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二人の距離  作者: 久遠 睦


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第五章 本の壁、心の壁

十一月に入ると、京都の底冷えは一段と厳しさを増し、東山の木々は燃え盛るような紅葉の盛りを迎えていた。京都御苑でのあのぎこちない別れから二週間。海斗は美緒に個人的な連絡を入れることをあえて控えていた。彼女の一瞬のこわばった表情、瞳の奥に走った野生動物のような警戒心――それらを思い返すたび、自分が彼女の頑丈に築き上げた防壁を無遠慮に叩いてしまったのではないかという悔恨が、苦いおりのように胸の底に沈んでいたからだ。

週末の土曜日、海斗は仕事用の厚手のトレンチコートを羽織り、岡崎へと向かった。口実はあった。現在手がけている北白川の住宅リノベーションにおいて、施主から「ヨーロッパの石造建築と日本の伝統的木造技術を融合させた書斎を作りたい」という極めて特殊な要望を受けていたのだ。インターネットの検索や一般的な建材カタログでは到底太刀打ちできない、専門的な海外の建築修復資料をどうしても手に入れる必要があった。

冷たい風が吹き抜ける並木道を足早に歩き、「京都ブックスクエア 岡崎」の自動ドアをくぐる。暖房の効いた店内に一歩足を踏み入れると、いつものように上質な珈琲の香りと、無数の本が発する乾いた紙の匂いが海斗の冷えた体を包み込んだ。週末ということもあり、店内は観光客や地元の人々で賑わっていた。観光ガイドを熱心にめくる若いカップル、文芸書の棚の前で立ち止まる年配の男性、カフェスペースでMacBookを開く若者たち。

海斗は中央の吹き抜けスペースへと足を向けた。コンシェルジュカウンターの中に、美緒の姿があった。彼女は白のウールニットに仕立ての良いネイビーのロングスカートを合わせ、胸元にはあの真鍮のネームプレートを光らせていた。髪はすっきりと後ろでハーフアップにまとめられ、背筋を凛と伸ばして端末の画面を操作している。御苑を散策していたときの、どこか儚げで警戒心を滲ませていた私服姿とはまるで違う。そこには、自らの領域で自立し、専門的な仕事に誇りを持って向き合う、一人のプロフェッショナルの姿があった。

「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」海斗がカウンターの前に立つと、美緒はすっと視線を上げ、完璧な接客の笑みを浮かべた。だが、相手が海斗だと認識した瞬間、その大きな瞳がわずかに見開かれ、頬に微かな動揺が走った。「……あ、海斗さん」「こんにちは、美緒さん。仕事中にお邪魔してすみません」海斗はあえてプライベートな親しさを前面に出さず、一人の客としての節度を保った落ち着いた声で会釈した。「いえ……いらっしゃいませ。今日は、お仕事の資料探しですか?」「ええ。北白川の現場で、古建築の修復に関する少し専門的な洋書を探していまして。特に、十九世紀のヨーロッパの石造建築修復における木製ジョイントの納まりと、日本の伝統木構法の比較が載っているような資料があれば見たいのですが」

海斗の具体的な相談を聞いた瞬間、美緒の顔から個人的なぎこちなさが消え、ブックコンシェルジュとしての鋭い知性の光が瞳に宿った。「石造と木構法の接合……とても興味深いテーマですね。単なる現代のデザイン書ではなく、歴史的建造物の保存修復技術の専門書ですね」「ええ、まさにそうです。国内の出版物では概論止まりのものが多くて、できれば海外の学術出版や、現地の修復学会がまとめた図面集のようなものが見たいんです」「かしこまりました。該当しそうな資料が、洋書のアート・建築アーカイブの棚に何点かございます。ご案内しますね」

