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一通りの顔見せめいた初日のホームルームが終わると、壱は校内を少し歩き回ってみようと決めた。まだ解らない場所が多すぎる。
楠白高校は大きく分けて2つ、一般教室棟と特別教室棟に分けられる。各階に設置された渡り廊下を経て、その2棟を行き来する構造だ。一般教室棟は職員室や校長、理事長室等の特別室から各学年ごとの教室が並び、特別教室棟は化学室、音楽室等から文科系部室、最上階は体育館という構成。
成る程と頷きながら辺りを見回し、「音楽室」というプレートを漸く発見した。まさか始業式初日から部活はやっていないだろうが、とりあえず場所を確認出来ただけでも十分である。
「あ、黒沢君」
この学校でこうも気安く自分を呼ぶ人物といえば、今朝方の青少年フェイタル・ボディの持ち主以外には居ない。
振り返ると、やはり南教諭。
「どうも」
「こんな所に居たの。教室に居ないからバックレちゃったのかとばかり」
「いやそんな事はしないっすよ。つーか先生こそなんでこんな所に?」
「私の担当は音楽だからね。色々と雑務をするにもこっちに用が有るのよ」
言いながら親指を音楽室のプレートに差し向ける。
「で、黒沢君は探検?」
「正に」
「丁度良かった。今朝の続きを話したいんだけど……」
「ふ、2人だけで?」
「……ついついそういう言葉が出ちゃう子なのね」
「何ですかその痛々しい目は」
「まあ、はい。何の期待にも応えられないけど、どーぞ」
呆れたように笑いながら、南教諭は鍵を開けた。
所謂音楽準備室なのだが、以前の学校同様になんとなく埃っぽい。楽器の保管はそれぞれまともにやっていそうなのでこれでいいのかも知れないが、こんな状況で仕事をする南教諭に聊かの同情は沸いた。
「適当に座っちゃって」
「失礼します」
「うーんと、どこから話そうかな。あ、解ってると思うけど、私は吹奏楽部の顧問をしてる」
「やはり」
デスクに向かう椅子に腰掛けながら、南教諭は顎に指をやって首を傾げてみせる。こうすると、不意に幼げに見える辺り、男子生徒の夜のお供となっている可能性はかなり高いと壱は読んだ。いくらなんでもフル装備すぎる。
「黒沢君?」
「はい?」
「はい? じゃなくて。どしたのボンヤリして」
「電池切れです」
「今朝からずっと思ってたけど面白いね、黒沢君」
「なんか軽くバカにしておられます?」
「そんな事。そういうね、明るい所とか、場を和ませられる所とか、才能だと思うから」
ね、と笑う南教諭に、軽く壱も笑い返した。そんな才能があれば、もう少しまともな返事の1つも出るだろう。
「いい加減話そうか。吹奏楽部について」
「なにやら問題があるようで」
「うん。というか、廃部直前なのよね」
「ワオ」
あっさりと言ってのけるのには中々驚いた。廃部というのはシャレにならない。
「人数が足りないのよ。3年生は引退しちゃったし、残ってた2年生も殆どやめちゃって」
「何故ですか」
当然の疑問を壱が返すと、南教諭はううん、と考え込む。言い出しづらい事のようなので、ゆっくり待つ事にした。
言葉を整理し、考え考え話し始めたのはきっかり5分も経った頃である。
「ええとね。例えばだけど……黒沢君が吹奏楽部に入ってるとするじゃない」
「はい」
「それで、みんなで練習して、さあコンクール。今まで頑張ってきたんだから、きっと良い成績が残せる。そう意気込んで、臨んだ当日。ソロを担当していた子が、来ない」
「ふむ」
「待てど暮らせど来ないのよ。家に電話してみても繋がらない。もうすぐ自分達の番。でも、ソロが居ないんじゃ話にならない」
「でしょうね」
「その子はとても上手な子。皆、彼女の人格はともかく、腕前は心底認めてた。天才って言葉も、抵抗無く当て嵌められるようなタイプでね。だから、ソロを任せたいとも思ったし、その子も最後にはソロを引き受けてくれた。嫌々ではなく、その子にも当然やる気はあった」
例えば、で切り出した話にしては具体的過ぎるので、要するにこれが吹奏楽部に起こった「問題」の発端なのだろう。椅子に座りなおしながら、また壱は頷き返した。
