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呟きとメヌエット  作者: camel
トリプルタイムとサキソフォン
3/71

 南教諭に一連の話を聞いた翌日。

 授業は短縮日課で開始した。成る程さっぱり解らない。既にやり終えた部分もあれば、全く知らない箇所が常識だったりする。こういう点は、編入試験の際にある程度埋め合わせが出来ている筈なのだが、壱にとっては既に記憶の彼方であった。

「ちょっと、黒沢君」

 体を揺すられる。どうやら脳が勉強を拒否し、睡眠へまっしぐらだったようだ。

 顔を覗き込むのは、隣に座る臼井ユキ。

「いい度胸してるね。授業初日からお休みなんて」

「かっこいいだろう」

「あー、ホームルームもう直ぐ始まるから」

 ユキがそこまで言いかけた所で、教室の扉が開いた。新田教諭が顔を半分程教室内へ入れる。

「特になし」

 ピシャリと閉じる扉。唖然とするクラスメイト。

「以上?」

 思わず壱が呟いたのを皮切りに、めいめい帰り支度を済ませ、教室を出て行き始めた。なんとも素晴らしい人物が担任になったものである。

「……終わったみたいね」

「いい先生だなぁ、新田先生」

「同感だわ」

 笑って、ユキは席に戻る。おや、と思っている壱の正面から、声。

「黒沢、今日は予定あんの?」

「何、どっか誘ってくれるの?」

「そのつもりだけど」

 阿武龍一。

「ありがと。でも今日はちょいといかねばならん所があるのさ」

「そうか」

「悪いね」

「いや、気にするなよ。転校生は色々あるんだろうし」

 爽やかにそう言って、龍一もセカンドバッグを肩にかけると教室を出て行く。ユキと共に、それを見送った。

「で、ユッキーは?」

「誰よユッキーって。何が?」

「いや、帰らないの? 折角早く終わったのに」

「そうねぇ」

 心底かったるそうに、ユキは机に突っ伏した。極めて軽量と思われる胸部アタッチメントのお陰で、ひどく楽そうな姿勢に見える。

「何、嫌な予定でもあるのかい?」

「嫌っていうんじゃないけど……今更感があるんです」

「ほう」

「黒沢君は? 用事あるんじゃないの?」

「そうじゃった。んじゃ、頑張っておくれ」

「はいよー」

 突っ伏したまま手を振るユキを苦笑い混じりに見やって、職員室へ。

 始業時故か、どの教師も忙しげに動いているが、そんな中超然とお茶を啜る女優を発見する。

「どうも、南先生」

「あ、来た」

「暇そうですな」

「そ、そんな事ないのよ?」

「フッ」

「鼻で!?」

「ともあれ入部届を持参致しました。ご確認をば」

 言って、折鶴をポケットから取り出した。ちょっと南教諭の顔が引きつる。

「……これは、怒っていいのかしら?」

「ネタですって! 本物はこっち!」

 今度こそ、4つ折にした入部届を取り出す。顧問が「賭けている」とまで言った部活の入部届で芸術を披露する程、壱も愚かではない。

 さっと目を通し、嬉しそうに南教諭は笑う。

「うん、確かに」

「で、今日は召集を?」

「かけてあるわ。先に行ってて、これだけ片付けたら行くから」

 机の上のプリント類を指差しながら、再びお茶を啜る南教諭。無茶な人だ、と戦慄しながら、壱は音楽室へ向かった。

 運動部系は粗方部活が始まっているらしく、元気の良い掛け声が外から聞こえてくる。まだ暖かいとは言い難い4月の始め、半袖とハーフパンツでトラックを駆ける姿には頭の下がる思いである。

 渡り廊下でそんな様子をちょっと眺めてから、音楽室へ。既に鍵は開けてあった。

 中を見渡すと、窓の外を眺める女生徒が1人。やや緩めの制服を着、肩まである黒いウェーブヘアを、風の好くままにさせている。

 手には、小さな楽器ケース。サイズから、ピッコロかフルート辺りと推測。

 なんと声をかけたものか、迷った。壱にとっては珍しい事である。それだけ、どこか現実離れした薄い存在感を、女生徒は放っていた。何よりも、高校生とは思えない程に、小さな体だった。

「や」

 とりあえず、声にしてみた。たっぷり数秒置いて、女生徒は片足を下げ、肩をずらし、首だけを壱の方へ振り向けた。必要最低限の動作でようやく目に入ったその顔は、如何にも幼い。

