第二話 めざすは天下一!
日が傾き、風が冷たくなってきた黄昏時。ギルドの端に用意されている応接用のスペースは物音ひとつ聞こえない静寂に包まれていた。あまり利用されることのないこの空間は、いつでも静かだ。だが突然、その静かなはずの空間の端にある一つのテーブルから、甲高い少女の声が響いてきた。
「どうしてこんなに無茶したんですか! あれほど無茶したらダメだって言ったじゃないですか!!」
「だって……」
「だってじゃありません! 迷宮の中じゃ何が起こってもおかしくないんですよ! もし死んじゃったら元も子もないんです!」
ミリアは顔を怒りで紅くしながら、勢いよくタクトの探索者カードを指差した。そこには「レベル21」と刻み込まれている。彼女がこうまで怒っている原因はこれだった。
普通、初心者探索者はレベルを一つ上げるのに五日ほどかける。早い者でもせいぜい三日に一つ上げれば上々だ。それをタクトはひと月で二十一まで上げていた。二日に一つ、もしくは一日に一つのペースで上げたとしか思えないまさに常軌を逸した記録だ。それはミリアからしてみれば、自分の命のことを省みていないとしか思えない。
――探索者にとって一番大事なのは何より生きて帰ってくること。財宝を得ることでも強い敵を倒すことでもない――。ミリアは事あるごとに、探索者たちにこういう趣旨のことを言ってきた。彼女が仕事を初めて何年かたつが、迷宮から帰ってこなくなってしまった知り合いはすでに数知れない。それを考えて、彼女はしつこいほどにこう言い続けてきたのだ。
しかし、そうやって注意してきたはずのタクトとその守護霊であるレイがこの様子だ。ミリアは自分の言ったことを無視されたような気がして、沸騰するような怒りを覚える。たまらず彼女は唇をかみしめると、勢いよくこれまでにたまっていた不満や意見を解放した。
「だいたいですね、タクト君は迷宮を甘く見てますよ! 危険と隣り合わせにいることを常に自覚してください! それに生存報告ももっと頻繁にしてくれないと! 二回目の生存報告が初心者迷宮クリアの報告も兼ねてるってどういうことなんですか! もしその間に万が一があったりしたらどうするんです! そうなったら私は……」
勢いよくしゃべっていたミリアの口が、不意に止まった。――あれ、いま私は何を言おうとした? な、なんでこんなことを?――。どうやら勢いに乗るあまり、ミリアは自分で思ってもみなかったことを口にしようとしてしまったらしい。彼女の白い頬がポッと桜色に染まり、視線が恥ずかしげに少し下がる。だがしかしタクトたちの手前、動揺したままでいるわけにはいかない彼女はすぐに説教を再開した。
「と、とにかく生存報告は頻繁にしてください! それにレイさんも、年長者なんですからきちんとタクト君の面倒を見てくださいよ! あなたがしっかりしてないから……」
「……」
「……」
煌々と暗闇の中に星のごとく光る魔力灯。その冷たい白光に、鉄とレンガが絡まり合い螺旋を描いたような摩天楼の群れが浮かび上がっている。その数はざっと目に入るだけでも数え切れないほど。だが、一見無秩序に建っている見えるそれらはちょうど、最も高い建物を中心として円錐状に立ち並んでいた。それは横から見ると、闇夜に光る一つの山のような様子だ。
その山のような建物たちの隙間に張り巡らされた通りは、すさまじいまでの賑わいであった。景気よく街へと繰り出そうとする探索者たちや、夜になっても仕事から解放されない会社員、はたまた道楽好きな金持ちたちの乗り回す奇妙な魔法機械まで実に様々な人や物が通りを走り抜けていく。彼らは魔力灯によってもたらされる昼のような明るさの中、今日もまた騒々しくも快適な都市生活を営んでいた。
迷宮都市はもともと、迷宮目当ての冒険者だけが集まる荒れた街であった。だが近年になって急速に開発が進み、世界有数の巨大都市となりつつある。十年ほど前に、迷宮から産出される魔結晶から従来とは比べものにならないほど莫大な魔力を抽出する技術が開発され、それを背景として迷宮都市全体に魔力をいきわたらせるようなインフラが整備された。その結果、今までは魔力供給の問題からほとんど利用されなかった魔法機械を多用した工場やオフィスが次々と迷宮都市に建設され、今のような状態になっているのだ。
