も見せてないのにこの場にいることがバレてしまった。
『やはり居るではないか!』『いえ、いません』『いる!』『いません!』と喧しい攻防に溜め息が零れた。
「は、ちょ、お前何処行く気だよ!?」
「いえ、だって何かもう見ていられなくて。適当に理由をつけてお引き取り願います」
「阿呆か!お前が狙いなのに出てってどうすんだ、ちょっ、おい、人の話を聞けぇ!」
何だか背後でお姉さんが騒いでいたけどそれよりもイボガエルが暴れそうな勢いだったからそちらを優先した。
お客さんの傍まで行き、口を紡ぐ。
「私がベティです」と。
私を視界に入れたイボガエルさんは少し硬直したあと目を輝かせた。
ご期待には添えられたのか、頬を紅潮させている。
これが不細工なら最高なのにと遠い目になってしまう。
「お、おお!お前がベティか!なんと麗しい娘だ!」
「べ、ベティちゃん!?何で出てきたんだ!」
『お前のせいだろうが!』と言いたくなるのをぐっと堪え、優美に微笑む。
「お客様は私をご要望だとか」
「そうだ!私はベティと遊びたいんだ!この分からず屋がベティは無理だと言うから抗議していたところだ!こうしてベティが自ら出てきてくれて私は嬉しいぞ。そんなに私に可愛がってほしかったのか?ん?」
「……」
ちょっと早まったかもしれない。
『ん?』の聞き方が猛烈に気色悪かった。どうしよう鳥肌が止まらない。
自分をイケメンだと勘違いしてる男の流し目は最高に気味悪い。
実際皆にはイケメンに見えてるのかもしれないけど、私にはイボガエルにしか見えないから。
ほんの僅か『皆迷惑してるし、暇な私が事態の収集をつけよう』と調子に乗った私を全力で殴りたい。
救いの手を差し伸べられ『べ、ベティちゃん。俺を助けようとしてくれたのか』と涙ぐむリックさんに泣きつきたくなった。
リックさんにまで何か妙な勘違いをされてるし。
まず私はイボガエルを引き受けようとしてるわけじゃなくあまりに名前を叫ぶから手助けしようとしただけ。
「ベティ!私を案内してくれ!さあ、早く!」
頼んでくるわりに腕を引っ張るので、引き摺られるように裏館へ進む。
抵抗する暇もなく『は?え?』と戸惑う私はずるずる奥に引っ張られて行く。
涙ぐむリックさんは私の勇気を称えるように見送ってくれている。
自分から飛び出した手前助けてと言うのも何か可笑しいけど、『いやいや違うから!見てないで助けて!』と目で合図しても、ウインクを返されてしまった。何で!?
頑張りますの合図じゃないよ!
途中、先程お喋りしていたお姉さんが顔面蒼白で固まっている姿が見えた。
見てるなら助けてよと思ったけど、隣でイボガエルさんが意気揚々と大金を支払っていた。詰んだわ。
顔色が悪いお姉さんの唇がゆっくり『阿呆か』と動いたのが見えた。うん、私もそう思う。
金貨は神様と言うし、もう後戻りできない。
渡り廊下を引き摺られながら歩く私を誰も呼び止めないのは、多分、私が奇行種だからだ。
周りからすれば、普段からイボガエルのような不細工を相手にする私だ。
なら『またベティの奇行が始まった』とか思われてそう。
何度も言うけど私は不細工(イケメン)を相手にしてるだけで、イボガエルは専門外だ。本物の不細工は全力でお断りする。
どうしようと頭を悩ませつつも、実際顔さえ見なければどうにかなるのではと軽く考えていた。
今までだって何だかんだで、何とかなってきたし。
逃げれないことを悟り、少し開き直っていた。
これでイボガエルを相手に出来たら立派な娼婦の仲間入りなんじゃない?
