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「おっはーユッキー」
「うっさいユッキー言うな」
「1時間目何だっけ」
「物理」
「あー、朝からダルいね」
「今のが朝の挨拶か、お前ら」
龍一は突っ込みもこなすのか、と感心しながら席に着く。
「ユッキー、一応お耳に入れておきたい事が」
「何?」
「うん、今日は噂の1年生が登校してくる日なのさ」
「……そ」
「そ。どんな気持ちかなぁ、遂に始まった高校生活、そしてブラスバンド部。おはようございます! と元気良く現れたのに、人居ないってどんな気持ちかなぁ」
「うるさいなぁ……」
「という所までシミュレートはしたんで、後は任す」
それだけ言って話を切り上げると、ユキは困ったような顔をする。それすらも心苦しいながら受け流し、授業の準備。
相変わらず滅茶苦茶な進度に唖然としながら眠りを堪える事約4時間、昼休み。
「龍ちゃん、鶴岡さんてご存知?」
「ん? ああ、あの幼女」
「俺が今まで何度も思い浮かべかけてはマズいだろうと思って伏せてきた言葉をいともたやすく有難う」
「まあそう興奮するな。で、鶴岡がどうしたって?」
龍一は鞄から弁当箱を取り出しながら、話半分といった風体で会話を繋ぐ。真面目なのか不真面目なのか解りづらい男だった。
「うん、クラスはどこかなと」
「Fだったと思うぞ。進学だし」
「頭良いんだ」
「ものすごくな」
「でも問題起こしちゃった」
「そうだな」
やはり龍一も知っているのか、と内心頷いた。
南教諭によれば、楠白高校の吹奏楽部の発表には毎度一部から大きな期待が寄せられているのだという。卒業生の名前があまりに大きくなっている事が原因だそうだが、そもそもジャンルが違うと言わざるを得ない。いくら有名とはいえ、かの卒業生はピアニストだ。
さておき、それだけ有名な事件だという事でもある。見た限り帰宅部である龍一の耳にも入っているのだから、この事件がどれだけ大きな話題になったかは想像する必要も無いと言えた。
「なんだ、お前鶴岡に懸想してるのか」
「いやそういうんじゃないんだけどさ。あんまり好かれてないから、仲良くしたいと思って」
「すげえ女慣れした台詞な、それ」
「そう? まあ、とりあえず同じ吹奏楽部として、もうちょい会話が成立しても良いんじゃないかとね」
「成立しないか」
「しないね。今まで何度か会ってるけど、4、5個しか言葉を聞いてない」
「生理的に嫌われてんじゃね?」
「今すっごい事言った自覚あるのか阿武龍一」
「転校生はロリペディストとかマジ勘弁」
「そんなんじゃないのにー」
「昼時になんて会話してんのよアンタらって人達はー!」
見かねたようにユキがやっと突っ込んできた。このパワーは大変有り難い存在である。
「“スルーちから”が足りんなユッキー」
「そんな怪しい力は要らない」
「臼井のがよく知ってるんじゃないのか、鶴岡については?」
龍一が気軽にそう話を振ると、ユキはむっつりとした顔になって食事に戻った。溜息交じりに、不思議そうな顔をする龍一の頭を小突く。
「駄目よー、ユッキーはお鶴さんの事あんまお気に召さないんだから」
「あ、そりゃそうか」
「だから龍ちゃんに聞いたのに」
「んー、でもあんまり俺もよくは知らないぞ? ただちょいと、体が弱いとかって話ぐらいか」
「そうなの?」
「保健室の住人だ」
「ふーん」
そういえば、可奈子は昨日も保健室から出てきている。確かにすこぶる健康な人には見えないので、体が弱いという話は大いに信憑性があるだろう。
ちょっと考え、壱は席を立った。
「行くのかペドコン」
「ここで行かないのはペドコンだ。行くのがよく訓練されたペドコンだ」
「まったく児童ポルノ法は地獄だぜ」
「よし、行ってくる」
「頑張れ」
龍一にノリ良く見送られ、壱は一路F組へ向かう。
進学クラスとはいえ昼時はどこも同じような騒ぎになっていて、それはF組も例外ではなかった。お陰で気軽に中へ入る事が出来る。ちょっと視線をめぐらせるだけで、可奈子の姿は見つかった。
ぽっかりと、彼女を中心に人が消えている。思わず、頬が引きつった。こんなに露骨なものか。
そしてその露骨な空気は、壱が可奈子に接近した事でより濃度を増した。単に別のクラスの人間が入ってきたという事によるものではないのは、視線の種類でよく解る。不愉快そうな、不機嫌そうな、ともかく敵愾心の一歩手前のようなものばかりだった。
これが、集団の恐ろしさである。皆で渡れば怖くない、というやつだ。恐怖、怒りといった非常な感情こそが人間を最も簡単に突き動かしやすい。
しかしよく訓練された黒沢壱はそんなものに挫けないのだった。
