破壊の王 1.2
弁護士から聞いた屋敷は田原町の駅からわずか5分ほどのところにあった。
高い塀で敷地を多い、まったく中を覗き見ることが出来ない。
(こんなとこにも家を持っていたなんてな)
子供の頃に住んでいた練馬の屋敷はすでに取り壊され、さら地になっていると弁護士は教えてくれた。父が残した財産については何も教えてはくれなかったが、このぶんではもっと他にも土地を所有している可能性がある。
ぐるりとその周辺を歩きながら、その坪数と資産価値を値踏みし思わずニンマリとする。だが、問題はその男が本当に遺産を譲ってくれるかどうかだ。これだけの財産全てをむざむざ譲るとは到底考えられない。きっと譲ってくれるとしてもほんの一部だろう。何とかして少しでも多く譲ってもらうよう交渉しなければならない。
亮平は一度ネクタイを真っ直ぐに直し、大きく息を吸い込んでからインターホンのチャイムを押した。
午前11時。約束の時間ピッタリだ。
ほんの一瞬、間が空いてから返事が返ってきた。
――はい。どちらさまでしょう。
若い女の声だ。
これだけの屋敷なのだ。使用人の一人や二人、いても不思議ではないだろう。
「朝比奈と言います。こちらに桑島という方がいらっしゃいますよね」
――お話は聞いております。今、お迎えに参ります。
抑揚のない声だ。
亮平は腕組みをして門が開くのを待った。やがて、門の脇の木戸が小さく音を立てて開いた。
髪の長い若い女が顔を出す。おそらくさっきインターホンで応対した使用人だろう。それにしてもずいぶん若く見える。まだ10代だろうか。
「朝比奈様ですね。どうぞこちらへ」
女は視線を亮平へ向けると言った。何の感情もない顔つきで亮平を迎え入れる。
(無愛想な女だ)
涼しげな目元に尖った顎。確かに美しいのだが、どこか色気が感じられない。いや、生気そのものが感じられないといってもいいだろう。まるで精巧に出来た人形の顔立ちのように見える。
門を潜ると想像以上に広い庭が目の前に広がった。
庭は綺麗に手入れがされ、つつじや牡丹などの草木が植えられている。門からは御影石が敷かれ、その先に大きな黒い屋敷と白い屋敷が並んで建てられている。
(なんだ……ここは)
亮平は思わずぼんやりとその光景に目を奪われた。
左右対称に建てられた白黒の屋敷、まるで異質な空間に建てられたオブジェのようだ。
「どうぞ、こちらへ」
呆然とする亮平に女が声をかけ、黙って黒い屋敷のほうに向かって歩き出す。亮平はその後について歩き出した。
「君はここで働いているの?」
「はい。水島香織と申します」
水島香織は亮平の問いかけにわずかに視線を向け、抑揚のない声で答えた。
「長いの?」
「ええ」
まるで亮平の言葉を無視するように短く答えてスタスタと足を動かす。
「桑島さんっていうのはどんな人?」
と、さぐりを入れてみる。
「桑島さんならば中で待っています。お聞きしたいことがあれば、直接会ってお聞きください」
あまりにもそっけない返事に亮平はそれ以上聞くのを諦めた。確かに香織の言うとおり、すぐにわかることだ。
玄関に着くと、香織は黒いドアを開きその脇に立った。
「どうぞ」
玄関のドアを潜ると、目の前に一人の男性が立っているのが見えた。頭髪は白く染まった背の高い初老の男性。すでに60歳は過ぎているだろう。
「朝比奈亮平様ですね。お待ちしておりました」
軟らかな物腰で深々と頭を下げる。どうやらそれが桑島という男であるらしい。
「あなたが桑島さんですね」
「はい。桑島正造と申します。どうぞおあがりください」
靴を脱ぐと玄関を上がる。水島香織はまるで亮平になど興味がなさそうな素振りで廊下の奥へと歩いていった。
「さあ、どうぞ」
桑島に促されるままにリビングへと足を踏み入れた。
広いリビング、床にはグレイのカーペットが敷かれ、大きな黒い革のソファが大理石のテーブルを挟んで置かれている。
高価そうな家具に思わず視線を奪われるが、それでも異質とも感じられる屋敷の外見とは違い、ごく一般的な部屋の造りに少しほっとする。
レースのカーテンが外からの光を遮り、わずかな外からの光しか差し込んでいない。そのため部屋のなかは薄暗い。
「どうぞそちらでお待ちください。ただいまお茶をご用意しますので――」
桑島は改めて丁寧に頭を下げると、亮平を残し部屋を出て行った。
部屋を見回しながらソファに腰を降ろす。
(なかなか人の良さそうな爺さんじゃないか)
桑島という男を見て、亮平はホッとしていた。あの男ならば、うまく丸め込んで遺産を譲ってくれるように頼むことも出来るかもしれない。
それにしても――
(いったいどのくらいの遺産が残されているのだろう)
と、改めて思う。
祖父が資産家で株や都心の土地を多く持っていたという話は母より聞かされている。だが、その金額となるとまったく予想がつかない。
この屋敷だけでも億は下ることは、まず無いだろう。
(ようやく俺にもツキがまわってきたらしい)
思わず笑みがこぼれそうになるのをグッと抑える。
その時、ドアが開いて再び桑島が姿を現した。その脇には水島香織がトレイを片手に立っている。
レモンティーの甘酸っぱい香りが漂ってくる。
相変わらず冷めた表情のまま、香織は亮平の前に紅茶を差し出した。そして、儀礼的に小さく頭を下げると黙ったまま部屋を出ていった。
桑島がテーブルを挟んで亮平の前に座る。
「朝比奈様は確か29歳でしたね」
「ええ。私のことを知っているんですか? どこかで会ってますか?」
「いえ、お会いしたことはありませんが先生からお話を聞いておりました。先生のこと、驚かれたのではありませんか?」
桑島は穏やかな口調で言った。
「父とはもう10年以上会っていなかったですから」
そう答えて一口紅茶を啜り、亮平はさらに付け加えた。「あなたはずっとこちらで?」
「はい、すでに40年になります」
その年月に改めて亮平は驚かされた。子供の頃、亮平が住んでいたのは練馬にある古い屋敷だった。つまり、その頃から父はもう一つの屋敷を持ち、二重生活をしていたことになる。
「ここはずいぶん新しい感じがしますね」
亮平は部屋を見回しながら言った。屋敷はつい最近建てられたかのように真新しいように見える。
「5年前に建て替えたのです」
「面白い形ですね。まるで2件の家が鏡に映ったようだ」
「設計したのは大先生です。おそらくあの頃から今日のこの日のことを考えていらっしゃったのでしょうね」
「今日のこの日? まるで私のために建てたみたいな言い方をしますね」
「そのとおりですよ。この屋敷の半分はあなたのために建てられたのです」
(半分?)
