序章五 ― 山中への密道 ―
八月五日、午後三時二十八分。一台の車が国道を逸れ、森の中へと入っていく。車内には男が一人、真面目な表情でハンドルを握っている。先ほどの舞い上がりから一転、真剣ながらも落ち着いた様子だ。今後の人生を決めるかもしれないこの取材は失敗できない。推測で目指しているから確証めいたことなど何もないのだが、ある種の賭けであるこの行動に込める思いはとても強かった。
男の名は新田正。テレビ局入社から二年が過ぎ、そろそろ業績の個人差が目に見えてくるような時期であった。彼は平凡だ。与えられた仕事をきちんと熟すが、望まれたこと以上の成果を出せないと言った状況だった。このブラックなシステムの中、役割を全う出来るということは本来褒め称えられるべきであるのだが、個性という個性が溢れた人間社会で生活していた彼は、とても肩身が狭い様子であった。彼には大きな好みがなく、また生まれも特筆することがない一般家庭であった。それに加え伸寺のような、所謂才能のようなものも見出せないでいた。現代社会が求めているのは汎用的人間ではなく特殊な、専門的な人間。しかしそれは努力だけでどうにかなるようなものではない。だから彼は、今回の件を運に頼って動き出したのだ。
水平だった道はだんだんと傾斜となり、これが山へと続くものだと伝えてくる。道案内アプリが示す通りに進んでいるのだ。たとえ初めていくところだとしても迷うことはない。紙の地図というものはあまり見かけなくなり、地図を読み解くという作業も必要ではなくなった。行動する度にその場所を想像し考える必要がないというのは楽であるが、だからこそこのような状況になるのだろう。確かな道を進んでいるはずなのに間違っているのではないかという不安。人気はないが、何かいるのではないかと思えてくる森の中に、舗装された道が続いている。少し前までビルが立ち並んでいた道沿いは、多くの木々が茂っていた。日常の傍にあった非日常へ、知らぬ間に迷い込んでいるようだった。
「そろそろだな」
誰かに聞かせるわけではないその声は、静かな車内で微かに呟かれた。
「ここ、か」
太平洋側ではあまり感じられない夏の湿気。それをここでは、肌をもって感じさせられる。蝉が鳴き喚き、余計に暑さを感じてしまう。日陰だというのに、この蒸し暑さというのは日差しを浴びること並みに辛い。
車を降り、鍵をかける。ここは駐車場であるはずだが、車は一台も止まっていなかった。まさか、ここには誰もいないというのか。賭けは空振りに終わってしまったのか。
暑さゆえか、それとも冷や汗なのか。体から溢れる滴が流れ落ちていく。額を濡らすそれを肘で拭うが、あまり良い気はしなかった。
持って行くものは最低限度の取材道具だけ。大まかに言うのなら、小さなメモ帳とボールペン、そしてテレビ記者としては重要なカメラの三つだ。
「よし」
何も感じ取れない現状に焦りを感じるが、とりあえず録画を開始する。声はあとでいくらでも合成できるから、今は必要ない。大切なのはこの場所を、状況を、しっかり記録すること。遠くに見える白い建物に何があろうと、カメラに収める。この映像は、唯一無二の物なのだから。
一通り外観の撮影を終え、ついに建物の中へ入るときが来た。本来、建物の所有者または権利者に許可を取ってからの撮影が基本であるはずなのに、すっかり忘れてしまっていたのだろう。突撃取材になるのは仕方ないが、建物の中を撮らずして帰るわけにはいかない。多少頭を下げることになっても――――。
悩みながら、建物の中へと入って行った。
「…………」
来るべきではなかったと。深く反省している。仕事を終えたカメラは地面に置き、ほんのさっきまで通話に使っていた携帯を持った腕はだらりと重力に遵っていた。今ほどこの携帯を苦に思ったことはない。スマホであればスライド一つで済むというのに、これはわざわざ電話と数字を合わせて五回押さなければいけなかった。酷く気落ちしている現状に、それはかなり苦痛であった。
別に叱られたというわけではない。そもそも、中に人はいなかった。正確に言うと、“生きた人間は”いなかった。それ以上は思い出したくない。
勿体ないなどという感情は抱かないから、さっさとこのカメラを誰かに渡してしまいたい。直ぐに壊してしまいという衝動に駆られるが、あの給料で弁償できる額ではないことなど知っている。ただただ、恐怖と後悔とが混ざり合った複雑な感情を、押しとどめておくことしかできなかった。
サク サク サク …………
誰かの足音が聞こえる。間隔の広いそれはだんだんと大きくなってくる。早いな。さすが緊急車両なだけはある。ドアの開閉音は聞こえなかったが、きっと考え詰めていたからだろう。これでようやく救われる。ここから逃げることができる。
「ありがとうござ――――」
振り向いたそこには、誰もいなかった。確かに聞こえたあの足音は一体何だったのだろう。幻聴だろうか。いやまさか。確かに自分は足音を聞いた。証拠はないが確信がある。では一体……。
答えは直ぐに現れた。視界の両端から現れた腕。ごつごつとしたそれは目を覆い隠す。振り払うこともできないまま、後ろに倒された。
その時頭を打ったのだろう。この後の記憶は残っていなかった。
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○迫りくる猛威、―狂人病―
~~された。
我々はこれを“狂人病”と名付けようと思う。
数多くの精神病が生まれるこの時代。
遂に自らの理性を壊す病が生まれてしまったのか。
無作為に人を殺める精神病など、恐怖でしかない。
しかし、これを病気以外に説明できないだろう。
確認されている中で第一の発症者は長居利という~~
(※週刊ミステリー八月第一週号抜粋)