一章四 ―居心地求め―
※微グロ注意
その家は、鍵が掛かっていなかった。
「縁っ!」
走っている最中に来たメッセージで、縁が僕と同じ状況に陥ったことは分かっていた。だから躊躇うことなく家に入る。縁には確か弟がいたはずだ。ずっと一人だけと考えていたが、ここに来てその弟もと思うようになっていた。もちろん欲を言えば全員助けたい。何も考えず正義感のみで行動すればきっとそうなるだろう。今助けるというのはそんな正義という名の英雄を目指しているわけではなく、仲間を失いたくないという自分の欲にまみれた感情のもと動いている。少し余裕が見えて“一人の少女である縁”のことも考え始めたが、さっきまでは“仲間である縁”としか考えられていなかった。悪く言えば物のように考えて、自分さえ悲しまなければいいと思っていた。なんて利己的なことだ。もしこのまま助けに行っていたら、家族と一緒に居たいという縁の思いに対し、自分の我儘を押し付けるところだった。
「開けるぞ」
「うん」
縁の家は数回来たことがある。家の間取り全てを知っているわけではないが、普段どの部屋で暮らしているかくらいは知っている。今は夜で、その部屋しか明かりがついていなければなおさらだ。まるでというか、まさに不法侵入なのだが、ばれないよう忍び歩きで部屋へと近づく。残念ながらその部屋の扉はガラスなど中の様子が分かる装飾が施されていなかった。仕方なく扉を少し開き、生まれた隙間から中の様子をうかがう。身長が低めな男の子――――縁の弟だと思われる少年が、縁を背にかばって何かと対峙していた。
「今なら二人とも助けられるかもな。俺はとりあえず化け物の相手するから、お前は二人を逃がしてやれ」
「でもそれじゃあ!」
「言わんとすることは分かるが、俺はお前より体力あるからな」
「……分かったよ」
つい言い返そうとしてしまったが、この作戦はとても理に適っている。狂人化した人間を見たことがある僕としては、あれを前に逃げ切るのは不可能だと言い切れる。それは普段はおとなしく温和な母さんがあそこまで強くなる狂人ならぬ強靭化もそうだが、何よりあの威圧を前にしては力が入らない。勇気がないからという感情論で片付けることもできなくはないが、あの恐怖は本能で感じ、逃げたいのに逃げることができないとても恐ろしい感覚に囚われる。縁の前に立つあの少年は相当な勇気の持ち主だろうが、その足は震え、立ったはいいがもう動くことが出来ないのであろう。
「じゃ、同時に入るからな」
「ゃっ!」
同時に突撃しようと扉から顔を離した直後、中から小さな悲鳴が聞こえた。僕らは顔を見合わせ、そのまま中に突撃する。
「っ……」
目の前に少年が、背から刃物を出していた。もちろん、少年の直ぐ傍にいたのは狂人化した縁たちの父親だと思われる男であった。
「てめぇ!」
突然の突撃に驚かされたのか、少年を刺した男は刃物を手放しこちらを向いている。その隙に英明は突進し、勢いそのまま体当たり。さすがに狂人化した大人の人間相手に並みの子供が敵う筈もなく、男は体勢を崩しただけ。その隙に、細めの体のどこから出てきたかわからない力を込めた英明の右足が男を襲う。ただでさえ不安定だった男はそのまま横転。その時、男の質量ゆえか何かが折れるような音がした。
それを見た僕は少し油断したのか、縁に目を合わせるとまずは少年を助けに向かった。
「ダメっ!」
しかし、縁はそれを否定した。
「縁の弟だよね? このまま放っておいたら……」
急にかけられた静止の声に戸惑いながら縁を見る。当の縁と言えば、わなわなと体を震わせ、両手は何かを耐えるように強く握り、今にも泣き出しそうな形相をしていた。
「さっきテレビで言ってたの。狂人病は、やっぱり病気だったんだって。それで、血液感染するらしいの……」
運がいいのか悪いのか、少年は刺された時に気を失ったらしく、現在は床に倒れている。大動脈に近い肩を貫かれ、血がどんどん溢れている。今すぐ止血処理をすればまだ助けられるかもしれない。でも縁にそう言われ、僕も英明も動くことができなかった。
「普通血液感染って言うと、傷口でもなければ、たとえ感染した血に触れてもうつらないじゃない? でもこの狂人病は、傷口なんてなくても、直接血に触れたら感染するらしいわ」
つまり、今僕らに少年を助ける方法はないと。そう言うことなのだろう。だから、本来であれば一番に駆け寄ってもいい縁が、ずっと少年から距離を取っているのだ。
「でもまだ詳しいことは分かっていないからそれ以上のことは不明。だから、今は致死率100%の病と言われているわ」
危険を冒してまで、助かるかわからない命を救うのではなく、今ある確かな命を繋いでほしいと言っているのであろう。まだ生きている少年を、悔いにまみれながらもすでに諦めているのだろう。僕は兄弟という関係を知らないから分からないけど、ずっと一緒に過ごしてきた英明がこの少年であると考えたら、もうそれだけで自分を保っていられない気がする。
「助けに来てくれた、んだよね? まずは家を出ましょ。ここに居たくないの」
そう言って立ち上がった縁は、しゃがみこんだ僕の肩に手を置いた。
「嘆いたって変わらないもの。私たちはまだ生きているんだから、あの子の分も……生きて……あげ…………な……いと…………」
縁の口調がいつもと違う。それだけでも、どれだけ耐えているかが伝わってきた。助かったという安堵が、気を引き締めていた紐を解いたのだろう。そして、目の前で起こった恐怖、家族を失った悲しみ、自分だけ助かったという罪悪感、何もできなかった後悔、様々な感情が混ざりあった涙が、フローリングの床に染みを残す。
そんな縁がいるのに、自分はただ、彼女の腕の支えにしかなれなかった。
悲しみとともに、やるせなさを感じた。