「や、お昼かい」
可奈子の前の席から椅子を引っ張り、どかりと腰を下ろした。可奈子は壱の登場にちょっと驚いた顔をして見せたが、すぐに食事へ戻る。綺麗に整えられた弁当箱を、丁寧かつ上品に口へ運んでいくのだが、そのサイズは体に比例しているらしく、極めて小さい。
「食事中に失礼。話をしようと思って来たんだけど」
「……」
黙々と箸を進める鶴岡可奈子。これには負けそうである。
「えーと、そんなに嫌われてるの、俺?」
肯定されたら最早退路しか無い台詞だったが、これぐらいしか口に出来なかった。たっぷり数十秒置いて、中身はいくつか残っていたようだが、可奈子は弁当に蓋をする。
「物を食べながら、喋るのは下品でしょ」
「あ……そ、そうだよね」
「何?」
早く帰れ、と雄弁に語る双眸に気圧されつつも、なんとか壱は持ち直す。
「うん。今日、部活はどうする?」
「行かない」
「また用事?」
「関係無いでしょ」
「や、そうなんだけどさ……またフルート聴かせて欲しいし」
「嫌」
「またにべもない」
お手上げ、とばかりに両手を開くと、可奈子は席を立った。早足に教室を出て行くが、壱の通常歩行と同等の速度というのが中々に可愛らしい。
廊下に出ると、再びF組は騒がしくなった。楽しそうな雰囲気ではなく、剣呑な陰口がそこかしこで行われているのが丸解りである。溜息混じりにそちらをちょっと見てから、壱は可奈子に向き直った。
「部活、もうやる気は無いの?」
「……」
「勿体無いとか言うと暑苦しいかも知れないけどさ。お鶴さんにゃあれだけのフルートがあるんだし、音楽屋の端くれとして、俺も一緒にやりたいと思うわけよ」
無言で歩き続ける可奈子。ゆっくりついていく壱。
「後輩も入るんだ。今日からだけどね。1年生。楽器は……何やるんだろう? ま、とりあえずこれで丁度5人だし」
「たった5人で、何を?」
バカにしたように笑い、可奈子はやっと顔を向けた。見上げるような首の角度は少女らしいのに、眼差しと表情は世捨て人のように見える。
不意に、壱の腹部を中心として、ずんとした黒く重いものが沸いてきた。久しぶりの感覚に、眩暈がしそうになる。
「いや……5人、だけど、さ」
「……」
壱の異変を感じ取ってか、可奈子の目に興味のような色が混ざった。
「どうしたの」
「なんでもない。うん。なんでもないけど、とりあえず、今日も部活だって事を伝えにね」
「行かない」
「何故に」
「私は、居ない方が良いと思う。そうすれば、5人と言わず、他の部員だって、戻ってくるわ。知ってるんでしょう、全部?」
普段より長い台詞の意味より、若菜の予想が合っていた事の方が、壱には大きかった。
可奈子は、可奈子なりに責任を自覚しているのだ。何故今この場において自身を蔑ろにするような台詞を吐くのかは解らなかったが、自分の立場や、やった事の重み、意味を十分理解している。
なれば、言葉のかけようもあるというものだ。
「今更そんな事言うなら、当時すぐに退部すべきだったと思うけどな」
「……」
「でも今も在籍してる」
可奈子の足が止まる。壱も、ちょっと行き過ぎそうになりながら並び、続けた。
「素直な感想としてね。お鶴さんのフルートに、俺は心底感動した。あんまり好きな言葉じゃないけど、天才だと思った。そういう演奏の出来る君は、やっぱりきっと楽器が好きで、フルートが好きで、それでどうしても辞める事が出来なかったんだと思う。違う?」
「どうでもいいでしょ」
「君はそれでもいいよ。とりあえず、今はね。俺は我侭を言いに来てるだけだから。君のすげえフルートの後ろで楽器をやらせてくれって」
可奈子の演奏の水際立った様を思い出し、鳥肌が立ちかけた。
あのメロディーに、自分も音色を乗せてみたい。それは、壱にとって極めて素直な感情だ。どんな奏者だって、適当で雑な演奏家とは組みたくないものである。高みにある奏者と共に、自分をも高めるつもりで、音楽を楽しみたいと思うのが普通の筈だ。
「勝手ね」
「誠に。だから今日は、とりあえずそれだけ伝えておくよ。俺は、どうしても君と吹奏楽がやりたい。柴崎の若菜嬢だってそう言ってた。あの子は、むしろお鶴さんの心理の方を気にしてて、今更コンクールがポシャったのどうのって事は殆ど気にしてない。そういう人も居るから、君は何も考えずにただ演奏してくれれば良いんだ」
「興味、無い」
「今はそれでいいよ。でもいつか、部活はしなくても、顔を出しに来て欲しい。皆で歓迎するから」
長い溜息を吐いて、可奈子は髪を払いながらきびすを返した。昼休み終了のチャイム。
小さな背中に、色々と背負う彼女を見送って、壱もまた教室に戻る事にした。