美緒はカウンターを出ると、迷いのない滑らかな足取りで店内の奥へと海斗を先導した。案内されたのは、一般の客があまり立ち寄らない、天井まで届く重厚な書棚が並ぶ専門書エリアだった。美緒は踏み台を引き寄せると、軽やかな身のこなしで一段上がり、高い棚に並ぶ分厚いハードカバーの背表紙を一本の指先でなぞっていく。タイトルの綴りを確認するその横顔には、一切の迷いがなかった。「……これと、こちらですね」美緒は棚から二冊の大判の洋書を慎重に抜き出し、両手で抱えて降りてきた。一冊はドイツの古建築修復研究所が出版した実測図面集。もう一冊は、イタリアの組積造建築における木製補強梁の歴史的変遷をまとめた論文集だった。「こちらの図面集は、組積造の壁面に対して木製の梁をどのように緊結し、地震や歪みを逃がす構造にしていたかが詳細な断面図で解説されています。海斗さんがお探しの『異素材の取り合い』のヒントになるかと思います」美緒がページを開き、細密な図面を指し示しながら説明する。その解説は極めて的確で、海斗が求めていた要点を寸分の狂いもなく射抜いていた。「……すごいな」海斗は心底から感嘆の声を漏らした。「美緒さんは建築の専門家ではないのに、どうしてここまで正確に僕の意図を汲み取れるんですか?」美緒は少し照れたように視線を落とし、小さく微笑んだ。「本そのものを読むのも好きですが、それぞれの本が『どんな問い』に対して書かれたものなのかを把握するのが、私の仕事ですから。海斗さんが『雨音茶寮』で木組みの納まりについて語ってくださったときの言葉を覚えていたので……きっと、こういう図解をお求めなんだろうなと直感しました」自分の発した過去の些細な言葉を、彼女がこれほど深く記憶し、プロフェッショナルとしての仕事に活かしてくれたこと。その事実に、海斗の胸の奥が温かい感動で満たされていくのだった。

専門書の棚が並ぶ静かな一角を抜け、美緒は海斗を店の象徴的な空間へと案内した。そこは二階まで吹き抜けになった開放的なホールで、高さ七メートルを超える壁一面に、飴色の木製本棚が床から天井まで隙間なく組み上げられていた。何千冊、何万冊もの書籍が整然と並び、柔らかな間接照明に照らし出されたその光景は、まるで知の神殿の壁画のような圧倒的な威容を誇っている。その巨大な「本の壁」の前には、多くの人々が集まっていた。スマートフォンを掲げてポーズを取る若い観光客、本棚を背景に自撮り棒を伸ばすカップル、洗練された構図で記念撮影を終えてすぐに画面をスクロールする若者たち。シャッター音とディスプレイの光が、静寂であるはずの書空間の片隅で小さく明滅を繰り返している。「すごい眺めですね」海斗は大判の洋書を抱えたまま、感嘆の息を漏らして見上げた。「建築の視点から見ても、この高さとスケールで木製架構を組み、壁面全体をひとつのテクスチャとして見せる意図は実に見事です。ここを訪れる人たちが思わず足を止めてカメラを向けたくなるのもよくわかります」

海斗の素直な感想に対し、美緒は本の壁を見つめたまま、どこか寂しげな、冷ややかな色を帯びた微笑を口元に浮かべた。「ええ。みなさん、とても嬉しそうにここで写真を撮っていかれます。この書店のアイコンとして、SNSでも毎日無数に投稿されているんですよ」「美緒さんは……あまりこの壁が好きではないんですか?」海斗がふと問いかけると、美緒はハッとしたように視線を彼に戻し、小さく息をついた。「嫌い、というわけではないんです。ただ……この壁の上に並んでいる本たちのことを思うと、少しだけ胸が痛くなることがあって」「本たちのこと?」「はい」美緒は上層の棚を指差した。「あの上の方に並んでいる本は、高すぎて誰の手も届きません。もちろん意匠として並べられているものですから、ディスプレイとしての役割は十分に果たしています。でも……本というのは、誰かの手で開かれ、ページをめくられ、その人の心に言葉が届いて初めて命が宿るものだと思うんです。誰も読まない、ただ『見栄えの良い背景』として消費されていく何千冊もの本を見ていると、現代の私たち自身の姿を見ているような気がしてしまって」

