旅は道連れ、世は情け
私は今、風光明媚館内にあるお部屋に住んでいる。
表館から裏館に繋がる渡り廊下を通ると仕事部屋と待機部屋が幾つもあるけど、更に奥には数人の娼婦と下女が住んでいる。
通称花館。
通いの娼婦は多い。始めから持ち家がある娼婦や、自腹で家を購入した娼婦もいるらしい。
自由気儘にさせて貰っているけど一応私は買われた身なので、風光明媚にいる。
ドロシーも花館に住んでいるし、何故かブリアンナ様まで花館に住んでいる。
お金はかなり持っていると聞くのでお屋敷くらい買えるはずだ。
きっとスコットが風光明媚にいることが多いから花館を出て行かないのだろう。
あれほどの美人が何故スコットなのか。どうしてもブリアンナ様を見る目が生温かいものになってしまう。
そして夜の帳が下りる頃、お買い物を済ませた私は花館に帰ろうとしていた。
念のため羽織を頭からすっぽり被って顔を隠している。
腕には金平糖を抱えていた。
金平糖は一日頑張った自分へのご褒美。
ドロシーにお裾分けしようと少し多めに買った。
つい最近まで、夜に外出するなんて考えられなかった。一端の淑女として憚られるものがあったから。
なのに今、金平糖を抱えて外を出歩いている。
祖国を出てから不思議なことばかりだ。
「ーーあれ?」
そして、ふとそれが目に入り足を止める。
木造の建物の間から伸びるそれはどう見ても人間の足だった。
人が倒れてる光景に一瞬恐怖に戦いたが慌てて近寄る。
「だ、大丈夫ですか!?」
細い足は幼い女の子のものだった。
上半身を抱き起こすが、その細さに愕然とした。まるで骨と皮だけのようだ。
不自然なくらい痩せている姿は痛々しさすら感じる。
ポキッと折れてしまいそうなほど手足は細い。
その手足は傷だらけで、肌も黒ずんでいて、服と呼べない布切れも薄汚れている。
右目の瞼が焼け爛れたような皮膚になっていることに驚いた。
倒れるその子の目は固く閉ざされ、死人のような顔色だ。
「だ、誰かーー」
周囲に助けを求めようとして口を噤む。
誰一人倒れるこの子に見向きもしない。
ちらりとこちらを見る人がいてもすぐ興味が失せたように目を逸らし、素通りしていく。
花街で死人が出るのは珍しいことではない。野垂れ死んだり、首を吊ったり、何らかのトラブルで殺害されたり。
血が流れる事が絶えないと聞く。
噂では、今日も何処かの娼婦が腹を切って自害したと耳にした。
通行人にとって倒れるこの子はその他大勢の一人。
素通りするのは花街では当たり前。
ここでは、この情のない周囲の反応が正しいのだろう。
でも、だからってーー
助けられるかもしれない命を、どうして見捨てようとするの。
「ああ、姉ちゃん、やめとけやめとけ。そいつはもうダメだ」
はっとして顔をあげると、この子が倒れている横の建物から店主が顔を出した。
「見たところ子供のようだな。身なりからしてスラムから出てきたガキか?こんなとこで倒れられてウチとしてもいい迷惑だ。虫の息だし、放っておいたらそのうち憲兵が回収してくれるさ」
「ーー回収?」
「花街に死体が転がるのはよくあるんだ。麗しい花の都にそんなものがあるのは不味いだろ?だから憲兵が見回りついでに掃除してくれるんだ」
豪快に笑いながら何てことないように話す店主に身の毛が弥立つ。
「そいつも放っておいたらすぐ事切れる。関わらないのが一番さ」
「まだ息があるのに、見捨てるのですか」
「見捨てるも何も俺には関係ないからなぁ。店側からすればこのまま倒れられてるより、死んでくれたほうが助かるな。
ーーそれにそいつは獣人ってやつだろ?」
「え?」
「珍しいもんを見た。あまり此処等に獣人はいないからなぁ。獣人は人間よりも遥かに殺戮力に長けている。関わったら最後、首を掻き切られるかもしれないぞ。姉ちゃんも殺されたくなきゃ関わらないことだな」
腕に収まるこの子の頭には確かに三角の耳がある。そして尻尾もついていることに今更気づく。
どちらも毛並みは良いとは言えず、薄汚れているけど。
この子は猫の獣人だと思う。
「殺されるなんて、そんな。有り得ません。この子はまだこんなにも小さいのに、」
「普通のガキじゃないだろ?そいつは獣人だ」
それは偏見だ。
この子を見捨てる理由にならないのは確かだった。
女の子を抱いてる腕に力が籠る。
「まだガキだが、こればっかりはどうしようもない。なあに、姉ちゃんが気にすることはないさ。どうせそのうち死ぬんだ。そこらへんに放っておいてくれ。その綺麗な御召し物が汚れちまうぞ?」
