香
登場人物の名前はあえてつけていません。できる限り名前が無くても判るように書いたつもりですが、あくまで「つもり」なので何とも言えず(汗)
今後連載として続けられるようなら名前をつけて書いていきたいと思います。
表現方法などご指摘いただけましたら幸いです。
「何事です?」
誰も居ないはずの自宅で、我がもの顔で寛いでいる後ろ姿へ問いかけた。
「おかえり」
返答になっていない。
振り向き笑みを浮かべるのは、昼過ぎに社で別れた青年。
随分前から来ていたのか。ソファの背もたれ越し、彼の向こう側の見慣れたローテーブルは出かける前の面影もなく散らかり、テレビが忙しなく場面を変えていた。
「・・・何を見てるんですか?」
「おまえを見てる」
質問を変え上着を脱いだ私に向き直り、ぬけぬけとそう言う年若い主は、部屋の入口に立つ私へと嬉しそうな微笑みをくれた。
「くたびれた男眺めて何が楽しいんです?」
見るたびに軽く心拍数を上げるその顔から視線を反らすと、くたびれてるから良いんだ、などという訳が解らない答えが返ってくる。
「だっておまえ、ネクタイを緩めるときに疲れたカオするじゃないか」
言われて、無意識にネクタイに手をかけていた私は慌てて表情を引き締める。
「…疲れてません」
「疲れてるよ」
「そんなことは…」
「あるんだ」
楽しそうな決めつけに、見透かされたようで知らず憮然となる。
「おまえは普段疲れたカオなんて見せないから、だから嬉しいんだ」
視線を戻すと、希少価値があるものを見れたら得した気分になるだろう?などと言いながら彼が立ち上がるのが見えた。
目を、奪われる。
彼にしては珍しいラフな装いに身を包み、こちらへ歩み寄って来る。
けして体格が良いわけではない。けれど、その伸びた背筋や纏う空気は芳香にも似た凛とした気配で私を捉える。
明確な意志を宿した双眸。迷い無く真っ直ぐに見つめてくるそれを愉しげに瞬かせ断定する。
花のように優しげな顔をして、彼は紛れもなく捕食者だった。
「おまえは、とても疲れてる」
昔からこの笑顔に逆らえた例しなど無い。
控え目な清香が鼻孔を擽り、主の指先が頬に触れる。
「・・・では、元気にしていただけますか?」
「おまえはいつも元気じゃないか」
「でも、疲れていますから」
言質を取ったと笑う私の首に、無言で彼の腕が絡む。
吸い込まれそうな漆黒の瞳と、シャツ越しに伝わる体温に、少し狂暴な気分になった。
「こういうの、何て言うんでしたっけ。飛んで火に入る夏の虫?」
互いに距離を縮めながら笑う。
「どっちが?」
「もちろん貴方です」
「私が虫なら、おまえは…」
ケダモノだ、という彼の言葉を封じて会話が途切れる。
主の言葉を遮るとは、秘書失格だな。
横切った理性は彼の吐息に脆くも霧散した。
完読ありがとうございました。