その迷宮都市の中心部からやや外れた裏通りを、タクトとレイは歩いていた。カツカツとまばらな足音が、あまり整備の行き届いていないレンガ敷きの通りに響き渡る。通りの脇の建物から洩れる光に照らされた二人の顔にはやや陰があり、疲れの色が浮かんでいた。二人は今に至るまで、ミリアから数時間にもわたる説教を喰らっていたのだ。
そんな二人の前に、夜だというのに騒々しい声のしてくる小さな建物が見えてきた。紅い三角屋根でレンガ造りの、この街にあるにしてはややクラシカルなデザインのその建物は「ヒナ鳥の巣」と書かれた看板を掲げていた。二人はその看板の真下にある古びた木の扉を開けると、ギシリという音とともに中へと吸い込まれていく。
建物の中は酒場のようになっていた。広いスペースにテーブルがいくつも並べられ、ヒナ鳥こと初心者探索者たちが酒を酌み交わしている。さらに、扉から入ってすぐのところにはカウンターがありそこで中年の酒場のマスターらしき男がジョッキを拭いていた。彼はタクトたちの姿を目にするや否や、くわえていた煙草を灰皿に押し付けて振り向く。
「よう、タクトにレイ。今日は遅かったじゃねえか。その顔だと迷宮はクリアできなかったみたいだな」
「いや、クリアはできたんだよ。ただ、ちょっと……受付の人に怒られちゃって」
「怒られた? 一体なにをやらかしたんだ?」
「その……だな……」
顔をうつむけたレイとタクトは、やや小さな声で話を始めた。二人が交代しながら続けていくその話を、マスターはふむふむと要所要所で相槌を打ちながら聞く。そして二人の話が最後まで終わったところで、マスターは男らしく豪快に笑った。
「なんだ、そんなことだったのか。なーに、気にすることはねえよ。無茶して怒られるのは若いやつの特権だからな」
「……ああ。そ、そうだね!」
「うむ、その意気だぞ。そうでなければお前さんの夢は実現できやしないんだからな!」
「夢?」
「最初に来た時に良い顔して言ってたじゃねえか。まさか、もう忘れちまったのか?」
「ああ、あれのことか。忘れたわけなんてないじゃないか!」
タクトはニコッと笑ってうなずいた。マスターはそれに対して、グッドと親指を上げながら応える。すると、タクトの後ろに浮かんでいたレイが、彼の肩をトントンと叩いた。
「なあ、私はお前の夢について聞いたことがないのだが……。一体どんな夢なんだ?」
「迷宮武闘会で優勝することだよ」
「……迷宮武闘会って、あの三年に一度開かれるやつか?」
「うん!」
タクトは実にすがすがしい笑みを見せた。その顔を見たレイの背中を、冷たいものが滴り落ちる。彼女の顔はうつむけられ、どこか申し訳なさそうな表情になった。
迷宮武闘会。それはこの迷宮都市で三年に一度開かれる、世界最大の武闘会である。これに優勝したものには莫大な額の賞金と、探索者最強――実質的には世界最強――の称号が与えられる。そのためこの大会に優勝することを目標としている探索者はきわめて多い。ただし……
「タクト、私が言うのも何だが……お前が出たら死んでしまうぞ? 迷宮武闘会は毎回、英雄級の加護を持つ超一流の探索者ばかりが出場するんだ。だから私のようなできそこないの守護霊を持つお前では……」
「だからだよ!」
タクトはバンっと勢いよくカウンターに手をついた。レイの肩がピクリと揺れ、動揺が顔に表れる。その一方で、タクトの瞳は澄み切った水のように純粋だった。そして、その眼差しの奥には静かな炎がたぎっている。
「レイさんは、僕がギルドで君を召喚した時のことを覚えてる?」
「そりゃあ、もちろん覚えているが……」
「だったらさ、あの時ギルドの人が小声で言ったことも覚えてるよね?」
レイの顔が不意に下を向いた。その白い頬に、うっすらと陰ができる。彼女は召喚の儀式に立ち会ったギルド幹部の男のつぶやきを、嫌というほど覚えていた。むしろ、覚えていたというより記憶に焼きつけられてしまっていたというべきか。「こりゃ、ダメだ。見かけは良くても中身はまれにみるダメさ加減だ。この坊主も終わったな」という言葉をこれでもかというほど鮮明に――。
「……覚えてる」
「だったらわかるでしょ! 僕は僕自身やレイさんを馬鹿にしたあの言葉を撤回させてやりたいんだよ! だから僕は武闘大会で優勝して、だれにも負けない天下一の探索者になるんだッ!!」