序章一 ― 白昼の悪夢 ―
※グロ注意
冷たいビル群が聳え立つ都心に、隠れていた太陽が真上から熱を当ててくる。
大勢の人々が忙しなく足を動かしていく、いつも通りの光景を眺めていた。
「でさー、そいつが――――」
昼休みだか何だか知らないが、学生であろう人が増えてきた。
なんて目障りな。
真面目な空気が流れていたはずの道に騒がしい声が増えていく。
笑いながら、巫山戯ながら、そして、
「うわー、あの人感じ悪くない?」
「やめとけって。聞こえるぞ」
嘲りながら。
ただ壁に体を預け立っているだけの人間に、人は蔑み、時に罵倒する。
見た目が怖いと。服が汚いと。なぜ影に居るのかと。景観を損ねると。治安が悪くなると。あんな人には近づいちゃだめよと。ダメ人間だと。社会の汚点だと。
人々は口軽く、自分を何も知らずして言いたい放題やりたい放題。ゴミや石を投げられることもあった。
無意識なのか、意図してなのか。それとも、これが人間の本能というものなのか。
含まれる意味は別として、人間は他人を馬鹿にする。たとえ笑わそうとする冗談でも、暗い気持ちで聞けば全て悪意の籠もった悪口だ。
会社の経費削減で職を失い、妻には財産とともに夜逃げをされて、手元には服と僅かな食糧があるばかり。収入の目途が無く貯蓄も無くなった今、月払いのマンションに住める筈もなく、引き払うことになった。だから今はホームレス状態。最低限の服以外全て売り払い、会社の手当てと合わせれば生きてはいける。だが、収入を得ようにもこの格好ではバイトにすら雇われると思えず、会社など論外。再び家で暮らすことなど夢のまた夢なのだ。
それなのに、事情も知らないあいつらは能無しと見下す。頑張りもしない他の奴らとは違う。努力して職を得たのに下っ端だからと飛ばされて、独り身になり、地位も資産も失ったのだ。
ウザい。
仲睦まじそうな男女が汚物を見る目を向けてくる。
憎い。
何処かへ歩くサラリーマンが憐む目を向けてくる。
煩わしい。
警備らしき制服を着た男が怪しむ目を向けてくる。
なぜ嫌う。
どれだけ悪口雑言すれば気が済むのか。
お前たちが捨てたものの行く末だというのに、手元にないから気にしないというのか。要はゴミ同然と、そう言いたいのか。こんな不景気社会の産物は、無意味なものだけなのか。能力不足など個人の理由に関係なく、たまたま選ばれ捨てられて、さらに次の職を得る機会すら見つからないのは偶然であるはずだ。しかし、皆これを必然というように見てくる。
「あんなのがいるから社会が悪くなるのよ」
どうせ碌に勉強していないからそういうことが言えるのであろう。
「だな。何もしないでああしてたって、何も変わんねえのに」
だからこそ癇に触れる。努力に努力を重ねてつかんだ地位を、土台ごと取られて転落し、生きることだけで精いっぱいの今に、救いの手は伸びない。犯罪者として刑務所に入っている罪人だって、『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』という憲法二五条一項の社会権の一つ、生存権に守られている。
それなのにどうだ。行事を楽しむ余裕が無ければ、食事や睡眠すら満足に得られない。罪を犯した人間の方が豊かに暮らせるのだから、態と犯罪を起こす人が現れるこの社会。一度零落れたら後は負の循環。光が見えることはないのだから、それに触れる可能性もあるはずがない。
「ほんとそれ! あんな能無しなんて要らないのよ」
才能なんて、誰しもが得られるものではない。
「それこそ、ああいう奴らに努力させればもっと景気良くなるんじゃねえか?」
努力すれば何でもできるなんて、そんな甘くはない。
「いいねそれ! 試しに言ってこようよ」
はぁっ!?
