厳しさも優しさのひとつ
翌日、女の子が目を覚ました。
汚れていた肌を拭くと、小麦色の肌が露になった。
髪は肩にかかるくらい。茶色の頭部からは猫の耳が覗いている。
小動物のように小さい円らな瞳は愛嬌があって可愛らしい。
最初は状況が呑み込めず辺りをきょろきょろ見渡していた。
そして傍にいる私に物凄く警戒心を抱いていた。
此処が風光明媚という娼館で、倒れていた貴女を私が連れて帰ったと話せばぺこぺこ頭を下げられた。
話の途中、下女の子が『金平糖のお礼にと』とお粥を持ってきてくれた。ドロシーからのようだ。
お腹が空いてるみたいだったので話の前に食事を優先し女の子がお粥を食べる姿を見ていた。
小さな口で一生懸命頬張る姿はハムスターみたいで"きゅん"とした。
傷薬を塗って包帯を変えてから、改めて女の子と向き合う。
「私はベティ。風光明媚の娼婦よ。貴女のお名前は?」
「も、モニカ…」
モニカで良い?と訊ねると何度も首を振られた。
捥げそうな勢いで首を振るものだから少し気後れしてしまう。
「えっと、じゃあ、モニカ。モニカは猫の獣人さんだよね?」
この場にドロシーが居たら『どうでもいいわ!他に聞くことあるだろ!』と張り手を食らわされそうな質問をした。私にとっては重大な問題だ。
こんな可愛いリアル猫耳と尻尾があるのに目もくれないのは可笑しい。
「は、い。ごめん、なさい」
「どうして謝るの?」
「だ、だって、獣人だから。醜い、から」
「醜くないよ。モニカは可愛いよ」
目を丸くするモニカは、レイモンド様に似てると思った。
そっと頭を撫でて安心させるように微笑む。
「そ、そんなわけ。わ、私は醜くて汚い猫だから、」
「モニカには獣人のお友達はいないの?モニカと同じ獣人さんは醜くて汚い?」
「そ、そんなことありません…!」
「じゃあそういうことだね。モニカも醜くて汚いわけないよ。こんな可愛い獣人さんが醜いなんて有り得ないもの」
「…っ」
「ね?」
「は、い」
鼻声になって小さく頷くモニカは本当に可愛い。
同じく獣人のレイモンド様も格好良いけどある意味可愛いので部類に困るのよね。
「モニカはどうしてあの場所に倒れていたの?」
「それは…」
言いづらそうに口籠るので『しまった』と思った。
何も無理に聞き出そうとしてるわけじゃない。
触れてはいけない部分に触れてしまったかもしれない失態に顔を歪めていると、モニカが慌てた。
「あ、あの、言いたくないんじゃなくて、何て話せばいいのかわからなくて…。わ、私、国を飛び出してきたんです」
「えっ。モニカ、追われているの?」
「そ、そういうわけじゃないんです。ただ咄嗟のことだったんで、逃げてしまったんです。あのままじゃ本当に殺されると思って、」
曖昧な言葉を紡ぎ身震いするモニカ。
小さな両手で自身の腕を抱き込む姿に胸が掻き毟られる思いになる。
「それは、その身体の傷と何か関係があるの?」
ゆっくり頷く姿に何とも言い難い気持ちが押し上げてきた。
「…あの、此処は、リーランドという国なんですか?」
「そうよ。知らずに来てしまったの?」
「…はい。偶々乗り込んだ荷馬車が此処に辿り着いたので、」
少し躊躇ってから、控え気味にモニカは続きを口にする。
「傷は真新しいのもありますが、古傷もあります。見た目ほど痛くはないんです。獣人は頑丈に出来てますから。ただ、お腹が空いて、歩く気力を失ってしまって、」
「それで倒れたの?」
「…はい。国を出てから何も食べてなかったので、」
「え!?」
恥じらいながら話すモニカにギョッとした。
焦って『そこ恥ずかしがるところじゃないよ!』と突っ込みたくなる。
しかし『あ、お粥美味しかったです。ありがとうございます』なんて照れ臭そうに笑われたら、頷くしかない。
「モニカ、親御さんは?今頃心配しているのではないかしら?」
不躾な質問かもしれないけどごめんねと付け足せば、モニカはやんわり首を振った。
「いえ。親はいないです」
やっぱり国を飛び出した訳ありの子に訊くべきことではなかったかもしれない。
だけど、収穫はあった。
「これからどうするの?行く宛はあるのかしら?」
「…い、え。まだ、」
