5
短縮日課が終わり、通常通りの授業が開始。早くも憂鬱な体を引き摺り、壱はこちらへ越してきて初めて、サックスを取り出した。別段防音設備の整っていないアパート内で吹き鳴らすには聊かインパクトの有り過ぎる楽器が故に、演奏を我慢していたような所すらある。
セカンドバッグにもいくらかの教科書類が入っているので重たい事は重たいのだが、サックスの重量に比べれば持っていないも同然だった。キャリーハンドルを握りなおし握りなおししながら、学校へ。
教室に入ると、流石にその非日常的な形状の箱は注目を集めた。真っ先に、龍一が食いついてくる。
「あれ、黒沢何それ?」
「サキソフォーン」
「お前サックスなんかやるのか。渋いね」
「サキソフォーンだってばよぅ」
「細かいな。よし、一曲頼むよエル・マリアッチ」
「出来るかボケェ。しかもエル・マリアッチは流しの歌手だ」
「あれ、そうだっけ」
「100回見直して来いこの野郎」
「はっはっは」
龍一は豪快に笑い飛ばした。中々話せる男である。
暫し龍一と談笑などをしていると、ユキが登校してきた。壱と目が合い、次いで足元に置かれたケースを見やる。
「おはようユッキー」
「はいはい」
面倒臭そうに片手をひらひらさせ、乱暴に鞄を机に置くと、どかりと腰を下ろした。男前である。
「で、それは何?」
「アルトサックス」
「サキソフォーンなんだろ」
「いいやサックスだ」
「どっちも同じでしょうに、何でそこでモメるのよアンタら」
心配げな顔を作ってのユキの突っ込みにほっとした。この席でなら存分にボケていられそうである。
「そっか、サックスだったのね、黒沢君」
「そうとも」
「ちょっと見せて」
「駄目」
「……なんでよ」
「出しちゃ駄目って校門で先生に言われた」
楠白高校ローカルルールである。
「そんなカタいこと言わずにさ。ちょっとだけ」
「ダーメー。放課後までお待ちよ。来るんでしょ?」
壱がそう言うと、ユキは渋い顔になった。
やはり昨日の態度の通り、ユキはあまり吹奏楽部再開について喜ばしくは思っていないらしい。
不意に出来てしまった沈黙を、龍一が救い上げる。
「なんだ、吹奏楽部はまた活動するのか?」
「俺こそが救世主。人数揃ったんだ」
「へえ。益々持って渋いじゃないか、流しのサクソフォニストが吹奏楽部を蘇らせる! みたいな」
「なんでエル・マリアッチを引き摺り気味なのさ龍ちゃん?」
「龍ちゃん言うな! いいか、絶対言うなよ!」
「帽子常備ね」
「任せろ」
「あー、とりあえず、サックスは見せてくれないって事で?」
横に数光年ズレ始めている会話を無理矢理戻し、微妙な顔でユキが切り込む。
腕を組み、壱は首を振った。
「だから、放課後、音楽室で」
「黒沢君、本気でやるの?」
「勿論。ユッキーにはバカに見えるんだろうけど、俺は何も知らないからね。やれる所までやる」
別段殊更真面目ぶったわけではなく、単純に壱の素直な気持ちとして、そういう言葉が出てきた。
鶴岡可奈子が起こした問題は確かに面倒な事だろう。不信感をユキが抱くのも当然だし、恨み言の1つも、或いは「駄目人間」などという陰口も出てくるのが普通である。
だからこそ、彼女のようなタイプがキチンと復帰してくれれば、これ程心強い味方は居ないのである。何よりも、鶴岡可奈子の顛末を経て、それでも退部届を自主的に提出しなかった人間の1人なのだ。
「ふうん……」
「まあ、とりあえず顔だけでもお出しよ。そうすりゃ俺のフィンガーテクをだな」
「黒沢黒沢!」
「何」
得意のダンディトークに走ろうとしたのを食い止められ、やや不機嫌な自分を作りつつ龍一に向き直ると、耳打ち。
「その、臼井は、そっち方面、全然なんだ」
「……なんだかワクワクしてきたぞ」
「何か、不吉なんだけど」
