第五話 砕けた剣
醜悪な怪物の巨躯が、いよいよタクトの方へと迫ってくる。その足取りはゆっくりで、余裕綽々といった様子だ。どうやら、目の前に立ちふさがるタクトをなんとも思ってないらしい。タクトはそんな圧倒的な怪物を前に、剣を正眼に構えると覚悟を決めた。
初心者であるタクトのレベルは二十一。それに対して、ミノタウロスの平均レベルは五十前後。このミノタウロスゾンビについてはタクトは聞いたことがなかったが、ミノタウロスに準拠した実力があるならタクトにほぼ勝ち目はない。彼が勝つには、『奇跡』が必要不可欠だ。そこで彼は――。
――やつは完全に油断している。先手必勝だ……!――。
奇跡を起こしうる、灯火ほどのごくわずかな可能性。タクトはそれに賭けた。彼の足が素早く迷宮の床を蹴り、身体が加速する。閃光が宙を貫いた。風を切り裂き、白銀の剣が油断しきっている怪物の醜悪な眼をめがけて走る……!
「ウグオオオッ!」
咆哮が轟き、振るわれる腕。太いのに鞭のような速さで宙を切ったそれは、タクトの剣をたやすく払い飛ばした。事態はほんの一瞬。タクトの剣が眼へと到達する刹那の間に起きた出来事だ。剣ごと上半身をもっていかれたタクトの顔が、青白く染まる。まったく、バカげた反応速度であった。
「チッ!」
タクトは舌打ちすると、素早く後ろへ飛びのいた。彼がいなくなった後を剛腕が通り抜ける。巨大な鋼の塊のごとき拳が、迷宮の床を直撃。ドンという音が轟き渡り、あたりが揺さぶられる。ミシッと石に亀裂が走り、拳の痕が床にくっきりと残された。
床にできた、人が入れるほどのクレーター。タクトはそれに思わず目を見張った。迷宮の床はきわめて頑丈で硬く、並みのモンスターや探索者の攻撃では壊れないようにできている。それを大きく凹ませるなど、一体どれだけの衝撃を加えればいいのか。タクトには想像すら及ばなかった。彼の背筋を、不意に冷たいものがよぎる。
『まずいな、こいつは速さも攻撃力も半端じゃないぞ! このままだと……!』
「わかってる!」
レイの言葉にぶっきらぼうに答えると、タクトは続けて繰り出された拳をギリギリで避けた。彼の髪が拳圧にあおられて、宙を舞う。彼はそのまま重心を上手く移動させると、後ろへと素早く移動した。
そこから一進一退の攻防戦が始まった。ミノタウロスゾンビの攻撃をタクトが交わし、タクトの攻撃をミノタウロスゾンビはその剛腕ではじき返す。両者の間で激しく剣と拳が交錯し、剣劇のような音が規則的に繰り返された。されどしばらくたつとその音の間隔はだんだんと短くなっていき、規則的だった音は不規則になっていく。タクトが押され始めたのだ。
「クソッ、攻撃が読めなくなってきた……!」
『攻撃が洗練されてきている!』
タクトは眼を細めて、いま振るわれようとしている怪物の腕を注視した。当初、とても大きなそれこそ「今からそこを殴りますよ」とでも言わんばかりに予備動作のあった攻撃が、だんだんと洗練されてきている。おそらくミノタウロスゾンビが、威力重視から速度重視へと攻撃の方針を徐々に変えてきたのだろう。このままではあと数十秒もしないうちに、タクトは攻撃が先読みできなくなる。そうなってしまえば、彼に勝ち目はない。彼はミノタウロスゾンビの攻撃を捉えられているわけではなく、その予備動作を見てかろうじて避けているにしか過ぎないのだ。
加えて、彼の体はもうボロボロになってきていた。腕は張り、足も鎖でもつながれているように重い。疲労の限界を超えている身体が、すでに悲鳴を上げていた。ミシミシと骨がきしむような感触さえ、タクトは覚えつつある。彼はもう、戦える限界を何歩も超えた先にいた。
だんだん動きが遅くなっていくタクトと、速くなっていくミノタウロスゾンビ。両者の速度の差は限りなく広がる。そして――
「足が……!」
タクトの足が、突然動きを止めた。そのままフラフラと、自由の利かなくなった身体が倒れていく。ミノタウロスゾンビがその隙を逃すはずはなく、拳が崩れ落ちる身体を追いかけた。タクトの視界を、黒鉄の拳が埋め尽くす。彼にはそれが、さながら死神の物のように見えた。
――死ぬのか? このまま何もできずに……!?――
タクトの腕に、力が入った。永遠のようにゆっくりと流れる時間の中で、白銀の剣が動き始める。淡くも生の象徴のような剣光が、振り下ろされる死の拳めがけて向かっていった。しかし、それはあまりに遅かった。
――動け動け動けェ! もっと速く!――
『速く、もっともっともっとォ!』
タクトとレイの声ならぬ叫びが切に響く。その叫びには、二人の生に対する思いが目いっぱい込められていた。二人の思いにこたえるかのように、剣は徐々に速くなる。最初は這うような速度だった刃が、やがて飛ぶような速さで宙を駆けていく。そして最終的には一条の閃光になって、ミノタウロスゾンビの拳を裂いた。シュッと紅い血が散り、ミノタウロスゾンビはおぞましい咆哮を轟かせる。
しかし同時に、その白銀の光が砕ける。剣もまた、限界を迎えていた。
粉と散った鋼が雪のように降り注ぐ。光を乱反射するそれは虹色で、嫌に美しかった。もはや、抵抗するすべのなくなったタクトはその中で微笑む。死が差し迫っていても、不思議と笑えるものであった。
「完敗だ……。勝てないってわかってても、これはちょっと悔しいなあ……」
笑っているはずのタクトの目から、涙が滴り落ちる。はらり、はらり。次々とあふれてくるそれはとどまることを知らなかった。乾いた床に、顔から落ちた涙がしみる。すでに彼の視界はぼやけて、ミノタウロスゾンビの異形ははっきりとは映らなくなってきていた。
そうしていると、タクトは自分に何か迫ってくるのを感じた。――いよいよ、死ぬのだろう――。そう感じた彼の体は縮まり、眼が閉じられる。だが、彼に訪れたのはなんとも心地よい感触だった。とてもやわらかくて温いそれは、まるで母の手のようだ。彼はとっさに眼を見開きパチパチと瞬きする。すると――。
「炎剣のエリシア……」
涙でゆがんだ視界に、何故か彼のあこがれの人がいた。
動け動けの部分が……エヴァのワンシーンを思い出してしまう。
さすがに、「動け動け動け、動いてよォ!」はやめておきましたが。
追記
登場人物の名前を変更しました。
エミリア⇒エリシアです。
ミリアがいるのにエミリアだとややこしいかなと思いましたので、思い切って変えました