破壊の王 8.2
佐伯幸一のマンションは池袋の駅の裏手にあった。
築20年以上は十分に過ぎているだろう。
周囲に立ち並ぶ真新しいマンションのなか、その一つだけが取り残されたように薄汚れた壁を夕陽にさらしている。
エレベーターなどあるはずもない。
亮平は3階まで階段を昇って行った。
303号室の前で立ち止まる。表札はかけられていないが、里瑠子の言葉に嘘はないだろう。
チャイムを押してみるが、壊れているのか何の音も鳴らない。
亮平はドアを小さくノックした。だが、いっこうに人が出てくる気配がない。今度は少し強めにドアを叩く。
「佐伯さん! いらっしゃいますか?」
するとドアが細く開き、その隙間から男が顔を出した。
40歳近いだろうか。頬がこけ、目が窪んでいる。汚らしく無精髭を伸ばし、汚れた白いワイシャツを着ている。
「なんだよ」
男は低い声で言った。どうやらこの男が佐伯幸一らしい。
「佐伯幸一さんですよね」
「あんたは?」
佐伯幸一はドアの隙間から険しい目で亮平を見た。
「朝比奈といいます。花柳真一さんとはお知りあいですよね」
「……知らねえよ」
ボソリと呟くように言ってドアを閉めようとするのを亮平は慌てて押さえた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんなわけないでしょ」
「何なんだよ……おまえ……」
「花柳真一さんが殺されたことは知っていますよね?」
「殺された?」
佐伯の顔に驚きの表情が浮かぶ。「どういうことだ?」
ドアがわずかに大きく開いた。
「知らなかったんですか?」
「誰に殺されたんだ?」
「まだわかっていません。そこで花柳真一さんのことを教えてもらえればと思って……」
「俺はやってない!」
佐伯は顔を歪ませ叫んだ。
「誤解しないでください。別にあなたが彼を殺したなんて言っていませんよ」
「知らない。俺は知らないんだ」
その視点が定まっていない。
(まいったな)
本当にこの男、花柳真一の知り合いなのだろうか。だが、道場里瑠子がこの男のことを教えてくれたということは何か関係があるのだろう。
亮平はさらに声をかけた。
「花柳真一さんのこと知ってるでしょう?」
「知らないって言ってるだろう……助けてくれよ」
いったい何を怖がっているのだろう。まるで今にも泣き出しそうな表情だ。このままではとても話にならない。
「佐伯さん、落ち着いてください。別にあなたを責めてるわけじゃないんですから」
亮平はドアを開いて部屋に入ろうとした。
その瞬間、佐伯の目が大きく見開かれた。
「く、来るなぁ!」
その声に思わず亮平も身体をひく。間髪いれずに佐伯は腕を伸ばして亮平を突き飛ばした。
「さ、佐伯さん」
「か……帰れ! 帰ってくれ!」
そう叫ぶと佐伯は力任せにドアを閉めた。
(なんなんだよ……)
その後、亮平が何度声をかけてみても決して佐伯が顔を出すことはなかった。
* * *
バラバラに散らばったピースが少しずつ集まりつつある。
直感でしかないが、事件を解くため、集めなければならないピースはあとわずかな気がする。あとはいかにそれを組み合わせるかだ。
亮平は薄暗い道を歩きながら、ぼんやりと事件のことを考えていた。
突然、ゾクリと背筋を冷たいものが走った。
(何だ?)
気のせいだろうか、とちらりと後ろを振り返る。
だが、そこには誰の姿も見えない。
左右に立つマンションの窓から漏れる光が薄暗い路地を照らしている。ひんやりと冷たい空気。なぜだかわからないが、その空気のなかにいつもとは違うピリピリとした感覚を受ける。
(いったいどうしたんだ?)
再び前を向きゆっくりと歩き出す。
だが、妙に背後に人に気配がする。しかも、それがゆっくりと自分に向かって近づいてくる。
(何だ?)
ゾワゾワと蟲が指の先から肩に向けて這うような感覚が走る。
もう一度、足を止め振り返る。
何も見えない。何の音も聞こえない。
だが――
それでも、ピリピリとした感覚は一層強くなっていく。
ガサリと背後で音が聞こえた。ふっと振り返った瞬間、一つの影が飛び掛ってくるのが見えた。
次の瞬間、その黒い影に突き飛ばされるように亮平の身体が地面に叩きつけられた。影が亮平の身体の上にのしかかってくる。
「佐伯さん!」
見上げると佐伯幸一が血走った目で亮平を見下ろしている。
「……死ね」
ボソリと呟き、両手を頭上に掲げる。その手に鋭いナイフが握られているのが見えた。
「待て――」
亮平が声をかける間もなく、佐伯がナイフを振り下ろす。目の前に振り下ろされるナイフを亮平は寸前のところで受け止めた。
佐伯の腕を掴み押しかえそうとする。だが、佐伯も腕に体重を乗せ、ジリジリとナイフを押し込んでくる。
「くそ……くそ……くそ……」
目の前でナイフの先端がチラチラと動く。その向こう側で佐伯がブツブツと呟きながらなおも亮平の顔面に向けてナイフを押し出す。
佐伯の手首を押さえながら、亮平は佐伯の顔をじっと見上げた。
目を大きく見開き、額から滲み出した汗が頬を伝わる。
強い殺意。歪んだ表情から、はっきりと佐伯が自分を殺そうという意志が伝わってくる。
ぐっと佐伯の力に耐える。
ひんやりとした風がフワリと頬を触る。
(なんだ……この感じ)
不思議なほどに心が落ち着いている。
目の前のナイフ、これが自らの喉をかき切ろうとわずかずつ降りてきている。それなのにまるで恐怖が感じられない。
そよ風に脇に咲く雑草が揺れる音が聞こえる。
澄み切った空気。
佐伯の背後に美しく輝く月が見える。
ふと、背筋に妙な感覚を憶えた。
全身の毛が逆立つような、ゾワゾワした感覚が頭のてっぺんから足の指先まで一気に走りぬける。
自分が自分でなくなるように身体がフワリと軽くなる。
「死ねぇ……」
歯を食いしばり、佐伯はさらに力を込める。
(こいつ……)
不思議な感情が湧きあがってくる。
恐怖でも怒りでもない。小さな好奇心。表面はヒンヤリと冷めているのに、血が全身を超高速で駆け巡り、身体の奥がフツフツと少しずつ熱くなってくるような奇妙な感覚。
その瞬間――
突如、佐伯の顔が歪んだ。
何かに怯えたような光が瞳に宿る。
ナイフを押し出す力が急に弱まった。
「ひ……」
小さく声を漏らすと、その手からナイフがぽろりと落ちる。亮平の耳元にアスファルトに落ちるナイフの音が聞こえた。
佐伯は仰け反るようにして亮平の身体から離れた。亮平もすぐに身体を起こして身構える。だが、佐伯は何を恐れているのか、足元をふらつかせ、それでも足早に路地の向うへと走り去っていった。
(何だ……?)
肩膝をついたまま、佐伯が走り去った方向をぼんやりと見送る。
身体から力が抜けていくと同時に、カッと全身が熱くなる。
ズキリと左腕に痛みが走る。
そっと手を当ててみると、シャツが切り裂かれベットリと血が滲んでいる。おそらく最初に体当たりされた時、ナイフで切られたのだろう。
足元に落ちているナイフに視線を向けた。
血の付着したナイフ。
なぜ佐伯は自分を襲ったのだろう。そして、なぜ突然逃げ出したのだろう。
その意味が亮平にはわからなかった。