美緒の言葉は、単なる書店員の感傷を超えて、彼女自身の生き方の根底にある違和感を正確に突いていた。「……外見と、実体、ですね」海斗のその言葉に、美緒は深く頷いた。「世の中の人たちはみんな、誰かに見せるための『完璧なフレーム』を必死に繕おうとしているように見えます。SNS映えする華やかな休日、絵に描いたような幸せな恋愛、世間体通りの結婚。その枠組みの中に自分を収めることばかりに囚われて、フレームの中にあるはずの自分自身の生々しい感情や、本当に心地よい静けさを置き去りにしてしまっているんじゃないかって」美緒は声を少し落とし、胸元に手を当てた。「私、周囲から『どうして彼氏を作らないの?』『結婚に興味がないなんて変わっているね』と悪気なく言われるたびに、ずっと居心地の悪さを感じてきました。彼らにとっての私は、世間が用意した『適齢期の女性』というフレームから外れた、欠陥品のように見えているのかもしれません。でも……見栄えの良い本棚の飾りになるくらいなら、誰の手にも届かなくても、埃をかぶっていても、自分のための言葉を静かに抱えて生きていく一冊でありたい。そう思ってしまうんです」

彼女の告白の奥にある、強烈なまでの純粋さと孤独。海斗は、彼女の言葉の一言ひとことを、自分の胸の深い場所へと染み込ませていった。「美緒さん」海斗は穏やかな、しかし確信に満ちた声で語りかけた。「僕も、リフォームの仕事を通じて同じ過ちを犯してきた人間です。かつての結婚生活で、僕は『夫』という役割や、世間一般が定義する『立派な家庭の形』というフレームを完璧に作り上げることばかりに必死になっていました。どんな間取りにして、どんな家具を揃えれば家族が幸せに見えるか。そんな外側のことばかりを気にして、妻が本当に抱えていた孤独や、自分自身の心の痛みに耳を傾けることを完全に怠っていたんです」海斗は手元の分厚い洋書を愛おしそうに撫でた。「形だけを整えても、中に通う風がなければ、空間はただの冷たい箱になってしまう。人間関係もまったく同じですね。誰かが決めた既存のフレームに無理やり自分を押し込めようとするから、息が詰まり、大切なものを壊してしまう」

美緒は目を見張り、海斗の横顔を見つめた。かつてこれほどまでに、自分の内面にある違和感を正確に言語化し、同じ地平で共有してくれた大人がいただろうか。過去の恋人である亮介は、美緒の静けさを「冷たさ」と呼び、美緒の聖域を「自分への反抗」と捉えた。しかし目の前にいるこの男性は、美緒の抱く孤独をそのままの形で認め、尊厳あるものとして受け止めてくれている。「……海斗さん」美緒の唇がかすかに震えた。「お持ちいただいたその二冊の本ですが、申し訳ありません、こちらは館内閲覧用の保存版でして、販売用の在庫が現在切れてしまっているんです」「ああ、そうでしたか」「ですが、もしよろしければ、出版社からお取り寄せの手配をいたしましょうか? 一週間ほどで届く手はずを整えられます」

それは、ブックコンシェルジュとしての職務上の提案であると同時に、美緒から差し出された、静かで控えめな「次の接点」の合図だった。無理に踏み込まず、互いのテリトリーを尊重しながら、本の受け渡しという客観的な事実を通じて再び出会うための、誠実な提案。「ありがとうございます。ぜひお願いできますか。美緒さんが選んでくださったこの本を、じっくりと事務所で読み込みたいので」「かしこまりました。届き次第、ご連絡を差し上げますね」美緒は伝票に記入しながら、ふっと心からの、曇りのない柔らかな笑みを浮かべた。京都御苑で感じていたあの一瞬のこわばりや警戒心は、冬の寒空の下ですっかり溶け去っていた。二人の間には、力関係の偏りも、過剰な期待の押し付けもない。自立したプロフェッショナル同士として、互いの専門性を認め合い、精神的な深みで結びつく――互いの専門性を認め合うところから、新しく対等な関係が静かに芽生え始めていた。


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