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二人の距離  作者: 久遠 睦


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第九章 鴨川に沈む夕日

早春の河川敷で対話を再開してから、二人は小さな確認を幾度も重ねた。季節が初夏を越え、再び秋の気配が京都の街を包む頃には、互いの希望を言葉にして調整する、新しいリズムが二人の間に根づいていた。二人は「恋人」という看板を掲げなかった。毎週何曜日に会うという取り決めも、毎晩必ずメッセージを交わすという義務も作らなかった。海斗が新しい現場の設計に没頭しているときは、二週間近く会えないこともあった。それでも、取り決めた通り、「元気です」「現場が落ち着いたら連絡します」という短い言葉だけは送った。美緒が陶芸の制作に熱中している時期も、「しばらく土に集中します」と知らせ、数日後には「納得のいく器ができました」という写真を送った。かつての二人であれば、そうした空白に不安を覚えたり、相手の関心が薄れたのではないかと疑心暗鬼に陥ったりしたかもしれない。だが、今の二人にとって、その空白は不信の象徴ではなかった。お互いが自立した一人の人間として、自分の人生を誠実に生きているという確かな証であり、信頼の証だった。

九月の終わり、美緒が参加する陶芸教室の小さな作品展が、岡崎のギャラリーで開かれた。美緒は一週間前に「土曜日の三時に、三十分だけ来てもらえたらうれしいです」と伝え、海斗も手帳に書き込んだ。ところが当日、現場で設備の納まりに問題が見つかり、海斗がギャラリーに着いたのは四十分後だった。終了間際の白い展示室で、美緒は自作の灰青色のカップのそばに立っていた。

「遅れてすみません。連絡するべきでした」海斗が頭を下げると、美緒は反射的に「大丈夫です」と言いかけ、唇を閉じた。「……大丈夫ではありませんでした。来られないのかと思って、残念でした」。声は穏やかだったが、曖昧にはしなかった。海斗は仕事の事情を並べず、「待たせたことと、知らせなかったことは僕の落ち度です。今からでも、見せてもらえますか」と尋ねた。美緒は少し考えてから頷いた。

美緒は、口縁がわずかに歪んだカップを両手で持ち上げた。「失敗だと思っていた形を、最後まで残してみたんです」。海斗はすぐに意味づけをせず、土の濃淡と、指の跡が残る縁をゆっくり見た。「手に取ってもいいですか」「はい」。許可を得てから受け取ると、掌に収まる重みがあった。翌週、別の現場で約束の時刻に遅れそうになった海斗は、分かった時点で短い連絡を送った。美緒からは「知らせてくれてありがとうございます。先に本を見ています」と返った。二人は失敗をなくしたのではなく、起きたあとにどう戻るかを少しずつ覚えていた。

十月の半ば、週末の午後四時。海斗は西陣の事務所で図面を引き終え、鉛筆を置いた。窓の外を見ると、秋の澄み切った高い空が、西の空からゆっくりと橙色に染まり始めていた。海斗はスマートフォンを手に取り、美緒とのトークルームを開いた。そこには何の長文も、気負った言葉も必要なかった。『今、鴨川の丸太町あたりを散歩しています。もし時間が合えば』。送信してから五分後、短い返信が届いた。『ちょうど岡崎を出たところです。橋のたもとへ向かいますね』。過剰な駆け引きも、期待の押し付けもない。ただ、同じ空の美しさを分かち合いたいと思ったときにだけ、そっと扉を開ける。そんな軽やかで心地よい関係が、二人の間に息づいていた。

丸太町橋の東詰、川原へと続く緩やかなスロープを降りると、そこにはすでに美緒の姿があった。テラコッタ色のロングカーディガンに、オフホワイトのワイドパンツ。秋風に髪を遊ばせながら、美緒は土手に腰を下ろし、川面を行き交う鴨の群れを目で追っていた。「美緒さん」海斗が声をかけると、美緒は振り返り、夕日を浴びた瞳を細めてふわりと笑った。「お疲れ様です、海斗さん」海斗は美緒の隣、いつものように握り拳ふたつ分の余白を空けて腰を下ろした。敷物もハンカチも敷かず、直接座った土手の枯れ芝が、微かに衣擦れの音を立てる。

二人はしばらくの間、何も話さなかった。沈黙を埋めるための無理な雑談は、もう必要なかった。東山の上空には、刷毛で掃いたような薄い巻雲が広がり、西山の稜線へと傾いていく太陽が、その雲の底を黄金色から燃えるような茜色へと染め変えていく。川面には夕焼けの空がそのまま映り込み、きらきらと細かく砕ける光の粒子を乗せて、南へと滑らかに流れていた。対岸の遊歩道を歩く散歩の人々、川原でギターをぽつりぽつりと爪弾く学生、遠くで聞こえる京阪電車の走行音。周囲のあらゆる生活の音が、心地よい背景のざわめきとなって二人の周りを包んでいた。「……綺麗ですね」美緒がぽつりと呟いた。「ええ。京都の秋の夕暮れは、本当に息を呑むほど美しい」海斗もまた、西の空を見つめたまま答えた。

言葉はそれだけだった。沈黙を埋めなくても、隣にいる気配は消えない。海斗は、役割を果たすことばかりに追われていた結婚生活を思い出した。今は何かを証明する必要がなかった。ただ同じ夕日を見ている。それだけでよかった。

夕日は朱から深紅へ変わり、川風が冷たさを増していった。美緒は隣にいる海斗を見た。何も要求されていないから安心なのではない。要求や不安が生まれても、二人なら言葉にできる。その違いを、美緒はようやく信じ始めていた。

「……海斗さん」「はい」「一人で部屋にいる時間が、前より温かくなりました」美緒は川面を見たまま言った。「以前は、外から逃げ込んで鍵をかけるための部屋だった。でも今は、帰りたいから帰る場所になったんです」「僕も似ています」海斗は少し考え、言い直した。「いえ、同じではないですね。僕は一人になると、置いていかれた気がしていた。でも今は、美緒さんが離れていることと、いなくなることは違うと分かります」美緒は小さく笑った。「同じじゃなくても、分かり合えるんですね」

太陽が完全に山並みの向こうへと姿を消し、東の空から深い群青色の闇がゆっくりと降りてきた。川原沿いの街灯が一斉にポッと淡いオレンジ色の明かりを灯し、一番星が天空の真ん中でチカリと瞬き始める。周囲の景色が夜の帳に包まれていく中、二人の間に漂う空気は、どこまでも澄み渡り、温かかった。壮大な未来の約束も、形式ばった契約も存在しない。二人の関係性の設計図は、今もなお白紙のままだ。けれど、その白紙の余白こそが、これから二人で紡いでいく日々の、無限の可能性と自由を約束してくれていた。


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