「なら、風光明媚にいればいいわ」
口を半開きにしたまま固まるモニカに『可愛い』と場違いなことを思いながら、口元を緩める。
「行く宛がないと言うなら、風光明媚を居場所にすれば良いと思う。実はもうスコットさんからの許可も頂いているの」
「スコットさん?」
「風光明媚のオーナーさんよ。掴み所のない人だけど優しい人だから心配することはないわ。風光明媚にモニカを傷つけようとする人はいないから」
若干心配な人がいるけど、と心の中で呟く。
「モニカが国に帰りたくないのでしょう?」
「…はい。まだ帰りたくありません」
少し引っ掛かりを覚えたが、とりあえず帰りたくないらしい。
「それなら風光明媚を居場所にすれば良いと思うわ」
「…あの、貴女も此処に居るんですか?」
「え、勿論。だって私は風光明媚の娼婦だからね」
何を思ったのか私が居るかどうか訊いてくるモニカに首を傾げた。
あっさり頷けば、ホッと胸を撫で下ろしていた。
「…ご迷惑にはなりませんか?」
「ならないよ。私はモニカを歓迎するわ。それに寧ろ私のほうが風光明媚に迷惑をかけてしまってるの」
くすくす笑えば、モニカもつられるように笑みを浮かべた。
そして笑いながら、目の縁からぽろっと涙を零した。
「も、モニカ!?どうしたの!?やっぱり傷が痛む!?」
「ち、違うんです。ただ、優しさが目に染みて、」
目や頬を何度もゴシゴシと拭うモニカ。
それでも大粒の涙は零れ落ちる。
指で涙を掬おうとして、私はふと気づいてしまった。前髪に隠れていた右目が露になっている。
焼け爛れたようになっている瞼。
そして、眼球は白く濁っている。左目は綺麗な茶色なのに。右目だけ、色褪せたように色がない。
戸惑う私がそれを見ていることに気づいたのか、モニカは涙を拭い、その爛れた右瞼を撫でた。
「これ、昔の傷なんです。少し、不注意で怪我をしてしまって…。もう痛くはないんですけど殆ど右目は見えなくなりました」
「…モニカ」
「醜い傷跡を見せてごめんなさい。綺麗な人に見せるものじゃないんですけど…」
右目を隠すように栗色の髪で顔半分を隠すモニカ。
手慣れたように隠すので、普段からそうしている事が垣間見える。
まるで長い前髪は顔を隠すために伸ばしているように思えた。
「醜くなんて、ないよ」
栗色の髪をそっと退けて、傷跡を指の腹でなぞる。
「私にはモニカの傷を共有することは出来ないし、痛みも感じられない私に『大丈夫』とか気軽に言われたくもないと思う。でも、本当に『醜い』なんて思わないから。それに、この傷のせいでモニカは死んでしまっていたかもしれない。この傷の痛みにモニカが勝ったから、今こうしてモニカに触れられているんだよ」
「…っ」
「だから、言わせて。モニカ、『醜い』なんて言わないで」
自分で『醜い』と言うモニカがどうしようもなく辛そうで、今にも泣き出しそうだったから。思わず、気休めにしかならないような慰めの言葉をかけてしまった。
こう言うところが、ブリアンナ様の癪に障るのだろう。
ブリアンナ様の『偽善者』を脳裏に過らせながら、下唇を噛むモニカを優しく抱擁した。
「…っごめんなさい。服、濡らしちゃいます」
「そんなことモニカが気にする必要はないよ。服には換えがあるの。モニカは換えがきかないでしょう?痛みも悲しみも全部押し殺してモニカが潰れてしまったら元も子もないよ。だから涙は溜め込むものじゃないわ」
「…っ、ごめん、なさい、っ」
服をきゅっと握り、身体を震わすモニカを抱き込む腕に力が籠る。
その小ささに胸が抉られたような気分だ。
傷ついたこの子を癒してあげたかった。
幼いこの子に伝わるよう、言葉も選んだつもりだった。
そう。あくまで私は"幼子"に接しているような気持ちだった。
だから、
「もう、八歳になったから、泣かないって決めてたのにっ」
なんて嘆かれて、開いた口が開かなかった。
魚のように口をぱくぱくさせ、どうにかして声を絞り出す。
「…っは、八歳?」
声が裏返ってしまったけどそんな些細なことはどうだって良い。
涙に濡れた目をぱちくりさせ、不思議そうな顔をするモニカは『はい』と頷いた。
「八歳?モニカ、八歳なの?」
