8
放課後になると同時に、壱はサックスを掴んで教室を出た。ユキに声をかけようかとも思ったのだが、まだ迷っていると若菜が指摘していたのだから、迷わせておくべきだと考えたのである。いきなり現れた転校生に過ぎない自分がいくら背中を押した所で、結局の所どうするかは、ユキ本人が決める事だ。
音楽室は既に開いていて、中から2つの話し声が聞こえてくるのが解った。
「おはようさ」
「おはようございます!」
挨拶の言葉尻を食われ驚く壱の目に飛び込んできたのは、小柄な女生徒。可奈子と比べれば落ち着いてはいるが、やはり小柄と呼ぶに相応しい。
「黒沢君、彼女が1年の」
「おはようございます菱沼咲です!」
紹介しかけた南教諭を遮り、再び挨拶をくれる女生徒。
少しクセのあるショートカットを振り乱すように頭を下げるのは、以前名前だけ聞いていた、1年生の部員だった。中々のインパクトである。負けていられない、と壱は思った。
「やあ菱沼君。僕は黒沢壱。皆からはカイザーと呼ばれている」
「解りました皇帝!」
「くそ、やるな!」
「何の話? ねえ何の話?」
置いてけぼりにされつつある南教諭が自己主張。うむと腕を組み、壱はとりあえず手近な椅子に腰掛けた。
「えーと、菱沼咲さん。1年生」
「はい!」
「当社を希望した理由は?」
「御社の経営理念に共感し、尽力したいと考えたからです!」
「えー、珠算1級ですか」
「電卓の方が速いですよね」
「だよね」
「このコントはいつまで?」
南教諭は再び困った顔をする。それよりもこの咲という少女の反射神経に、始めは心底喜んだ。
「いいね。宜しく頼むよ」
「はい!」
「すっげえ元気ね。体弱いって聞いたけど」
「はい!」
「嘘吐け!」
「ホントよホント。本人にそのつもりが無いだけで」
苦笑いをしながら南教諭がそう言わなければ、本当にただの仮病だったのではないかと疑う所である。
いやにワクワクとした顔で壱の目を見据え、咲は「宜しくお願いします!」と空手式に礼をして見せた。基本的に良い子である、と黒沢バイオコンピュータに記憶された。
「うん、元気が良いのは良い事だよね」
「ですよね!」
「で、咲さんはどんな楽器を?」
「なんでもします!」
「咲ちゃん、器用貧乏なのよ」
南教諭は最早解説役に徹する事にしたらしいが、咲はそれが不満らしい。
「お姉ちゃん、それはざっくり説明し過ぎ……」
「お姉ちゃん?」
「あ、咲ちゃんわたしの姉の娘なのよ。だから姪と叔母さん」
咲と自分を順に指差しながら、南教諭はちょっと誇らしげに言ってみせる。しかし壱はそれどころではなかった。こんな姪とこんな叔母が居てたまるかと心底思う。
故に、ガクガクと震えた。
「どうしたんですか先輩!」
「いや何、現実が眩しすぎて」
「それで何故ねっとりと私たちを見るの……」
「あはは」
薄笑いを浮かべて2人を見詰める壱に南教諭は危機感を、咲は笑いのツボをそれぞれ刺激されたらしい。
不意に、背後から扉の開く音。若菜が到着。
「おはようご」
「おはようございます!」
駆け寄り気味に咲が飛び出し、壱の時と同じ挨拶。若菜は呆気に取られながらも、南教諭と壱に視線で確認を求めてきた。頷き返すと、途端に笑顔。
「ああ、1年生の」
「菱沼咲です、宜しくお願いします!」
「うん。柴崎若菜先輩です、こんにちわ」
握手をする若菜と咲。背の高い若菜と小柄な咲がそうする風景には、色々と考えざるを得ない黒沢壱である。
何事か会話を始める2人から離れ、壱は南教諭の傍へ耳打ち。
「心配ですか」
「え?」
「咲さんもそうですけど、部活そのものについて」
「うん……正直言えばね」
「まあ、ユッキーはじきに来てくれるでしょうし、お鶴さんも、そう時間はかからずに合流してくれますよ」