突然内密な話をし始めた男2人に不信の目を送るユキ。
「とまあ、勘は良い」
「オーケー龍ちゃん。把握した」
「ほんのりムカつくわ……」
何か不愉快な空気を察知し始めているユキを龍一と共になだめ、授業を待った。
昼休みになると、壱はおもむろに立ち上がった。
「黒沢君、学食?」
隣から見上げてくるユキに指摘され、そういえば空腹だった事も思い出した。ちなみに当人は、雑誌片手に持参弁当である。
「……あ、うん。飯もそうなんだけどね。若菜嬢はどこのクラス?」
「A組。階段挟んで反対側。何か用でもあんの?」
「何、ちょっとランチをご一緒しようかなと」
「本気で?」
「まずいのかい?」
「まずいというか……行動力あるなぁ、と。前の学校でも履いて捨てるほど女に恵まれてたとか?」
「ふふん。残念ながらそんな事は一切無いねッ!」
「あ、そ……」
「まあいいや。行って来ます。あと頂きます」
「ああっ」
言いながらユキの弁当箱から玉子焼きを捕食し、小走りに教室を出る。
一般教室錬は会談を挟んで2方向に分かれており、A~Cが並び中央階段を挟んでD~E、所謂進学組と言われる生徒は上のフロアにある教室を使用している。
A組を目指しのらりくらりと廊下を進み、中央階段に差し掛かった所で、忘れようもないシルエットが目に入った。
「おや、お鶴さん」
階段を下りてくる可奈子である。
声に反応し、ちょっと振り向いたが、壱だと解るとすぐに視線を外して階段を下りていった。やはり「お鶴さん」は気に入らない様子である。
仕方ない、と内心彼女に謝罪もしつつ、A組の扉を開けた。
若菜。2人の女生徒と机をくっつけあって、楽しげに食事をしている。
「失礼、柴崎さん」
「はい……あ、黒沢君」
敢えて若菜嬢とは呼ばずに声をかけると、壱の登場に解り易く驚いてくれた。こういうリアクションは、仕掛ける側としても中々嬉しいものである。
「食事中悪いね、ちょいと頼みがあるんだ」
「ええと、吹奏楽部?」
「そうだね」
小声での彼女の返しに頷くと、若菜は友人と思しき2人にごめんねと告げ、席を立った。
こういう場所で語れない程、吹奏楽部の話は微妙な話題なのだろう。廊下に向かう彼女に続き、向き合う。
「えと、何かな?」
「ユッキーの事でちょっと」
「うん」
「いや、何という事は無いんだけどさ。ちょっと頑固になってるから、若菜嬢にへりくだって貰えないかなぁと」
「へりくだ……?」
「来てくれなきゃ死んじゃう! 的なヤツを1発頼む」
「あはは」
笑って、しかし若菜は首を振った。
「必要無いと思うな。ユキちゃんは絶対戻ってくるし」
「あ、やっぱり?」
「まあ、頑固になっちゃってるっていうのは、想像つくけど」
「そうなのさ。今日部活あるぜって言っただけで激渋い顔になってたしね。こう、ソフトめに若菜嬢なら解きほぐしてくれんじゃないかなと勝手に期待したんだけど」
頭を掻きながらそう言うと、若菜は嬉しそうに笑う。何と言っても、彼女はユキの友人で、そのユキに対する壱の気の使い方は、好ましく映るのだろう。意図せず好感度が上がっているのを見ると、若干得したような気になった。
「ふふ、いいよ。普通に誘うぐらいなら、わたしもやろうと思ってたしね」
「そっか、助かる」
「話は、それだけ?」
「あとは飯を一緒に食おうと思ったけど先約が居るみたいなので1人寂しくパンでも貪り食う事にすゆ」
「あ、そんな凹まないで。いいよ、一緒に食べようよ」
「いやいや冗談。じゃ、また放課後に」
これ以上話していると若菜に本当に引き止められそうだったので、早々に立ち去る事にした。いくらなんでも、全く知らない女生徒2人を前に食事を始められる程図太くはないのである。
放課後に向けて適当に腹を埋める為、ダラダラと壱は学食に向かった。