「ーーいえ」
助けないと言うなら、それでいい。
誰も手を差し伸べようとしないのなら私が助ける。
「私は行き倒れるこの子を見捨てることなど出来ません。手を尽くせる限りのことはしてみますわ。急ぎますので失礼致しますね、おじ様」
「は、はあ?お、おい、姉ちゃん!何処に行くってんだ!」
女の子を抱えて夜道をぱたぱた走る。
店主が言ってたように虫の息だ。
何処に行くかは、決まっている。私が今手を借りられる場所はひとつしかない。
意識のない女の子を抱えて転がり込んできた私にギョッとされたが、構わず縋り付く。
「スコットさん!助けてください!」
「怪我の手当ては済ませたからもう大丈夫。あとは目を覚ますまで待つしかない。それにしても何歳くらいの子なんだろう、かなり栄養不足のように見えるけど」
床に臥す女の子を見て頭を捻るスコット。
いきなりの無茶な願いにも関わらず、掛かり付けの医者を手配し、空き部屋まで用意してくれた彼に感謝の念が堪えない。
「すみません。ありがとうございます」
「僕は何もしてないよ。この子を診たのは医者で、この子を助けようとしたのはベティだしね。一歩遅ければ多分この子は死んでいたよ。助けたのはベティだ」
困った顔のまま愛想笑いをするスコットに力なく首を振る。
「ご迷惑をおかけしました。私はスコットさんに買われた奴隷娼婦の身ですのにーー」
「それは違う」
真剣な声で言葉を遮られた。
「僕は確かに奴隷商人からベティを買ったけど、ベティを奴隷だと思ったことはない」
スコットは私を買った日から本当によくしてくれる。
衣食住を与えてくれた。手荒な事なんてされない。優しく、丁寧に扱ってくれてる。
その扱いは奴隷とは掛け離れたものだった。
「そもそも奴隷商人から買い取っただけで僕は誓約書にサインしてないからね」
「誓約書?」
「え、ああ、ベティは知らないのか。奴隷を買う者は"絶対服従"の魔方陣が刻まれた誓約書に真名を書く。奴隷が主人に歯向かう事が出来ないよう、主人の血と奴隷の血で契約をするんだ。契約奴隷って言うものだよ」
疎い私は始めてそのことを知った。
「だからそもそもベティは奴隷娼婦じゃないよ。金貨で買われただけの、普通の女の子だ」
「何故、私を奴隷にしなかったのですか?」
「奴隷にされたかったの?」
「い、いえ」
しようと思えば私を契約奴隷にだって出来たはずだ。
今考えれば、奴隷がグータラ生活を送れるはずがない。自由に金平糖を買いに出歩けるはずがない。
今まで何の縛りもなく私の"自由"は保証されていた。
何処までも温いこの人に『どうして、』と零れた声が自然と震える。
「ベティがまだ何も分かっていなかったから、かな」
へらりと笑ったスコットは、あの日を思い出すように目を眇めた。
「これから奴隷に堕ちるかもしれない馬車の中で、ただ一人、目の輝きを失っていない女の子を見つけたんだ。皆絶望に染まった表情の中、その子だけは何も理解してない顔をしていた。本当に、買われると言うことがどういう事か理解してなかったんだろうね。正直、馬鹿だと思ったよ」
馬車の中から目があったスコットさんは嘲笑しながらも、じっとこちらを見つめてきた。
「愚かなほど無知で、未来が暗闇に包まれることも知らず、呑気なものだと馬鹿にしたよ。間抜け子だけどーー何だかそれが無性にいじらしく思えた。馬鹿な子ほど可愛いとはよく言ったものだよ」
この子の笑顔を見たいと思った。
この子の光を失いたくないと思った。
そう語るスコットの穏やかな顔は、馬車から見えたときの表情にそっくりだった。
「だから馬車から出してあげたくなったんだ。奴隷の檻と言うものからもね。僕がベティを買ったのは、ただそれだけの理由だよ」
「私が逃げるとは思わなかったんですか?私は今、ある意味自由です」
「呪縛がないからそうだね。うーん、でも、逃げるならそれでもいいと思ったよ」
「え」
「何も奴隷娼婦が欲しかったわけじゃないし。僕の目的は果たせたしね。ベティの愛らしい笑顔を見ることが出来た」
へらへら笑うと、風光明媚にはスコットが買った子もいるけど皆気まぐれで買ったと教えてくれた。
そして、目尻をちょっと上げ引き締まった顔を作った。
「逃げることでベティが笑えるなら、逃げてくれて構わないと思ってる。ああ、これは僕の独り言だよ。出来るなら風光明媚に手を貸して欲しいと思ってるよ、うん。折角買ったんだし」
