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号砲を待ちながら

作者: 藤沢優希

見上げた東京の空は、蒼く澄んで、とても綺麗だった。


昨晩の雨が空気中の塵を全て洗い流してしまったらしい。

その雲は上空の風に流され、薄まり、消えてしまったようだった。

呆れるほどの蒼だけが、広がっている。


この様子では、走っている最中の日差しはさぞかし強いだろうなと、サングラスを掛けながら、辻洋一は思った。

ビル風の影響もあり、走行中は風が強いだろうから。

風の向きに気を付けて、先頭集団での位置取りを変えていこう。

勝負は後半。

35㎞までに先頭に追いついていければ、ぐっと優勝に近くなるはずだった。


安定したフォームは、疲れてくる後半においても、確かな走力をもたらす。

レースの後半に強いということが辻の強みだった。


グラウンドコートを着ながら、入念な準備体操とダッシュを繰り返す。

まずは速筋を暖めることで、遅筋を徐々にほぐしていく。


周りも、出場参加選手ばかりだ。

緊張が高まる。

いよいよ本番だ。


ストレッチをしながらぼんやりと空を見上げて妙な鼻歌を歌っている奴がいて、辻はなんだかやけにそいつのことが気になった。


そいつを知っていたから。

顔見知りだったから。

今まで何度か、駅伝やマラソンなどの大会で顔を合わせたことがあったのだ。


それは変な曲だった。


いや、曲なのかさえ、定かではない。

なんとなく自由な感じの音程で、ただ適当に音を並べただけのような大胆なリズムだった。

しかし、確かに身体に染み込む様な、そんな不思議な曲。


「小島君」


鼻歌がやんだ。小島周が、辻の方を振り向いた。


「こんにちは、辻さん」


辻はそれに対して手を上げて、挨拶した。


「その鼻歌はなんという曲なんだい?」


小島が首をかしげた。

なんだか少し考え込んでいるようにも見えた。


「――強いて言うなら、いつもの曲、でしょうか」


なんだ、それは。

あいかわらず変な奴だな、と辻は思った。


「勝つ、自信は?」


レース前にこれを訊くのは、挨拶みたいなものだ。少なくとも、辻はそう思っている。


「全然ないですよ」

「――ということは、かなりあるんだね」


小島はかなり性格が悪い、と辻は思っている。


強いランナーならば皆、その性格に一癖あるものだ。

小島は、例えるなら、テスト前に勉強を全然しなかったので自信がないと周囲に言っておきながら、その実、それなりの努力をしていてちゃっかりと優秀な成績をとるような奴だった。


一言で言えば、嫌な奴。

しかし、それは一流に必要不可欠な素質だ。

嫌な奴ほど、駆け引き上手で、勝負強いものなのだから。


「辻さんの方はどうなんですか?」

「まあ、ぼちぼちでんな」


おどけた関西弁で答えた。そんな辻を小島はじっと見据えた。


「――ということは、かなりあるんですね」


どうやらお互い様、ということのようだった。

ニヤリと邪悪に笑う小島を見て、辻は苦笑いした。


辻には、負けられない理由がある。

託された想いがある。

それらは確かに辻を強くするけれども。

しかし、だからと言って、辻が勝てるとは限らない。


辻は、小島を警戒することにした。

この若い男は、少なくとも同じ歳だった時の自分よりは、速く強い。


それは見れば判る。

小島が持つ雰囲気は、強敵のそれだった。


   ■


小島周は、ちょっと舌打ちしたいような、苛立たしい気分だった。


はっきり言って、強敵は井口祐輔だけだと思っていた。


他は眼中になかった。

蛮勇にも似た、その思い込みは若さならではのものだ。

勢いだけで、全てを決めてやろうとする若さ。

それは確かにとても強い力である一方、時に慎重さを欠く。


呆れるほどの蒼天だ。


日差しが強いから、自然、先頭集団のスピードは抑え目になるだろう。

その隙をついて、さっさと序盤から加速して先行逃げ切りの一人旅をしようと思っていたのに――そうした時に、おそらくゴールまでの間に追い付いて来る可能性があるのは井口祐輔だけだろうと考えていたのだ。