妙な言い方をするものだ、と亮平は心のなかで思う。『半分』というならば、あと半分は一体誰のためだというのだろう。『自分たち』ということだろうか。もともと遺産を相続したのはこの桑島という老人なのだから、そう考えても無理はない。
父は初めから自分とこの老人たちが共に暮らすことを望んで、この屋敷を建てたということなのだろうか。
「私のためとは言っても、父はこの屋敷もあなたに譲ったわけでしょう」
慎重に言葉を選びながら亮平は言った。
「形式上のことです」
「それは……どういう意味でしょう?」
「言葉の通りでございます。遺産の相続はただの形式上のもの。たとえ法律上、私のものとなったとしても、実質はお屋敷や大先生の御遺産を私が譲り受けることは出来ません。私はただお預かりしているだけです」
「では……どうするつもりですか?」
ゴクリと唾を飲み、桑島の顔を見る。
「その件ですが、私ではなく若先生とお話していただけますでしょうか?」
「若先生?」
意外な言葉に亮平は面食らった。
「はい」
桑島はそう答えるとすぅっと立ち上がった。「あなた様にとっても、若先生とお二人でお話をするのが一番良いことでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください。いったい若先生というのは誰なのですか?」
だが、桑島はその問いかけには答えようとはせず、小さく頭を下げるとそっとリビングのドアへと近づいていった。
「若先生。どうぞ。そこにいらっしゃるのでしょう?」
ドアの向こう側に声をかける。すると、ドアがゆっくりと開く。そして、そのドアの向こう側から一人の男がふらりと姿を現した。
その姿に思わず亮平は立ち上がった。
白いワイシャツに黒いジャケット。その姿はまるで葬儀の帰りのようだ。何より異様なことに、この薄暗いとも思える部屋のなかだというのに目元がすっかりと隠れる大きなサングラスをかけている。
「やあ、いらっしゃい。君が朝比奈亮平君だね」
男は亮平の前までやってくると、じっと亮平の顔を見つめた。まるで病人のように肌が白い。
「あなたは?」
「この屋敷に住んでいる者だよ」
「『若先生』って呼ばれているみたいですが……」
「ああ。桑島さんと水島さんは昔から私のことをそう呼んでいるね」
男は飄々とした態度で答えた。
「誰なんですか? ひょっとして……父の……」
(隠し子)
その言葉を思わず飲み込んだ。そんなはずがあるわけがない。もし、父に自分以外に子供がいたとしたら、遺産があの桑島という使用人に譲られるはずがない。
「誰……か」
ニヤリと笑う。そして、男はドアの脇に立つ桑島に顔を向けると、出て行けというように右手をヒラヒラと振った。桑島は黙ったまま再び小さく頭を下げると部屋から出て行った。まるで主人と使用人の関係だ。
「ま、座ったらどうかね」
そう言いながら男はソファにどっかと腰を降ろし、足を組んだ。その姿を見つめながら亮平も再び腰を降ろす。
「いったいどういうことです? あなたは誰なんですか?」
自分自身に落ち着こうと言い聞かせ、亮平は再び訊いた。
「さあ。誰なんだろうねえ」
「ふざけないでください」
「そう怒るなよ」
「怒ってはいません」
「ずいぶん不機嫌そうだよ」
まるでからかうように男は言った。
「当たり前です。俺は今日、父のことで桑島さんと話をするために来たのです。あなたとじゃあない。いったいあなたは何なんですか?」
思わず口調が荒くなる。
「話しても構わないがね。だが、本当に知りたいのかね?」
「は?」
「前もって言っておくが、私が何者かを知れば君は少なからずショックを受けることになるだろう。今すぐこの屋敷から出てゆき、父のことを忘れて今まで通りの生活を送るほうが幸せかもしれない。それでも訊きたいかね?」
「……ええ」
わずかに心のなかに躊躇いが生まれた。だが、そんな脅しで全てを忘れることなど出来るはずがない。何よりも今、手を伸ばせば届きそうなところに莫大な遺産が転がっているのだ。
「本当に後悔はしないのだね?」
「後悔などしませんよ!」
それを聞くと男は満足そうに頷き、そして口を開いた。
「いいだろう。君ならきっとそう言うと思っていた。私の名は朝宮圭吾。君の兄だ」