「大きな独り言ですね。そんなこと言っていいんですか。私、本当に逃げるかもしれませんよ」
「それはそれで寂しいけどね。それもまたひとつの運命ってやつだよ。我が子の巣立ちに泣こうかな」
「……」
「ベティの歩む道を作ってあげるほど僕は責任感があるわけじゃないから。ベティを風光明媚に閉じ込めても、ベティの一生を背負える度胸もないんだ。ほら、僕って意気地無しだからさ」
「…お人好しって言うんですよ」
ふやけたように笑うスコットさんを皆口を揃えて『甘い』と言うけど、本当にそうだと思う。
「我が儘を言ってベティが笑えるなら我が儘を言っていいんだよ。娼婦のおねだりは可愛いものだよ。例えば猫の獣人を傍に置きたい、とかね」
「え、」
「でも世話をするのは僕じゃない、ベティだよ?元気になるまで看病したいならすればいい。行く宛がないならベティの侍女にでもしたらいい。ベティは一人では何も出来ないお嬢さんだからね」
スコットは何処までも私の行く手を阻まない。
『その子のことは任せるよ。じゃあ』と軽い感じで言って、部屋を出ようとしたスコットに、自然と唇が動く。
「あの、私、逃げませんから」
振り向いたスコットは、徐々に目を見開いていく。
「もし、もしも、逃げたくなるときがあったら、逃げるって書き置きしますから」
「…はは、逃亡予告か。本当に君は可笑しな娘だね」
今は風光明媚の役に立とうと思う。
もしも本当に逃げ出したくなるときが来てしまったら、それはそのとき考えよう。
「でも、本当にベティが風光明媚でずっと笑っていてくれていたらいいな、とは心の底から思ってるよ。風光明媚で人気を博して欲しいって言うのは僕個人の願いさ。風光明媚の役に立ってくれるならそれはもう本望だ」
頑張ろう。
今はまだスコットの望む"花"にすらなれてないし、完璧な"花"には程遠いけど、風光明媚で頑張ろうと思う。
何だか目頭が熱い。ぐにゃりと視界が歪んだ。
感傷に浸っているとスコットはだらしなく笑う。
「いやあ、でもそうか、嬉しいね。ベティから逃げないって言葉が聞けて嬉しいよ。実はいつ逃げるかと結構そわそわしてたんだ。とりあえず今は逃げないって聞けて一安心だよ。風光明媚で頑張ろうね、ベティ。君には期待してるよ!」
「はい?」
「ベティを買って本当に良かった!君は風光明媚の期待の星だからね!裏切られなくて良かったよ、逃げられたら飼い猫に指を噛まれた気分だ!」
清々しいほど狡猾な笑顔を叩き付けられた。
『本当に良かった!』『ベティは此処で頑張って貰わないと!』とるんるん気分で部屋を出ていく。
さっきと言っていることが真逆だ。
何が本当で何が嘘なのか分からない。
何処から何処まで本気だったのか。
思わず口に出してしまった『頑張る』を取り消したくなった。
私をやる気にさせるための嘘なら、本気で侮れない。詐欺師だ。
「(でも、私を助けてくれたのは本当なんだよね)」
馬車から救い出してくれたのは事実。
そして今も尚私に自由をくれる人。
胡散臭いけどやっぱり温い。温くて甘くてーー優しい人。
眠る女の子の頭をぼんやり撫でていると急に壁を軽く叩いた音が聞こえた。
そちらに目を向けると、ブリアンナ様が腕を組んで立っていた。
いつの間に。
部屋に入ってきたことにも気づかないくらいぼーっとしていたみたい。
「ブリアンナ様?どうかなさいましたか?」
ブリアンナ様は目尻を吊り上げ、私を睨んでいる。
眠る女の子をチラッと見てから、また睨み付けてきた。
「どうかしたかですって?ふざけないでよ!」
「え…?」
「スコット様の手を煩わせるなんて…!」
怒りに震える唇を、血が出そうなほど噛み締めている。
「お前ごときが手を煩わせて良い方ではないのよ!」
ブリアンナ様は、スコットのことを好いている。
多分嫉妬からの怒り。
疚しいことは何もなく、この子のためだと言おうとしたが、
「そんな汚ならしいものを拾ってくるなんて!そんなもの捨て置きなさいよ!」
少し腹の底が煮え立った。
「この子だって苦しんでるのに、そんな言い方あんまりです。倒れている幼い子をブリアンナ様は見捨てろと言うのですか?」
睨み返すと、ブリアンナ様は更に目を尖らせた。
「ならお前は野垂れ死にそうなものがいたら所構わず助けると言うの?その汚い幼子はスラムの子か、何処かの下女よ。獣人だから誰かから逃げてきたのかもしれないわね」
「なら、」
「『助けるべき』だとでも言いたいのかしら。
ーーなら、訊くわ。
お前はスラムの人間を全員救おうとでも思ってるの?