そんな能天気な考えが過ったのは今までのお客さん達が優しかったからだ。
皆、初めての私に優しくしてくれる人達だったから娼館の怖さを知る機会がなかった。
だから、何処かで『案外イケるかも』と思ってしまった。
それは大間違いだったともうすぐ身を持って知る羽目になるんだけど。
「ベティがこんなにも麗しいなんて知っていればもっと早く逢いにきたぞ!」
今にも『ぐへへ』と笑い出しそうなほど下品な笑みを浮かべている。
「髪も艶々じゃないか。肌も真っ白だ」
「ひっ」
髪を撫でられたかと思えば、首筋に顔を埋められて小さい悲鳴を洩らした。
そして服の襟を掴まれて、そのまま左右に開かれる。
豊かな双丘がぷるんと揺れて露になり、お客さんが固唾を呑んだ。
「す、素晴らしい!形も大きさも私好みだ!きっとベティは私のために生まれてきたんだ!きっとそうに違いない!私が今すぐ可愛がってやるな!」
「んぎゃ!」
いきなり肌に噛みつかれ「痛い!」と叫んだ。
だって骨まで食い千切るような勢いで噛まれた。絶対歯形になってる。
そこからは本当に最悪だ。私は食い物かと突っ込みたくなるくらいありとあらゆるところを噛まれ、舐められた。気持ち良さなんて皆無で痛みだけ。
優しくしてくれない男は嫌いだ。
こんなことになるくらいなら初めてのお客様だったジーク様に愛されておくべきだった。ああ、愛しのジーク様。貴方の大切なベティは暴漢に襲われています。
このまま、こんな乱暴な男に初めてをやるのは勿体ない気がする。無理に抱こうとしてきたヒューバート様に身を預けておけば良かった。
それか、抱こうとする素振りすら見せなかったレイモンド様を押し倒しておけば良かった。あのもふもふが懐かしい。尻尾に顔を埋めたい。
もう何処のイケメンでもいい。誰か私を慰めて。
せめて優しくして欲しい。
もうイケメンしか嫌だとか我が儘言わないし、イボガエルでも良いから。だからせめて痛くしないで欲しい。
「可愛いな、可愛いなぁ!ベティは最高のカラダをしている!」
「いたいっ」
「はあはあ。ど、どうだ、ほら!気持ち良いか!?もっと気持ち良くして欲しいなら厭らしく私にねだってみよ!この淫乱娘が!」
「ま、待ってくださいっ」
「はあはあはあ。ベティは厭らしい娘だ!」
何でこんなに噛むの!?吸血鬼でも此処まで噛まないよ!人肉まで食らうつもりか!
首から胸元から脹ら脛から内腿から噛まれまくったので、肌が赤くなっている。
私の肌をちゅうちゅう吸いながら息を荒くするイボガエルは何を思ったのか頬を殴ってきた。
「ったあ!」
「快楽と苦痛が混じる顔!ぐひひ!最高だ!」
「(快楽は何処!?)」
与えられるのは苦痛だけだ。遠慮もなしにびしばし叩き、お腹を殴られて、髪を引っ張られ、乱暴に扱われる。
暴力を受けすぎて痛みが鈍りそうなほど。
イボガエルのためにケアしてるわけじゃない艶やかな唇に、かさついた分厚い唇を重ねてきた。
「んうう!」
「はあはあ、べ、ベティ!私のベティ!ベティは私のものだ!」
「やぁっ!」
「これがベティの味!ベティは甘い味がする!」
本当にもう止めて欲しい。誰か助けて欲しい。
娼婦業に慣れてきて調子に乗った罰なのかも。
今物凄く以前怒り狂っていた花街のお兄さん達が恋しい。
「蜜が滴るような肌の味じゃあ!ぶほほっ!本当に蜜が零れているのは何処からかなぁ?」
「ちょ、や、やだ!」
「女の嫌よ嫌よは好きのうちだ!」
「ち、違っ、ほんとに、」
「私が快楽の園に連れてってやる!」
力が入らず四肢はダランとしていたが、脚を広げられたことで一瞬にしてカラダが強張った。
「お、お願い!ほんとにいや!待って!」
よく分からない棒とか縄とか何に使うのだろうか。お姉さんの『鬼畜野郎』が頭を過って、目の前がチカチカした。
泣きじゃくる私にイボガエルはにやりと口の端を上げる。
目は欲望に満ちぎらぎらしていて、もう恐怖しか沸いてこない笑顔だった。
「いまだ嘗てこんな興奮する娼婦には出逢ったことがない。涙に濡れた瞳も汗ばんだ肌も乱れた髪も、全てが快感剤となる。まるで窓縁の姫君を屈辱してるようだ」
「ね、ねえ、」
「ナカまで私でどろどろにしてやるからな」
嫌と言ってやめてくれたヒューバート様が可笑しかっただけだ。そして優しかっただけ。
お金を払ったお客さんの反応としてはある意味この人が正しい。お金で娼婦を買ったのなら、どうしようが勝手だ。
分かってる、分かってるけどーー
「や、やだやだやだ!やっぱり嫌!」
「ベティ!?」
「イボガエルは無理ですううう!」
イケメンに抱かれたあああああい!