「臼井さんはともかく……鶴岡さんは、本当に来てくれるかしら」
「先生がそんなでどうするんですか。あの子はあの子なりに、一生懸命色々考えてますよ」
昼時の会話や、可奈子の仕草を思い出すと、再び腹部に黒いものがわだかまりかける。
何なのだ、という気持ちはある。人に相対してこういう気持ちになったのは、もう随分と久しぶりの筈だった。壱には可奈子に対して含むような所は無い筈だが、不思議と心を引き摺られるような気分になる。
「黒沢君は凄いのね」
「夜もですが」
「……」
「いや、すいません」
しかも使いまわしで有ることを壱は嫌悪した。
「俺は別に凄くはないんですよ。まだ部員として残ってくれてた子らが、凄いだけで。咲さんも、体が弱いといいますが、なんとも頼り甲斐のありそうな子じゃないですか」
「謙遜するのねえ」
「謙遜じゃないですって。全ては「南先生を自由にする権」の御為に」
「お、憶えてたの……」
「忘れるものかよ!」
「あれ、何の話?」
引きつった笑顔の南教諭に気付いたのか、若菜が声をかけてくる。
ふふんと笑う壱、半笑いの南教諭。
微妙な組み合わせだった。
「とりあえず、状況確認から参りたいと思うのですが」
一通り自己紹介めいたものが終わり、壱は南教諭を含め3人にそう提案した。
「状況確認ですか?」
「うん。咲さんはなんでもやれるって事らしいけど、どの程度まで出来るのかなと。若菜嬢もユーフォで、下手だと自己申告してたけどどのぐらいなのかなと。そういう確認をね」
「うう……」
「なんでも並ちょっとです」
壱の提案に若菜は苦い顔を、咲ははきはきと自信たっぷりに返事をする。
「課題曲も決まってないのに?」
「だからですよティーチャー。空で何かが演奏できるっていうのは1つのバロメーターですし、そのテクニックとかからも、当人の腕前ってのは測れる」
「なるほど」
「そうと決まれば準備をなさい。若菜嬢いつまでも青い顔してないで」
「はーいー」
「あたしは何をしたら良いですか?」
「一番得意なのは?」
「えーと……一番得意なのは?」
壱からの問いかけを、そのまま南教諭へパスする咲。苦笑いで手を振る南教諭を見て、咲は悩み始めた。
「ううん……これってのは無いんですけど……」
「じゃ、適当に選んでおいで。若菜嬢、楽器の場所とか教えてあげて」
「了解、咲ちゃんこっち」
「はい」
「美しいっすね、女の子同士のやり取り」
「黒沢君は?」
「折角だから俺はこのサックスを」
「あ、それは解るんだけど。腕前とか、そういえば私も1度も聞いたことないわ」
壱のサックスケースを見やりながら、南教諭はやや懐疑的な色を含めつつそう言う。
故に胸をそらした。
「天才」
「あら」
「いや、言い過ぎましたけど」
「手首の筋肉鍛えられてるのね……」
「素早い返しでしょう。まあともあれ、いきなり楽譜渡されても吹ける程度には」
「そうなの? 凄いじゃない。スタジオミュージシャンみたい」
目に見えて尊敬の眼差しを贈ってくる南教諭。スタジオミュージシャンというのは言い過ぎだが、なにしろ壱は無闇にサックス暦が長いのである。
「13年目ですからな」
「はぁ……それは、上手くもなるわね」
「でしょう。年季さえ入ってれば、俺ぐらいには誰でもなります」
「これは楽しみだわ」
「時に先生は楽器は?」
音楽教師をしているのだから、何かある筈だと以前から思っていた。
壱の何気ない質問に対し、南教諭は半笑い。
「え、まさか」
「ちが、ううん、そんな事ないのよぅ?」
「まだ何も申しておりませぬ」
「だ、だから……ずっと、その、打楽器で」
「……」
「か、管楽器も出来るのよ! クラリネットとか」
「そうなんですか」
「……まあ、音が出せる程度だけどね」
窓に寄りかかり、外をぼんやりと眺める南教諭。