世の中、苦しんでる者は大勢いるでしょうね。その幼子を助けた後は?また倒れている者がいたらどうする?また手を差し伸べるのかしら?」
「…っ」
「出来ないでしょう。出来ないなら妙な情けは掛けないことね。その幼子だけが特別じゃないのよ」
ぐっと押し黙る。
店主も人が倒れているのは日常茶飯事のように言っていた。
「お前は私に『見捨てるか』と聞いたわね。ええ、見捨てるわよ。でも私だけじゃないわ。倒れてる者を連れ帰るなんてお前だけよ」
「でもこの子は本当に死んでしまいそうだったんです。寒い夜空の下で放っておいたら、死んでいたかもしれません。だからーー」
「お前は結局自分では何も出来なかった。助けを求めたじゃない。
自分の力で面倒見切れないようなやつが綺麗事ばかり並べるな!!お前のようなやつを偽善者と言うのよ!!」
耐えきれず、爆発したように怒鳴られた。
殺気立った怒りが頭を押さえ込んでくる。
ブリアンナ様が手にしている扇子がバキッと無惨に折れた。
正しい言葉に、俯きながら下唇を噛む。
口内にじわりと血の味が広がった。
肩で息をしているブリアンナ様は忌々しそうに声を吐き出す。
「妙な正義感を翳すのはお前の勝手よ。でもそれにスコット様を巻き込むのは不愉快極まりないわ。お前の大好きなドロシーでも巻き込んでおけばいいものをーー」
歯軋りするブリアンナ様は、続きが声にならないほど憎悪に満ちた顔をしている。
怒りを孕んだ目で私を睨んでから、部屋を後にしようとするブリアンナ様を、
「確かに、その通りだと思います」
何故か引き留めるようなことを言ってしまった。
ぴたりと足を止めたブリアンナ様は振り返ることはせず、こちらに耳だけを傾けている。
ブリアンナ様の言うことは正しい。
私は助けを求めただけで何も出来なかった。
苦しんでいるのも、この子だけではない。世界でたったひとり、この子だけが苦しんでいるわけでもない。
この子だけを助け、他の人達を救わないのは不公平にも思える。
ブリアンナ様は一度助けたらキリがないと言いたかったのだろう。
でも、でもーー
「無力だと分かっていても、倒れている小さな子を見捨てるような自分でありたいとは思いません」
手を差し伸べなかったことを一生後悔すると分かっているから、私は動いた。
こんなにも幼い、傷だらけの女の子を見捨てるなんてごめんだ。
「ブリアンナ様が仰ることは正しいです。それでも、私は、間違ったことをしたとは思っていません」
言葉が喉に突っ掛かり、声が震える。
言い様のない寂寥感が広がり、鼻の奥がツンとした。
もう一度同じ場面に遭遇したとしてもきっと何とかしようと足掻いてしまうことだろう。
ブリアンナ様は、少しの間黙ったままだった。また『偽善者』だと言われることを覚悟したけど
「ーーそう。勝手にしなさい」
意外にも静かに出て行った。
馬鹿な私にこれ以上付き合いきれないと呆れたのかな。
それはそれでまた心苦しい。
スコットもブリアンナ様が居なくなった部屋は静寂に包まれ、女の子の寝息だけが聞こえる。
右目の傷が痛々しい。
瞳は何色なんだろう。
どんな声をしてるんだろう。
名前は何て言うんだろう。
小柄だけど何歳なのかな。
考え事をしながら栗色の髪に指を通すように頭を撫でた。
「早く、元気になってね」