固く目を瞑り、適当に近くにあった物を掴んで振り翳した。
細やかな抵抗のつもりだったのに『ゴッ!』と鈍い音がした。
『え』と思った瞬間イボガエルがのし掛かってくる。
「ぎゃ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
暴れたから怒り狂うと思ったけど薄目で様子を窺えばダランと手足を投げ出し、私の上で意識が朦朧としている男がいた。
「え」
「…ぐっ…」
「あ、あの」
「…ううぅ…」
痛みに呻くイボガエルに『どうしましたか』は野暮だ。
私が手に持っている物に付着した血が物語っている。
咄嗟に掴んだ置物で殴ってしまったのだ。現にイボガエルの額からは夥しい血が流れている。
私が固まっている間も、イボガエルは『ううう』と呻いていた。
倒れる男、赤い水溜まり、鈍器を持ってる私。まるで殺人現場だ。犯人は勿論、私。
ひとつ訂正したいのはこれは事故だと言うこと。殴るつもりなんてなかったし、殺意は……少ししかなかった。
殺人犯と呼ばれる人達はこういう言い訳をしてお縄につくのだろうと染々感じる。
血が付着した物をそっと元に戻し、倒れるイボガエルをじっと見つめて心に決めた。
うん、逃げよう。
イボガエルは放置し、ダッシュで部屋を飛び出した。
待機部屋に逃げ込もうと思ったけど、出て直ぐ落ち着きなくうろちょろしているモニカと遭遇した。
「え、モニカ?」
「姫様!ーーひ、姫様あああ!?」
私の声に一瞬ぱあっと顔を輝かせたモニカはこちらを向いて目を剥いた。
そのまま飛び出したけど、私のカラダは歯形と赤い痣だらけだった。服ははだけ、胸を晒した状態。結構酷い姿になっている。
「ひ、姫様!何てお痛わしいお姿に!綺麗なお身体が!そ、それにこれ!血が!血がついています!姫様、何処か怪我をされているんですか!?」
「あ、いや、これは、かーー返り血?」
めちゃくちゃ言いづらい。
目を瞬かせるモニカに『部屋を見て』と静かに告げる。
不思議そうにしていたけどソッと仕事部屋を確かめたモニカが無言で戻ってきた。
そして、私の傷と痣を見て『ゆるせない…』と唇を噛んでいる。
大体察してくれたらしい。
寧ろお客さんのほうが『ゆるせない』状態だと思うけど。
「ちょっと場所を移動していい?廊下だといつ人が来るから」
「は、はい!」
今は誰もいないけどこんな姿を誰にも見られたくない。
開けた衣服を適当に直し、足早に戻った先は待機部屋だった。
モニカが扉を閉めてくれるのを見計らったかのように緊張の糸が途切れた。
震える足が崩れ、床に膝をつく。
「…っ…う」
「姫様!?」
「…ふぇっ、こわ、怖かった…!」
口元を押さえる掌から嗚咽が零れる。
「私、娼婦なのに…!逃げちゃだめなのに…!分かってるけど、分かってたけど、こ、怖かったぁ…。もうやだぁ」
「ひめ、さま」
「うう、からだがいたい。女の子を殴るなんて酷い!あんまりだ!」
ちくしょおおおあのイボガエルめっ。だいたい私はイケメンに抱かれたいんだ!
