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「ヤァ」
「や、やぁ」
壱が出来る限り爽やかに声をかけて見せると、ユキはまだ驚いたような、或いは納得いかないような微妙な表情で片手を挙げて見せた。
「ユキちゃん、知り合い?」
共に現れた女生徒が、ユキのブラウスの裾をちょっと引っ張りながら言う。
アップに纏めたロングヘア、理知的そうな眼差し、女性の平均よりも高い背。見るからにモデル体型しているその女生徒は、しかし見た目よりも随分とっつき安そうな印象を持っていた。
「あー、うん。昨日ウチのクラスに転校してきた、黒沢君」
「ああ、ユキちゃんのクラスだったんだ」
ポンと手を叩いて「なるほど」を表現してから、女生徒は壱に歩み寄り、片手を差し出す。
「初めまして。柴崎若菜です」
「黒沢壱です」
「あはは、なんで敬語?」
「いや、敬語で振ったのはそちじゃろう」
「あはは」
何かとツボに入り易いのか、若菜はころころと笑う。
そんな様子を微笑ましげに眺めるユキが、ふっと息を吐きながら鞄を手近な机に置き、ちょっと可奈子に目をやってからまた嘆息。
「ユッキー?」
「ユッキー言うな。何よ」
「いや、そのリアクションは何かなと思って」
机の上に座り、肩を竦めて返すユキを若菜は困ったように見、それから可奈子に向き直る。
「あ、鶴岡さん、おはよう」
「うん」
「すげえ、一発で返事を!?」
「え、何が?」
「いや、名前を聞き出すのにも難儀してたんだ今」
壱が苦笑いをすると、可奈子はあからさまに背を向けた。
「こんな調子で」
「ま、初めて会う人だから、誰だって緊張するよ」
「それだけなら良いんだけどな」
「はいはい、待たせてゴメンねー」
会話を打ち切るように、今度は南教諭が入ってきた。とりあえず、と壱も椅子につき、若菜もユキの傍に腰を下ろす。可奈子は、窓辺に立ったままだったが、一番前の席を陣取る事にしたらしく、ゆっくりとした動作で席についた。
空間の場所取りだけでも 人間の心理は見える。
そう言ったのは、壱の兄であった。
「えっと。急に招集かけちゃってごめんなさいね。もう黒沢君は面通し済んだのかしら?」
「なんとなくは」
「まあ、済んでるなら良いんだけど。でね、部活を再開する事になったから、その連絡をしようと思って」
南教諭は努めて明るく語る。本来なら、この机を殆ど埋めるような人数が居た筈だ。それが、現状4人だけである。光景に対して、色々と思う所もあるだろう。
「小枝ちゃんしつもーん」
「はい臼井さん。あと南先生って呼んでね?」
「了解です。で、えーっと、何度見渡しても4人しか居ないんだけど」
そこは、気になっていた部分ではある。5人から部活動というのは認可されるのが通例なので、4人しか居ない今、どうするのかとは思っていた。
「あ、そっか。まだ言ってなかったわね。1年生、1人だけ入る事になったのよ」
「え、そうなんですか?」
「なんて子ですか?」
意外そうなユキと、嬉しそうな若菜のリアクションに、南教諭は頷きながら続ける。
「菱沼さんて言うんだけどね。今はちょっと体調崩してて学校には来てないけど、明日明後日には皆に紹介出来ると思うわ」
「そうなんですか。良かったね、ユキちゃん」
「ん、そうねえ」
あまり気乗りしていない様子のユキを、若菜は目をぱちくりさせながら見やる。壱としても意外な反応だとは思った。彼女はあまり部活の再開に対して前向きではないという事だろうか。
「とりあえず部活自体は明日からね。大きいの持ってる人は手入れして、私物がある人は忘れずに持ってくる事」
ふと可奈子の方を見ると、フルートのケースを机の上に出していた。持ってる、という主張なのだろうか。
「とりあえず以上かしら。まだ何か質問とか」
全体を見渡す南教諭。
背筋を伸ばしてフルートケースをじっと見詰める可奈子、ユキを気にしながら落ち着かない様子の若菜、終始かったるそうなユキ、そして壱。
全く持って見事な統制と言わざるを得ない。
「じゃ、今日はここまで。それじゃ明日からね」
そう言うと、南教諭は困ったような顔をして出て行った。彼女としても、やり辛い事この上ないだろう。
「あ、鶴岡さん帰るの?」
音も立てずに私物を片付ける可奈子を見て、若菜が慌てたように声を上げた。ちらと視線を返し、無言で頷く可奈子に、半笑いで「そう」としか返せず若菜はションボリと肩を落す。
目の前を横切る可奈子に、壱は手を振った。
「また聴かせておくれよお鶴さん」
まるで信じられないものを見るような顔をし、可奈子は早足になって出て行く。お鶴はまずかっただろうか、と腕を組んで1人反省会。
「黒沢君、今のは?」
「ああ。君らが来る前、フルートを聴かせてもらってたんだ。いやぁ、凄いね。死ぬかと思ったね」