 物言わぬ雄弁な眼差しが、壱を何者かと観察していた。ともすれば吸い込まれそうな、ぞくりとするような、オニキスの瞳。

「ええと、吹奏楽部……?」

 頷き1つ。会話も終了。これではいけない、と咳払いをしながら、壱は漸く音楽室内へ足を踏み入れた。

「どうも。俺、昨日転校してきたんだ。黒沢壱。難しい方の壱って書いて、ハジメ」

 再び頷き1つ。そして興味を失ったように、顔はまた窓の外へ。

 口内炎でも出来ているのではないかと思う程、言葉が少ない子だと思った。

「名前を聞いても?」

「……」

「ああ、俺吹奏楽部に入る事になったんだ。だから同じ部員。名前ぐらいは、解らないと」

 そこまで言うと、今度は素早い動作で振り返ってきた。壱が傍まで歩み寄ると、ちょっと体を引く。成る程、目測で150センチ怪しい彼女からすれば、180オーバーの自分は威圧感があるだろうと考え、壱も1歩体を下げた。

 それでも下から向けられるまなざし。黒く輝く瞳に、ともすれば当てられそうにすらなる。

「鶴岡……」

「え?」

「鶴岡」

 壱が聞き返すと、咳払いを挟んで、再び名乗る。鶴岡。

「鶴岡? 鶴岡さんか」

「うん」

 ここまでで「鶴岡」「うん」しか彼女の声を聞いていないが、その声もまた、ややハスキーながらも幼さを感じる物だった。後輩なのではないかと思ったが、ブラウスを締めるリボンの色はユキやクラスの人間と同じ赤である。

「下の名前は秘密?」

「……可奈子」

 少し嫌そうに名乗る。自分の名前にコンプレックスを持つ人間は少なく無いと聞くが、可奈子もそうなのだろうかと余計な疑問が思い浮かんだ。

「鶴岡可奈子。なんと呼べば良い?」

 なんでそんな事を聞くのだろうか、と変な物を見るような眼差しが帰って来た。

 しかしその程度で負ける黒沢壱ではなかったのである。

「可奈子」

「……」

 また窓の外へ目。気に入らないらしい。

「つ、鶴岡さん?」

「好きに呼べば」

「……そ、そうスか」

「よく、喋るのね」

「性分なんだ。鬱陶しい?」

「うん」

「歯に衣を着せないタイプか。いくつか聞きたい事もあるんだけどさ」

 鬱陶しいと肯定しているのに無視して話す壱のようなタイプに、対処法を持たないらしく、可奈子は諦めた様子で窓の外を眺めたまま、大きな大きな溜息を吐いた。

「何」

「それは、フルート?」

「そう」

「いいね。女の子はやっぱりフルートであるべきだ」

「そう」

 全く意図の違う「そう」に流されそうになりながら、なんとか食い下がる。何故ここまでムキになっているのかは最早壱にも解らない。

 ふと、南教諭の話を思い出した。

「ひょっとして、君がソロを担当したっていう?」

「……」

「そうなんだ。凄い上手いって聞いてる。良かったら、少し頼めないかな?」

「何で」

「良い演奏ってのは、やっぱり聴いておきたいものじゃない。ソロが出来る程の腕前だっていうなら、やっぱり見事なものだろうと期待もするし、何より俺は単純に音楽が好きだからね。どうだろう?」

 壱を見上げ、手元のケースを見詰め、可奈子はその気になってくれたようだった。

 ケースが開くと、出てくるのは見事な総銀製のフルート。メーカーなどは解らないが、決して安くはないものだろう。良い楽器を選択するというのも、良い演奏家の必要条件だ。これには、期待が上乗せされる。

 窓を閉め、可奈子はフルートを構えた。

 大きな、黒い瞳が閉じられる。途端、今までずっと流れていたかのように、音楽室全体を溶かして混ぜるような、柔らかい音色が響いた。

 横笛の代名詞として名高いフルート。その高い音域は、ともすればブレス負けて掻き消えてしまうという神経質さを持っている。だが可奈子のキスが産む旋律は、そういう不安定さを微塵も醸し出さずに壱の耳に入り込んできた。

 絶句した。前の学校でも、フルートを見事に奏でる部員は居たが、それと比べると、申し訳ないが天と地以上の差が明確に存在していた。愕然とするような、ただただ美しいだけを表現し続ける、鶴岡可奈子の唇と指先は、さながらそれも含めてフルートという楽器のようだった。

 思わず首を振る。これには、驚いたという言葉すら当てはまらない。想像を絶する、或いは想像もつかない、全く住む世界の違う人間の所業だった。

 それが、不意に止んだから、壱は転びそうになった。

「あれ、どうして」

「……」

 疑問には答えず、可奈子はさっさとフルートをケースに戻す。何か気に障ったのだろうかと思ったが、直後に音楽室の扉が開き、それが原因だったのか知った。

 別の部員だろうと扉を注視していると、見知った顔と、知らない顔が1つづつ。

 成る程それでか、と得心いったような気持ちで、壱は入り口で驚くユキに、手を振った。

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