「はい」
平然と頷くので嘘をついてる様子は感じない。
でもモニカはどう見たって四歳くらいかせいぜい五歳くらいにしか見えない容貌だった。
身長も低く、手足だって痩せ細っている。
ミニマムな可愛さがあるけど、八歳だと言うならこれは異常だと気づく。
身体は栄養が不足しているのが丸わかり。
青白い顔は貧相に見え、更にモニカの栄養不足を際立たせている。
特に身体の至るところにある傷は、どう見ても他者から与えられた傷だ。
誰かがモニカを傷つけていた事実に、怒りが眉の辺りを這う。
「…私が、」
「え?」
「モニカは私が守るから」
僅かに口調に怒気が混じった。
そして腹立たしさが高じて涙が出そうになるほど、胸が詰まる。
「八歳だということが泣くのを我慢する理由にはならないよ。私は十六歳だけど、風光明媚に来てから何度も泣いてるわ」
「…はい」
「だから辛いなら泣こう。泣くことは悪いことじゃないよ。沢山泣いた後に頑張ろうって思えるように、悲しみや苦しさを涙で洗い流すの」
「…は、い」
「それからいっぱいご飯を食べて、大きくなりましょう?モニカは少し小さいから。美味しいものいっぱい食べましょうね」
「…っ」
相好を崩すと、モニカはとうとう声を詰まらせ無言で頷いた。
俯いたモニカの影で涙の滴がぽたぽた落ちるのが見えて、頭を撫でる。
髪も汚れごわごわしているので、また今度綺麗にしてあげたいと思った。
そして、モニカの看病をして二日目に差し掛かったころ、その人はやってきた。
「あら、お前はまだ薄汚い野良猫を飼ってたのね」
「…ブリアンナ様」
「何よその顔は。余程私のことが気に食わないようね」
モニカを罵詈雑言から遠ざけて大切に看病してあげたいのに、ブリアンナ様の登場は痛い。
あからさまに眉を顰めてしまったのでブリアンナ様が目くじらを立てた。
「モニカを傷つけるようなことを仰らないでください」
「お前、これからこの薄汚い野良猫を飼おうと言うの?」
人の話を聞かないブリアンナ様に言い返したくなるが、ぐっと堪える。
何を言っても無駄な気がしたから。
心配そうに様子を窺うモニカに切ない心持ちになる。
中身は聡明な子だ。
「随分貧相ね。歳はおいくつ?」
「あ、は、八歳、です」
『は?』と言う顔をし、ブリアンナ様が私に確認するように目を向けてきたので黙って頷く。
やっぱりどう見積もったってせいぜい四歳が限界よね。
「八歳、ね。そう。また随分とーー」
その次に続く言葉はあまり良い言葉ではなさそうだ。
不躾な視線でじろじろ見られるモニカは居心地悪そうに見える。
庇おうとした時、ブリアンナ様はパチンと扇子を閉じた。
「この際は歳は置いといてその身丈なら問題はなさそうねーーステラ」
「はい」
ブリアンナ様の後ろから姿を見せたのは両手に大きな袋を抱えた女の子だった。
「この者は侍女のステラよ」
「はぁ、ステラちゃんですか」
「私はお前と違って暇ではないからステラを置いて行くわ」
「えっ、ブリアンナ様?」
制止も聞かず、ブリアンナ様は部屋を出て行ってしまった。
何しに来たのか戸惑っていると、置いて行かれたステラちゃんが両手に荷物を抱えたまま頭を下げた。
「ご紹介に与りました、ステラです」
多分知ってるであろう私の名前と、モニカの名前を返した。
ステラちゃんは無言で頷き、異様に大きい荷物を置く。
「それは?」
「私が幼少の頃、ブリアンナ様に買い与えられた服です。もう着なくなった物を捨てられずに居たのですが、宜しければモニカさんにと」
「え、いいの?」
「はい。私はもう着れませんから。ですがブリアンナ様から頂いた服ですので、大切に取っておいたんです」
開けられた袋にはモニカが着れそうな小さな服が入っていた。それも品質の良い高そうな服が。
それだけでブリアンナ様がステラちゃんを大切にしているのが分かる。
「これを全てモニカさんに渡すように仰ったのはブリアンナ様です」
「ブリアンナ様が?」
「はい。小さな子猫が来たから要らない服を処分するには打ってつけだと。そして、同じ侍女になるのであれば私が鞭を打ってやりなさいと」
ステラちゃんは顔色ひとつ変えず、灰色の瞳で私を見つめる。
