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制服に袖を通す。
前の学校では学ランだったが、ブレザーというのも中々新鮮で良いものだと思った。何より楽だ。あの首周りを中心としたカッチリ感が無いだけで、こんなにも違うものかと感心すらする。
そんなどうでも良い所への感動を自ら微笑ましく思いつつ、盛り上がり体質な事を自覚した。
転校初日。
家族の尽力によって、水準のアパートを借りる事は出来た。高校生の身空で1DKというのは、中々に贅沢だと思う。女連れ込み放題だなと腐った事を仰っていた兄の顔を思い出し小さく吹き出してから、玄関の扉を開けた。
少しだけ早い登校だが、部活動等もあるのか同じ制服の生徒の姿もちらほらと見える。それぞれ着こなした姿と自分の卸したてを見比べてなんとなく照れ臭いような気になりながら、一路学校へ。
いくつか理由あっての転校だったが、その最たるものは尊敬する人間の母校だという事である。たったそれだけで、と人は言うが、自分――黒沢壱にとっては大きな大きな意味を持つのだ。ドラマの撮影に使われた場所を聖地としてファンが訪れるが如く、壱もまたそういう気概があって転校してきた事を否定しない。
まだ肌寒い春先、桜もぼちぼち咲き始めた通学路。
自動車に追い抜かれながら進める歩みは、思いの他軽い。自虐的な気分も有るには有るが、ともあれ暗い顔ばかりもしてはいられない。
よし、と気合を入れなおした。校舎が見えてくる。自分の通っていた古臭い建物とは違う、綺麗でスタイリッシュな建造物は、パンフレットなどを見た通りで心が躍った。
校門を抜け、編入試験以来の昇降口を潜る。職員室の場所も記憶しているので、迷わずに進んだ。
「失礼します」
やや小声で呟きながら、職員室へ入室。何人か教師が顔を上げたが、すぐにまたデスクワークへ戻ってしまい、どうしたものかと思っていると、背後から声。
「どうしたの君?」
女性。振り返ると、そこはおっぱいだった。
心を落ち着けて再認識。そこには、大変なナイスバディをを持つ女性が立っていた。柔和な表情は大人の女性を感じさせつつ、しかし微笑んだ口元を中心に若々しさも感じさせる、アンビバレンツなビューティフルスーパーモデルが如し存在。
「ああ、君かな、黒沢君。今日転校の」
「は、そうです」
「そっか、良かった。私は南紗枝といいます。担当は音楽。あと、黒沢君の案内ね」
だというのに、このモデルさんは教師だと名乗る。壱は戦慄した。戦慄してから、紳士を演じる事にした。
「これは光栄な。改めまして黒沢壱ですミス。本日はお日柄も実りも良く」
「あー、ええと……職員室だから一応静かにね」
苦笑い気味に肩を竦めて見せる南教諭の視線に釣られて職員室内を見渡すと、顰め面の教師と笑っている教師の半々。知った事ではなかった。今の壱にはこのパラダイスこそが最高に大切なのである。
「で、僕をどのように導いて下さるのでしょうか先生」
「うん。とりあえず、ここじゃ何だから場所変えようか?」
「つまり2人きりに……? やだな、早速そんな」
「うん早く行こうね」
身もだえする間も与えず、南教諭は笑って壱のブレザーの裾を引っ張った。強敵である。
職員室を出て階段を上り、どこへ運ばれるのかと思っていると図書室に辿り着いた。成る程、この時間なら誰も居ない場所としては適当である。
「さてと。改めて、楠白高校へようこそ」
「お邪魔します」
「あ、フツー……」
「いや、いつまでも壊れてたら話が進みませんし」
「理解力があって先生うれしいわ。じゃ、ちゃちゃっと説明しちゃうからね」
そうして、南教諭は話を始めた。
壱のクラスと、その担任の名前。てっきり南教諭が担任だと思っていたのでそこはガッカリである。続けて4月中の行事や中間テストの開始日、教科書を始めとした必要教材の回収場所等の説明。
「テストまでそんなに時間無いけど、大丈夫かな?」
「どうでしょうねえ。何しろ進度が違うでしょうし」
「まあ、ね。でも成績、良いじゃない。楠白だって決して偏差値低く無いのに、編入してくるぐらいだし」