半ば自棄になり子供のように泣きじゃくる私の傍で、モニカが泣いてる姿が見えた。
ぐすんっと鼻を啜り、モニカの顔を覗き込んだ。
「モニカ?どうしたの?」
「わ、わたし、姫様に何もしてあげられない。姫様はこんなにも苦しんで泣いてるのにっ」
「え、そんなことないけど。いまモニカが傍にいてくれるだけで、心強いもん」
「で、でもっ、姫様は私に優しくしてくれたのに、私は何も返せない…!」
どう笑みを取り繕っても涙が零れ落ちてしまう。
頬を濡らす滴を拭おうと、モニカは小さな手を添えてくる。
その優しさが目に染みて、温もりに胸が張り裂けそうになって、また涙が込み上げてきた。
『ごめん』と言って両手で顔を覆い、また涙する。
モニカまで悲しませてしまうから泣きたくないのに涙は止まらない。
ぐすぐす泣いている私を、モニカは黙って見つめていた。ただ静かに傍にいてくれた。
そして私の腕をきゅっと握ったモニカに目を向けると、モニカは何処か決心したような瞳をしていた。
「に、逃げましょう、姫様」
「…え?」
「風光明媚から逃げましょう」
困惑する私に畳み掛けるように言う。
「姫様が風光明媚にいて悲しむくらいなら私は姫様を逃がしてあげたい」
「逃げる…?」
「ちょっとだけ風光明媚を離れるだけでも良いんです。今風光明媚にいると姫様は壊れちゃいます。少し離れた場所で、心を休ませましょう?」
瞳に涙を滲ませて話すモニカは真剣だった。
風光明媚を裏切るなんて考えられなかった。
私を助けてくれたスコット。少し怖いけどお姉ちゃんみたいなドロシー。何だかんだで嫌いになれないブリアンナ様。
今更皆を裏切ろうとは思わなかった。
風光明媚の皆を置いて逃げようとも思わないけど、『離れる』という言葉にちょっぴり心が揺れる。
スコットから『逃げてもいいんだよ』と言われたことを思い出し、更にぐらついた。
だから、
「…何処に、行くの?」
“ちょっとだけ”“離れる”くらいなら、と乗ってしまった。
声が上擦ってしまったが、モニカは気にせず弾けたように顔を輝かせた。
そしてほんの僅か躊躇した後、紡がれた言葉に少し驚いた。
「私の故郷に行きませんか?」
「モニカの故郷?」
確かモニカって逃げて来たんじゃ、と戸惑ったけど真剣な表情のモニカがそこには触れないので口を噤んだ。
「モニカの故郷って何処なの?」
「サザーランドです」
「サザー、ランド?…ん?」
「知ってるんですか?」
「うーん、ううん。知らないよ」
何処か聞き覚えのある国だったけど思い出せないので、首を振った。
「姫様。行きましょう、サザーランドに」
「…うん」
優しく託されて、ゆっくり頷く。
子供と大人が逆になっているけど、それほど脱力感に苛まれていた。
少し疲れたみたいだ。
モニカに手を差し伸べられて、ゆっくり手を取った。
モニカだけが私の私室に行き、数少ない荷物と、頼んでおいた"あの服"を持ってきてくれた。
荷物を纏めてくれている間に衣装を脱ぎ"あの服"に着替える。
その際、歯形と痣だらけのカラダを見てモニカが泣きそうになっていので苦笑いを零した。
着替えた"服"とは祖国を出たときに着ていた衣服だ。
村娘風のワンピースで、脛が隠れるくらいの丈。若草色のスカートが、とても懐かしい。
怠け者で、甘えてばかりで、泣き言を吐いては迷惑ばかりかける私を『風光明媚』は優しく受け入れてくれた。
なのに私は期待に応えられなかった。
ちやほやされるだけが娼婦じゃないのは分かってる。不細工だけがお客さんではないことも分かっている。でもほんの少しの優しさは欲しかった。
あんな乱暴なことをされたのは初めてだったから、とても怖かった。だからもう少しだけ、丁寧に扱ってほしかった。
そして、欲を言うなら不細工に愛されたかった。
きっと私は、イボガエルが超美形だったら普通に身を委ねていただろう。
都合の良いことを言ってるのは分かってるけど、私は不細工が好きだから。
我ながら馬鹿だと思う。
こんな私は、娼婦失格だ。
そして色んな意味で人間失格だ。
少し頭を冷やそうと思います。
そして心の傷も癒したく存じます。
紙を手に取り、筆を滑らせた。
『家出します。捜さないでください。ベティより』と。
「姫様、参りましょう」
「うん」
筆を置いて、スコットとの約束通り書き置きを残した。
逃げるわけじゃないから大丈夫。
ちょっと遠出しに行くだけだから。
いつか絶対戻ってくる。
だからそれまで、さようなら、風光明媚。
「(いざ、モニカの故郷へーー!)」