破壊の王 2.4
地下から1階に戻り、リビングの前を通りかかった時、ふいに中から声がかけられた。
「成川君!」
ひょいとリビングを覗き込むと、ソファに一人の女性が足を組んで座っているのが見えた。
「どうかしましたか?」
成川が足を止め、女性に近づいていく。続くように亮平も一緒にリビングへと入っていった。
「木村君たちはまだなのかしら?」
のんびりと煙草を燻らせながら女性は訊いた。ミックスグレンチェックのスカート、脇にシャーリングが入ったニットパーカを着て、首には真珠のネックレス。右手の薬指には大きなダイヤらしきものが光っている。
おそらく外に止められていた赤のローバーは彼女のものだろう。
「少し遅れているようですね。そのうちやってくるでしょう」
落ち着いた口調で成川が答える。
「あら、そちらの方は?」
女性は亮平に気づき、長い黒髪をかきあげるようにして視線を亮平へと向けた。甘い香水の香りがプンと鼻を刺激する。
「こちらは朝比奈亮平さんです。出版社に勤めてるそうです」
「出版社?」
「雑誌の編集です」
亮平が答えると、さらに成川が付け加える。
「朝宮先生のご子息だそうです」
「朝宮先生の?」
驚いたように女性は立ち上がり、ゆっくりと亮平の前まで歩み寄ってきた。「へぇ、あの先生に息子さんなんていたんだぁ」
物珍しそうに女性は亮平の顔をマジマジと見つめた。どうやらこの女性も父のことを知っているらしい。
「あの、失礼ですが、あなたは?」
「私は道場里瑠子よ」
鼻をツンとあげるようにして里瑠子は答えた。その顔に見覚えがあった。
「私の幼馴染です」と成川が言う。
「幼馴染?」
亮平は驚いて二人を見比べた。朝宮から事前に成川のことを教えてもらったが、成川は今年44歳になるはずだ。だが、里瑠子は自分と大差のない年齢に見える。いや、肌ツヤも良く、まだ20代と言われても誰も疑わないだろう。
「ええ。今は……何でしたっけ?」
「成川君ったらすぐに忘れるんだから」
すぐに里瑠子が否定した。「さっきも説明したじゃないの。今は雑貨の輸入販売をする会社を経営しているんです。まったく私のスポンサーのくせにそういうとこはまるで無関心なんだから」
「そうでしたね。失礼」
「ああ――」
やっとその顔を思い出す。「そういえば、以前、雑誌で見たことがありますよ」
道場里瑠子。
モデル、女優、エッセイスト……それ以外にもいろいろな経歴の持ち主で、いくつか本も出版している。最近では確か先月頃に発売された週刊誌に女性経営者の特集があり、そのなかの一人として見た記憶がある。
「おや、朝比奈さんはご存知でしたか? 里瑠子さん、意外と有名なんですね」
むしろ成川が驚いたように言った。
「成川君は世間に疎すぎるのよ。こんな山奥で弟さんと二人っきりで暮らしていれば仕方ないでしょうけどね」
「あの……スポンサーというのは?」
「ビジネスには元手が必要でしょ。だから、以前から成川君にはスポンサーになってもらっているのよ」
里瑠子は微笑みながら言った。
その時、リビングのドアが開き、メイド服を着た若い女性が顔を出した。おそらくさやかの友達の栗原加奈だろう。さやかよりも細身ですらりと背が高く、背中まである長い黒髪が艶やかに輝いて見える。
加奈は亮平たちに小さく頭を下げてから、成川に声をかけた。
「旦那様、花柳様からお電話が入っております」
「花柳君から? わかった」
成川はそう答えて2、3歩歩いてから、ふいに足を止めて振り返る。「ちょっと失礼しますよ。どうぞお二人でご歓談ください」
そして、急ぎ足でリビングを出て行った。
「ご歓談ですって」
里瑠子は可笑しそうに笑いながらソファに座った。「成川君ったら、まるで貴族にでもなったかのようだわ。昔はもっとがさつな性格だったのに。家は人間の性格も変えるのかもしれないわね。あなたも座ったら?」
亮平も里瑠子の前に腰を降ろした。
「道場さんは――」
「里瑠子でいいわよ」
里瑠子が口を挟む。
「それじゃ……里瑠子さんは――」
と、亮平は言い直した。「成川さんとは親しいんですか?」
「そうね。子供の頃からの付き合いよ。同級生。木村君も花柳君もね」
「同級生には見えませんね」
「どういう意味?」
「いや……里瑠子さん、もっと若く見えますよ」
「あら、誉めてくれてるのかしら? 嬉しいわ」