「あれは色々と奇跡でした。そして地獄でした」
「そんな遠い目をするほど……」
「ま、さておき、俺がどう嫌がっても試験は始まっちゃいますしね」
「言えてるわ。じゃ、とりあえず以上で必要な説明はオシマイ。何か質問は?」
「先生の」
「私に関する質問は受付ませーん」
「なんだよもう!」
椅子から転げ落ちながら駄々をこねる壱。南教諭は苦笑いだ。
新品のブレザーについた埃を払い、咳払いをしながら再び着席。
「お帰り」
「戻りました」
「じゃ、質問は無いって事でいいのかな?」
「あー、部活動の事なんですけど」
壱がそう言うと、南教諭の目が輝いた。美しい。
「部活、何やるの!?」
「急にテンションたけえ!?」
「いいから! 何! 吹奏楽部!?」
「あ、はい。まあ、その、前の学校でもやってましたし……」
自分よりテンションが高い人間が居るとやや萎縮するのは人の常である。
が、南教諭はそんな壱を逃がさない。
「パートは?」
「サックスです」
「やる気は?」
「過剰に」
「入る?」
「先生の中に?」
「……」
「すいません怖いんでそんな顔で見詰めないで下さい……」
美人の怒った顔は取り分け怖い、という兄の呟きを思い出した。
「ええと。はい。吹奏楽、やろうと思ってます」
「良かった!」
「は?」
「あ、こっちの話……でもないか。それはまた、放課後にでも説明するわ。もう少ししたら始業式だから、それまで前の学校の話でも聞かせてもらえない?」
ちょっと眉が動くのを、壱は自覚した。それを気取らせないよう、頷いて、なるべく自分を中心とした吹奏楽部での出来事を、ぽつぽつと語る。歴や、好きなジャンル、テクニック的な話だ。それでも、南教諭は喜んで聞いてくれたのが、苦笑いを誘った。
始業式の間、壱は職員室に待機していた。てっきり自分も参加するものかと思っていたのだが、考えてみれば居場所が無いのである。
ぼんやりと30分近い青春を消費した頃、南教諭の案内で教室へ。「2-E」と書かれた教室の前には、気の抜けた中年の男性が立っていた。
「先生、彼が黒沢君です。黒沢君、担任の、新田先生」
「どうも、宜しくお願いします」
無精髭がまたやる気の無さを醸し出しているが、不思議と内面から力が漲っているような男だと思った。こういう人間は、父親以外に殆ど知らない。
「こりゃどうも。じゃ、後は俺が引き受けますんで」
「はい、お願いします。じゃあ黒沢君、放課後にね」
言い残し、南教諭は去っていく。ヒップもまたワンダフルであった。
「なんだ、南先生と禁断の愛か?」
「え、流石に早くないっすか?」
「俺も無理があるとは思う。まあいい、とりあえず、行くか」
新田教諭に背中を叩かれ、並んで教室へ。ざわめいていた教室が、一気にシンと静まり返る。
集まる視線また視線。人によっては耐え切れないほどのプレッシャーになるのだろうが、壱はやや快感だった。自覚のある変態である。
「お、知ってる顔も結構居るな。俺が今年のお前らのラスボスこと新田だ。宜しく頼む」
そこかしこで、笑いが出る。この物腰で笑いを取りに行くというのは、中々良いキャラクターだと思った。
「んで、お前らがさっきから気にしてるこの大男が噂の転校生だ。ほれ、自己紹介」
「あ、はい。黒沢壱です。よろしくお願いします」
「地味な自己紹介だな。まあいいや、拍手」
喝采と言わんばかりの拍手が沸き起こり、流石に照れ臭くなる。
「んじゃ、黒沢は後ろの席な。デカいし」
「了解しました」
机の間を通る途中、男子生徒に「よろしく」などと言われながら手を出されたので、ハイタッチなどを返しつつ最後尾へ。
隣の席は、少しだけ赤い髪の快活そうな女子。
「や、よろしく黒沢君。私は臼井ユキ」
「よろしく」
言いながら握手を求めて手を出すと、ちょっと躊躇ってからユキは笑顔で握り返してきた。
「よう、俺は阿武。下は龍一」
前の席から、男子生徒。アーティスティックな坊主の似合う、三枚目そうな男だ。同じように握手を交わし、転校初日から恵まれている、と壱は心底思うのだった。