「ベティ様、ブリアンナ様はとても分かりづらい御方です。誤解もされやすいです。ですが、本当は情に厚い御方なんです。モニカさんを悪く言ってらっしゃっても、こうして処分と言う名目で服を押し付けるくらいには、気に掛けていらっしゃいます。どうか、ブリアンナ様の言動を寛大にお受け止めくださいませんか」
「…私がブリアンナ様を嫌ってると言いたいように聞こえるけど、私はブリアンナ様を嫌ってないよ」
少し苦手なだけ、と心で呟く。
ステラちゃんは何処か安堵したような素振りを見せた。
こんな風に慕われていることからブリアンナ様の心根が窺える。
悪い人ではないとは思うけど、何故か敵対視されてるから何とも言えない。
それにしても、ブリアンナ様に侍女が居たなんて知らなかった。
耳にかかるくらいの短い黒髪で、華やかな目鼻立ちをしている。
将来美人さんになるだろうと確信出来るほど、綺麗。
しかし表情に乏しいようでずっと無表情だ。
「ステラちゃんは何歳なの?」
「九歳です。三年前からブリアンナ様の小姓をさせて頂いてます」
「ーーと言うことは、六歳のころからブリアンナ様と一緒にいるのね」
「はい」
それは絆も深いはずだと納得。
それだとステラちゃんは六歳の頃には既に風光明媚にいたと言う事実になってしまい、少し驚いてしまう。
私が目を丸くしてるうちに、冷静沈着なステラちゃんは次に進む。
「ところで、モニカさんはこれからどうされるのですか?」
「え、私、ですか?」
いきなり話を振られたことにモニカは困惑している様子だが、ステラちゃんは気にせず頷く。
「これからベティ様の傍で侍女になると言うのでしたら、私が部屋に案内します。侍女は主人の隣の部屋に控えておくものですから」
「ステラちゃん、ちょっと待って。モニカは私が面倒見るつもりだけど侍女になるとかは決まってないの」
「モニカさんを傍に置くつもりではないんですか?」
「うん。それはそうなんだけど、モニカは働かなくてもいいの。私の部屋で寝泊まりしてくれたら良いと思ってるから」
「余計なお世話かもしれませんが、風光明媚に来てまだ日の浅いベティ様に他人の世話を出来るほど余裕があるとは思えませんけど」
ステラちゃんの辛辣な言葉が胸に突き刺さる。
ぐうの音も出ないほど正論だ。
「…私が侍女と言うものになれば、ベティさんのお傍にいることが出来るんですか?」
「え、モニカ?」
「そうです。逆に言ってしまうと何の役にも立とうとしない者がベティ様の傍にいるのは邪魔でしかありません」
「ちょ、ちょっと、ステラちゃん、手厳しいよ。モニカ、そんなことないからね」
モニカは少し顔を伏せたが、直ぐに顔をあげてステラちゃんを見つめた。
私ではなく、ステラちゃんを。
「侍女と言うのは私でも出来ますか?」
「出来ます。ベティ様の身の回りのお世話をするだけです」
そんなことをさせられないと慌てたけどモニカの真剣な面構えに口を噤む。
「私、侍女になります。精一杯ベティさんのお世話をさせていただきます」
「モニカ、無理しなくて良いんだよ?」
「私、ベティさんの傍にいたいんです。堂々とお傍にいれるなら侍女になりたいです。それにベティさんのお世話をさせていただけるなんて身に余るほど光栄です!」
「そ、そうなの」
既にやる気満々のモニカは、ステラちゃんに『よろしくお願いします』と頭を下げた。
侍女として先輩のステラちゃんもそれを受け入れて、何処か満足気に頷いている。
私だけがまだ着いていけてない。
頭を悩ませる私のほうをぱっと見たモニカは猫耳をピンと立てた。
「不束者ですがよろしくお願いします、姫様」
「姫様!?」
聖女様の次はお姫様か!
お願いだからそれだけは止めてと懇願すると、『言葉に乏くてごめんなさい。優しくお美しいベティ様にぴったりの言葉が見つからなくて』と見当違いなことを口にし、照れ臭そうにする。
それではまるで『姫様じゃ不満足!もっと相応しい名前を見つけて!』と私が駄々を捏ねてるみたいだ。
もう、『ああ、うん、それでいいよ』と気の抜けた返事しか返せなかった。
『姫様』と呼び慕ってくれる侍女・モニカが誕生した瞬間であった。