真っ赤な唇でそっと微笑む。その笑みを見た瞬間、首筋にゾワリと何かが這うような感覚が襲い、胸の奥底が熱くなるような気がした。
思わず亮平は視線を外し、話題を変えた。
「里瑠子さんも弟の清隆さんにはお会いになったんですか?」
「ええ、さっき……かわいそうだわね」
里瑠子も表情を暗くする。
「清隆さんのことも以前からご存知なんですか?」
「少しはね。でも、彼は中学を卒業してすぐにアメリカに渡ったから、それ以来ずっと会ってなかったの」
「成川さんは、病気だと言ってましたね」
「そうね。お医者様に診てもらったらいいのに」
「確か里瑠子さんはかつて精神科医として働いていたことがありましたよね」
亮平は里瑠子がかつて、精神科医としてカウンセリングの本を出していたことを思い出した。
「ええ。でも、私には診せてくれないのよ。危険なんですって。もっとも私が精神科医をしていたのはもう10年も前のことだけど……でも、だからってあのままにしておくのも可哀想だわよね。何か良い方法があるといいんだけど」
そう言って里瑠子は口元にそっと指を添え、首をほんの少し傾ける。その少女のような仕草に亮平はドキリとした。
「そういえばさっき電話があった――」
「花柳君?」
「ええ。その方もお友達ですか?」
「そうよ。花柳真一君。あなたも聞いたことあるんじゃない? 最近じゃテレビにもよく出てるみたいだし」
「え? それじゃ花柳って……あの花柳真一ですか?」
花柳真一。
その名前が有名になったのは3年前のことだ。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのIT企業の名物社長が突然、辞任すると記者会見を開き発表した。記者たちがざわめく中、社長は同席していた一人の男を紹介した。『彼が私の後継者です』
それが花柳真一だった。
それ以来、花柳真一の名前は新進気鋭のIT企業の社長として世間に知られることになった。最近ではテレビのコメンテーターとしてもその顔を見かけることが多いく、常に柔らかい口調で主婦層の人気は高い。
「驚いた?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべながら里瑠子は言った。
「ええ……そんな有名な名前をこんなところで聞くことになるとは……」
「じゃあ、もっと驚かせちゃおうかしら」
「え……なんですか?」
「実はね――」
そう言いかけた時、窓の向うから大きなエンジン音が聞こえてきた。
すぐに里瑠子が立ち上がり窓に近づく。
亮平も里瑠子に並んで庭を見る。一台の大きなランドクルーザーが、亮平が乗ってきた中古のアコードの隣に止まる。そして、運転席のドアが開き、サングラスをかけ革ジャンを着た大柄の男が姿を現した。
「木村君だわ」
里瑠子が呟いた。
「あの人もお友達の一人ですか?」
「そうよ。木村隆作君よ。知らない? 出版社に勤めているなら名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」
確かにどこかで聞いたことのある名前だった。
(木村隆作)
その名前を頭のなかで何度も繰り返す。
次の瞬間、それが誰なのかすぐに思い出した。
「木村隆作って……デザイナーの?」
あまりに有名なその名前に亮平は驚いた。
木村隆作といえば、今、日本で最も有名なデザイナーの一人だ。昨年は世界的な賞を次々と獲得し、ほぼ毎日のようにその名前を耳にした時期もあった。東京芸術大学を卒業した後、すぐにデザイン会社を起こし、デザイナーとしてさまざまな分野で活躍している。
木村は車から降りるとサングラスを外し、亮平たちのいるほうへ顔を向けた。彫刻のように彫りの深い顔立ち。右手をあげ、軽く手を振る。亮平の隣で里瑠子もまた小さく胸の前で手を振っている。
(……まいったな)
資産家で大学で助教授をしていた成川正文。女性経営者として有名な道場里瑠子。IT企業の経営者の花柳真一。そして、有名デザイナーの木村隆作。
(まてよ……)
ふと、山口さやかの言葉を思い出す。
――シェフの村上さんと――
ふいに一人の名前が頭に浮かびあがる。
まさかその村上とはかつて東京ファーストホテルで料理長をしていた村上敏文ではないだろうか。
ありえない話ではない。いや、むしろそれが自然のようにさえ感じられる。
自分があまりにも小さな存在に思え、亮平はふっとため息をついた。