辻の存在は想定外だった。


足の筋肉の付き方を見ると、だいぶ走りこんできたようだ。

おそらく、そのフォームはさらに安定性を増し、強くなっていることだろう。


「――先輩、こりゃあ、ちょっと、厳しいかもね……」


思わず、愚痴が口から零れていたらしい。

辻が振り向いた。


「なんか言った? 先輩って?」


小島は辻のことを先輩とは呼ばない。

小島がそう呼ぶ対象はこの世に一人だけだ。


「あ、いえ、独り言なんで気にしないで下さい。ちょっとした恨み言を……」


そこまで言ってから、小島はふっと思いついた。

悪いこと思いつきましたと言わんばかりにニヤリと邪悪な笑みを浮かべて、小島は辻に囁いた。


「実はですね、僕の恋人が『今日の勝負に絶対に勝って欲しい』と泣いて言うんですよ」

「――なっ……」


そんなことを言い出すとは思わなかったのだろう。

辻が目を見開いて驚いた。


うぶな辻を動揺させたようだ。

計算通りだと小島はほくそ笑んだ。

スタートラインに並ぶ前から、既に駆け引きは始まっている。


「――しかし、そういう理由ならば、俺も負けられないからな」

「あれ? 辻さん、そういうお相手いたのですか」


知らなかった。

辻は爽やかな見た目に反してとてもストイックな性格で、女性にも晩熟な感じだったのに。


「俺にだって、好きな人ぐらいいるさ」


辻が、嬉しそうに言った。


「へえ、そうなんですか」


照れて笑う辻を、小島は苦笑を浮かべながら、観察していた。


手強いな、と小島は思った。

辻の様子は浮かれているわけでもないようだ。

精神的にも身体的にも充実しているようだった。


それでも、小島は辻に勝つつもりだ。

日本で最強のランナーになるなら、もう誰にも負けられないのだから。


   ■


井口裕輔がちょっと移動しただけで、人並みが崩れて、道が開いた。


それを見て、苦笑した。

海外と比べて、やはり日本では反応が大袈裟だなと思った。

それとも、母国だから、これで当然なのか。

喜ぶべきなのだろうか。


同じ競争相手なら、倒してやろうと思うのが正しい。

自分ならば、サインを媚びる気になど到底なれないのに。

そう思わない者も多いようだった。

同じレースに参戦する競争相手達から執拗にサインと握手を求められ、井口は内心うんざりしていた。


そんな井口の様子を察してくれたのか、大会スタッフが気を使って先導してくれることになった。

そうなるとサインやら握手やらをいちいち自分で断らなくて良いから、楽だ。

スタッフに続きながら、井口はスタートラインに向かう。


空を見上げた。

雲一つない晴天が広がっている。

日差しが強い。

呆れるほど、真っ青な空だった。


「――呼ばなきゃ良かったかな。日焼けは美容に良くねえからな」


その呟きに気付いて、大会スタッフの一人が振り返る。


「えっ、何か仰いましたか?」

「いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」


特別な招待選手なので、スタートは集団の先頭からだった。

前には誰にもいない。


そっと、屈伸してみた。


右膝の調子は、悪くない。

最後まで、保ってくれればいい。

あと二時間とちょっとだけ保ってくれれば、それでいいと井口は思った。


勝つつもりだ。


井口は、ここ十年ほど日本のマラソン界の第一人者だった。

勝って、優勝して、有終の美を飾るつもりだった。



目を閉じた。


勝つ。


それだけを自分に言い聞かせた。


「井口さん」


すぐ後ろの二列目から声を掛けられた。振り返った。


「今日は、貴方に負けません。オリンピックには僕が行きます」


 喧嘩を売られたことに気付き、苦笑した。


相手の顔は知っていた。一説には、ポスト井口の最有力らしい。


「辻……、と言ったか。顔は知っているよ。まあ、そんなに張り切るなよ。たかが徒競走だ――まあ、ちょっと距離は長えけど」


相手が驚いた顔をする。

井口が名前を知っているとは思わなかったらしい。


随分と自意識の欠けた次世代のホープがいたものだと、井口は思った。


「僕も、貴方達には負けるつもりはないですよ。とりあえず、ここで勝って日本最強のランナーになります。オリンピックに行きます」


辻の隣の若い男がニヤリと笑って、そんなことを言った。

面白いことを言うと井口は思った。

日本最強ランナーか。

随分とローカルなことだ。


でも、世界に羽ばたく最初の足掛かりとしては、それも悪くない。


「ふーん、覚えておくよ」


面白い奴だと井口は思う。


なんだ、日本にはちゃんといるじゃないか。

面白い奴が。

若い力が。


しかし、負けてやるつもりは全くない。


「さあ、始めようか」


視界の隅に、号砲を鳴らされようとするのを見た。


   ■


スタートラインに立つ者は皆、走り続けてきた者達ばかりだ。

来る日も来る日も、息があがり、胸が苦しくとも、走ってきた。

走ることを止められなかった。


或る者は、託された想いを力の礎にして。

或る者は、譲れない想いを最愛のリズムに乗せて。

或る者は、ただ最後のゴールを目指して。


そして、そんな全ての思惑をかき消すように、号砲が蒼天いっぱいに高らかに響き渡った。

果てしなく遥か遠くの空まで。


ランナーたちが一斉に駆け出した。

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