「そうだよね。鶴岡さん、すごい上手で」
「でも駄目人間だけどね」
若菜が笑って賛同しかけたが、ユキはそれを遮るように、鼻で笑う。
冷える音楽室の空気。
「ユ、ユキちゃん」
「だってそうでしょ? あれは何も変わって無いと見たね」
「そうかも知れないけど、でも今日だって」
「どうだか。あー、なんかテンション下がった。帰る」
「え、えっと、ユキちゃん、わたしも」
「ごめん、1人で帰るわ」
追い縋る様な若菜にピシャリと言い放ち、ユキは鞄を乱暴に引っつかんで出て行った。
再び冷える音楽室の空気。
「うむ」
腕を組み、とりあえず頷いてみた。若菜がそっと振り返ったので、親指を立ててみせると、疲れたように彼女は笑った。
「根は深いようだね」
「……黒沢君、やっぱ知ってる?」
「そりゃまあ。しかも先生直々に教えてもらった」
「そっか……よく入ろうって気になったよね」
「変?」
「ううん。黒沢君が入ってくれたから、ま部活も動くようになったわけだし。でも、ほら。鶴岡さんの事とか」
言い辛そうに言葉を削りながら喋るのは、若菜の性根の所為だろうと思った。成る程確かに、人を口汚くののしるタイプには見えない。容姿こそ折り目正しいクールな女性といった風体だが、その中身は極めて温厚と壱は読んだ。
「そうだね。とりあえず、その辺が最大の原因なんだと思うけど。でもホラ、俺楽器好きだし」
「……そっか」
「ちなみに若菜嬢は何を?」
若菜は「若菜嬢」呼ばわりに面食らったようだったが、ちょっと微笑み、頷いて口を開く。
「わたしはユーフォニュウム。ユキちゃんはチューバね。で、鶴岡さんが、フルート」
「あのフルートは凄いよね。何度も聴いた事あるだろうけど」
「うん。わたし鶴岡さんのフルート好きなんだ」
「ユッキーは、そうでもないのかな?」
教室の外へ目をやりながら壱が言うと、若菜は苦笑い。
ソロという大任を預かっていながら、突然の欠席。不信感は流石に募るというものだろう。何よりも、それまでの練習を台無しにされたと感じた人間が多かった筈だ。
愚かな事だとは思う。コンクールは確かに大きな目標となるだろうが、コンクールが全てではない筈だ。壱にとって楽器とはただ演奏するべきものであり、相対的な価値観は付随する程度で良いと考えている。だからコンクールの大切さも解るが、本質的な事を述べれば、たかがコンクールの欠場程度で演奏の場を蹴ってしまうのは如何にも勿体無いと思うのだ。
「ユキちゃんは、その。一生懸命だったし」
「そりゃ、誰もが一生懸命だったと思うけどさ」
「うん。だから、余計にね。気を使うタイプだし、周りの人の事考えると、やっぱり簡単には納得出来ないんじゃないかな」
「若菜嬢は?」
「わたしは」
言いかけ、手を体の前でもじもじさせる。言い辛いのか、言葉を選んでいるのか、それでも若菜は頷いた。
「わたしは、それよりも。ブラバンやりたいから」
壱にとって最も嬉しい返答である。一方的に手を取って握手。
「いいね。うん、非常に良い」
「そ、そう?」
「そりゃそうさ。しがらみがあるのかも知れないし、俺は現場に居なかったからハッキリ言ってさっぱり解らないけど、やっぱ根本的に「音楽がやりたい」って思えるのは、吹奏楽部って部活において一番正しい姿勢だと思うしね」
「……ユキちゃんも、本当はそうだと思う。わたしが吹奏楽始めたのだって、ユキちゃんに憧れたような所があるし」
「そうなの?」
「うん」
言って、若菜は椅子に座りなおした。壱も、体を正面に向けて聞く体勢に入る。
「ユキちゃんね、昔はピアノやってて、そこから色んな楽器に興味持つようになったんだって。とにかく音楽が好きなのは、わたしよりもユキちゃんじゃないかな。吹奏楽部に小学校から入り始めて、今に至る、って感じで」
「へえ、意外だな。物腰だけじゃやっぱ何も判断出来んね」
「そうだね。あ、わたしユキちゃんとは小学校から一緒なんだけど、それで、楽器をやるユキちゃんに憧れて、入部したんだ。あんまり上手くはないんだけど」
笑いながらそんな事を言う若菜は、ユキという友人を心底誇りに思っているような口ぶりである。
良い友人なのだと思えた。それは、素直に羨ましい。
「だから、確かに色々あったけど、ユキちゃんだって絶対にブラバンやりたいと思う。あんまり、心配しないで良いと思うよ」
「若菜嬢がそう言うなら、心配しないでおこう。俺よりも、ユッキーについてはよく知ってると思うし」
「うん、安心して」
そう言って、若菜は時計を見上げた。昼過ぎに終了した為に、放課後は随分と長い。
「そろそろ、帰るね、わたし」
「ああ、俺も帰るとするかね」
「じゃ、途中まで一緒に」
「光栄」
「あはは」
また明るく笑う若菜に励まされるような気持ちで、今後の展開に溜息を吐かず、壱は鞄を肩にかけた。