「あれにか?」
巫山戯るな。
「そう! どうせ何もできないんだしさ。面白そう」
既に、先程まで装ってきた平常心は一切無くなっていた。
「おいおい、大丈夫か?」
「まあ見てなって」
先程手に入れた、冷ややかな物を握る力が強くなる。
それを伝う汗が、付着した何かに濁らされた。
「あの、おじ――――」
一振り。
だが、それに反応した彼が、彼女を庇うようにその身を曝す。足元が不安定な状態で攻撃を受け、耐えられず倒れた。腹が斬られ力が抜けた体は重力に吸い込まれていく。それを仕留めようと腰横に下段で構えた刃を上に向け、重力に逆らいながら突き刺した。
彼の胸部には、手に握られた木製の柄が見える。背中からは血が噴き出した。肺を貫通したそれは、下向きに、力強く引き抜かれた。彼はその力に抵抗できず、大量の血を吹きだしながら勢いよく地面と接吻した。
「っはははは!」
大きな充足感と笑いが込み上げた。
こんな簡単なことではないか。
躊躇う理由がどこにある。
「もっと……獲物を…………!!」
運が良いのか悪いのか、その様子を目撃した人間がいた。それは、さっきの二人を親切に送り出した仲良し七人組の五人。その中のリーダー的存在だった一人が、威嚇しながら、仲間の為になろうとしている。しかし、既に亡き人となっている彼に気付くことは無く、一方的に彼女に近づいてきたただのナンパ野郎だと思ってしまったこと。それが、彼らの運命を決めていた。
「理恵から離れ――――」
それはもう、人間を超えた動きだった。否、人間ではなかった。
まともに言葉が話せておらず、最早叫び声を上げているだけ。顔が理性を持った生物のものと思えないほど欲に満ち溢れ、怒りと笑みと、嘆きと喜びと、苦しみと快楽とが入り混じったような、正に本能の顔だった。体格も違う。十分な栄養が取れず痩せ気味だった筈なのに、今は着ていた服がはち切れんばかりに膨らんでいる。
一体何があったのか。男は化け物となってしまった。
化け物の握る細長い得物は、本来の銀と付着した赤により照る。化け物が近くのすし屋から無理やり奪ってきたそれは、既に片手で収まらない程の命を奪っている。そして今もなお、その数を増やそうとしていた。
だが化け物は、直ぐ殺そうとはせず、敵対した一人ひとりの脚を斬りつけていった。動きを止めたのは、やって来た五人全員を斬り付けてからのこと。暴走していながらも、確実に獲物を捕らえるために、先ずその足を封じることで逃げられなくしたのだろう。
突然動き出した化け物に、目が追いつかず動揺していた大学生男女は、自分の身が傷ついたことで漸く自身の危険に気が付く。だが時既に遅し。異変に気付いた一般人は直ぐその場から離れ、まるで闘技場のような空間ができる。その中に、足を斬られ早く動けない五人の男女と化け物だけが存在した。
結末など、考えるまでもないだろう。
化け物の後ろで、周りの野次馬に手を伸ばし、助けを求める女子が一人。それを察した化け物の動きは速い。直ぐにその手を斬り落とし、叫び声もろとも、魂を体から引き離した。
化け物は止まらない。抵抗してきた腕は斬り飛ばし、逃げようとする脚は斬り落とす。動かない相手には何の躊躇いもなく刃を突き刺す。池や赤い噴水を作り、時折快感の顔を見せる。
学生たちの半数は既に息を引き取り、まだ意識がある学生も、その命は風前の灯火だった。横たわる六人の体。つくり上げた光景に、化け物は満足しているようにも見える。
「それ以上動くな!」
怯えの無い声が響く。
声の元を見ると、青と黒の制服姿らしき男が数人いた。
その中に、あの女の姿があった。一番憎らしい、化け物を揶揄いに来た女だ。
いつの間にか姿を消していると思ったら、一人で助けを求め、逃げていたらしい。
「グゥゥゥ……」
そんなところにいたのか、と。
化け物の心には、それしか映っていなかった。
何も聞こえず、何も見えず、何も感じない。
ただ体が動くに任せ、一人となった敵に襲いかかりに行く。
その先では、警官が黒い金属物体を構えていることも知らずに。