「けど、結局連絡はつかなかった。それで、棄権する事になったわ。3年生にとっては最後のコンクールだったのに」
「キビシイでしょうな、色々と」
「そうね。翌日、皆その子に食って掛かった。何故来なかった。何故連絡の1つも寄越さなかった。でもその子は黙して語らず、結局他の部員……3年生は引退だから、2年生と1年生は、諦めた」
「諦めた?」
「やめちゃったのよ。こんなのと一緒に、部活なんてやってらんないって」
「はぁ……」
なんともありがちな展開ではあるが、理解が出来ないとは思わなかった。
3年生は引退だったとはいえ、その3年生と深い関わりを持っていた2年生の中には、先輩に同情して苛立つ者も居ただろうし、このまま続けても、また次のコンクールで同じような事態になりかねないとも考えるだろう。
さらに言えば、「人格はともかく」と限定した南教諭の口ぶりから、そのソロを担当した生徒には人格面で問題があるのかも知れない。天才という表現へのやっかみも、少なからずあっただろう。そこへ、この身勝手さである。
とはいえ、短慮だとは思った。本当にやりたければ、続けられる筈なのである。どうにも、壱にはやめる理由としてソロの生徒が祭り上げられたように感じられた。
「それで、今は誰も?」
「ソロの子は、やめなかった。あと2人の生徒もね。1年生の入部に期待したんだけど、それも無くて」
「無かった?」
「うん。いつも、楠白高校の音楽系部活動のコンクールには、かなりのお客さんが来るのよ。それに出られなかったものだから、新入生にも思う所があったのかも知れないわね」
「その、2年生が手を回してる可能性は?」
「……」
「無きにしも有らず、と」
「でも、そんな事は」
「いや、先生には言い辛い事でしょうから。うーん、しかしヤヤコシイ事になってるんですねぇ」
腕を組み、背もたれに体を預けながら、壱は溜息。南教諭も、それにつられるように大きく息を吐いた。
2年生の圧力があったとして、その程度で入部を諦める新入生というのも聊か面白いものがある。もとより、そんな下らない事に頭を回す2年生が噴飯ものだった。
だが、根を見ればその「ソロの生徒」こそが大きな問題であって、それをどうにかしない限り壱も同じ憂き目にあいかねないだろう。
「だから、実質今在籍してるのは、3人ね。ソロの子、ユーフォニュウムの子、チューバの子。黒沢君がサックスで入ってくれれば、とりあえずブラスアンサンブルとしての形は整うんだけど……」
区切り、心配げな顔を向けてくる。フェティッシュだった。
「どうだろう? 黒沢君、こんな話を聞いた後でも、やってくれる?」
「うーん」
「私は、この部活に賭けてる。皆で一緒に演奏をする事の凄さとか、美しさとか、そういうものって君達ぐらいの年齢にこそ知って欲しいものだから。だから、お願い。それこそ、黒沢君が入ってくれるなら、どんなお礼だってするわ」
「!?」
どんなお礼だってする。
スーパーモデルがごとき女教師から、どんなお礼が迸るというのか。
「ど、どんなお礼も?」
「えっ、あ、うん?」
「何故疑問系か。どんなお礼でもして頂けると今あっしの耳にはズビシと届きましたが」
「人格変わってるよ黒沢君!」
「やりましょう」
立ち上がり、壱はマッスルポーズを1つ。鬱陶しい事この上無さそうな顔で、南教諭は見上げてくる。
「……私、早まった?」
「いや、冗談ですけど」
「ほ、本当に?」
「ええ。やるからにはマジメにやりますよ。生憎俺はそういうしがらみとか知りませんからね。とりあえず入っちゃうぐらいはします。そんで、上手くいくようにも頑張ります。どこまで出来るか解りませんけど」
「本当に、やってくれるのね?」
良かった、と南教諭は心底嬉しそうに胸を撫で下ろして笑って見せた。成る程、美人とはこういう時に得なのだなと思う。
「じゃあ、これ、入部届。明日の放課後には、召集かけるから、また音楽室に来てね」
「解りました。今般の約束、ゆめゆめお忘れなきよう……」
「なんでそんな邪悪な物言いなのっ」
「ハハハ、こやつめ」
「解らない……黒沢君がさっぱり解らないわ……」
存外ノリの良い顧問と歓談などしてから、壱は帰路についた。
今後どうなるか、楽しみでも不安でもあった。