こと音楽面において尊敬できるかどうかかなり怪しくなってきた女性の背中は、悲しいくらいに煤けていた。
「先生」
「何よ」
「なんで不貞腐れてんですか」
「いいのよ別に。私じゃ皆に何も教えられない事ぐらい解ってるもの。どうせ理論しか出来てないもの。音大だって劣等生だったわよ」
「いやそんないつまでもナナメってないで。打楽器暦があるのなら、指揮とかお願いできますよね? あくまで演奏するのは俺ら部員なんですから、先生にはむしろそうあって欲しい」
言いながら、何故自分より年上の、しかも教師を慰めなければならないのかと内心突っ込んでおくが、南教諭はその言葉にいたく喜びを覚えた様子で、微笑みながら振り返る。
「そうよね! それは私がやるべきよね!」
「そうですよー」
「うんうん。しょうがないな。任せて」
ちなみにリズム感についても13年に及ぶ練習で強靭に鍛え上げてきているので、別段指揮の必要性を壱は感じていない。無論伏せておく。
お待たせしました、と言いながら漸く戻って来た若菜と咲。若菜は先日の言葉通りユーフォニュウムを、咲はフルートを手に持っていた。マウスピースの予備はいくつかあったらしく、不器用そうにビニール袋を開封しながら咲は口を開く。
「フルートのパートって、先輩に1人居られるって聞きましたけど」
可奈子の事である。南教諭はちらと視線で壱に確認を取ってくるが、壱はちょっと頷き返すだけで流し、答える。
「うん。今はちょいと用事が重なってて来れないけど、すぐに合流するよ。ねえわかなん」
「わかなん? あ、うん。すぐすぐ」
突然変わった呼称に遅れた反応をしつつ、若菜も微笑んだ。
可奈子については、もう少し長期戦が必要だとうと思ってはいるが、未だ退部する気配は無さそうなので、ある意味では勝っていると壱は思っていた。どんなに彼女が心に何かを抱えていようと、在籍している間は勝負になる。
「じゃ、始めましょうかね。若菜嬢からどうぞ」
「えええ」
「どうせ順番回ってきたらやるんだからー」
「そ、そうだけどでも、心の準備……」
「そんなオロオロしなくても……じゃあ咲さんは?」
「はいオーケーです」
「見習いなさい柴崎先輩」
「……うぃっす」
顔を隠しながらぶつぶつと何事か不貞腐れる若菜に苦笑いをしつつも、咲はフルートを構える。
「じゃあ咲さんどうぞ。何でもいいし、適当に吹いて見せて」
「はい」
今までのような騒がしい程の元気ではなく、力強い、低い声の返事。
そこから、咲のフルートが始まった。
流麗に、という言葉は使い古されているだろうが、これこそ麗しい旋律の流れだと壱は素直に思う。キツすぎず、緩すぎず変わるトーンは思わず息を止めるほどにテクニックに満ち、歌う鳥のようなという比喩と共に挙げられるフルートという楽器のスペックを、存分に引き出していると言えた。
細かい瞬きを何度もしながら、一生懸命さの伝わる奏法で、咲はどうにか一曲を終えた。長い長い溜息を吐いて、にこりと笑う。肩で息をしているのが中々に微笑ましかった。
「以上、です」
「お見事。ねえ先生?」
「そうね。前聴かせて貰った頃より、全然上手になってるわ」
「でしょー?」
「うん、びっくりした。咲ちゃん凄いねえ」
南教諭と若菜の絶賛に、短い襟足を落ち着かなさげに払いながら、咲はにこにこと微笑を湛える。
「さて」
「へぅ」
壱の言葉に、若菜はビクリと体を縮みこませる。
「何その声。萌やす気?」
「そ、そんなつもりは」
「まあまあ。これでどんなにド下手でも、若菜嬢が外れたりする事なんてないし。好きにおやりよ」
「が、がっかりしないでね? わたし本当に下手だよ?」
「しないしない」
「じゃあ、失礼します……」
悲壮感を目いっぱいに漂わせて、若菜はマウスピースに唇を添えた。