優しい嘘
「ごめんね。嘘をついちゃったね」
震えるような文字で綴られた、その一文を、私は何度も指でなぞった。
白い便箋には、ところどころ薄く滲んだ丸い跡が残っている。
涙だったのかもしれない。
痛みに耐えながら流れた汗だったのかもしれない。
あるいは、何度も筆を止め、言葉を選びながら静かに息を整えた時間の跡だったのかもしれない。
もう確かめることはできない。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
嘘が嫌いだった母が、最初で最後の嘘をついた。
「大丈夫」
それが、母の口癖だった。
何とかなるから大丈夫。
笑っていれば大丈夫。
今日がつらくても、明日はきっと大丈夫。
母は、そうやって生きていた。
小さなことにくよくよしない人だった。
悲しいことがあっても、うまくいかない日があっても、最後には肩の力を抜くように笑って言う。
「まぁいいか」
その言葉には、不思議な力があった。
張りつめた空気が、ふっとほどける。
曇っていた心に、細い光が差し込む。
母が笑うだけで、世界はまだ優しい場所なんじゃないかと思えた。
私が中学三年の春、両親は離婚した。
父の浮気だった。
家の中で交わされる低い声。
聞こえないふりをしても耳に入る、押し殺した泣き声。
食卓に流れる重たい沈黙。
壊れていく家の音を、私は毎日聞いていた。
やがて父は家を出ていき、養育費も払わなかった。
残されたのは、母ひとり、子ひとりの暮らし。
けれど母は、一度も弱音を吐かなかった。
どんなに疲れていても、私の前では背筋を伸ばし、笑っていた。
「大丈夫。ママがいるから」
そう言って、私の頭を撫でる手は、いつもあたたかかった。
だけど私は、その優しさに甘えていた。
思春期の私は尖っていて、
学校で嫌なことがあれば苛立ち、
将来が不安になれば黙り込み、
ぶつける相手を間違えて、母にきつくあたった。
ひどい言葉も言った。
心ない態度もとった。
扉を強く閉め、自分の部屋に閉じこもった夜もある。
本当は、分かっていた。
一番傷ついて、一番苦しいのは母だと。
それでも、素直になれなかった。
けれど翌朝になると、台所から包丁の小気味いい音が聞こえてくる。
炊きたてのご飯の湯気。
味噌汁のやさしい香り。
少しくたびれたエプロンをつけた母が、いつもの笑顔で振り向く。
「朝ごはんできてるよ、まりちゃん」
まるで昨夜のことなんて、なかったみたいに。
その優しさが、痛かった。
眠る母のそばで、小さく呟く。
「……ごめんね」
聞こえないくらいの、小さな声で。
母は、よく働いた。
朝早く起きて家事をして、昼は仕事へ向かう。
帰ってきて夕飯を作り、少しだけ私と話して、夜になるとまた仕事へ出る。
土日も、学校行事がない日はスーパーでパートをしていた。
深夜、静かに帰ってくる足音。
玄関の扉がそっと閉まる音。
疲れているはずなのに、翌朝にはもう台所に立っている。
油のはねる音。
焼き魚の香ばしい匂い。
「おはよう」と笑う母の声。
その笑顔の裏に、どれだけの疲れが積もっていたのか。
あの頃の私は、ちゃんと見ようとしていなかった。
生活は苦しかったはずなのに、母は私に何ひとつ我慢をさせなかった。
塾にも通わせてくれた。
旅行にも連れて行ってくれた。
父がいた頃と変わらない毎日を守ろうとしてくれた。
でも、ある頃から気づいた。
母が、自分の服を買わなくなったことに。
何年も着ている薄くなったカーディガン。
擦り切れた袖口。
何度も洗われて柔らかくなったブラウス。
その代わり、季節が変わるたび私には新しい服を買ってくれる。
嬉しそうに服を胸に当てて、目を細めて言う。
「女の子なんだから、おしゃれしないとね」
そして、少し照れくさそうに笑う。
「まりちゃんは可愛いから、なんでも似合うね」
くすぐったくて、私はいつも
「もう、やめてよ」
なんて言ってしまう。
本当は、もっと聞きたかった。
もっと、その声を聞いていたかった。
塾の帰りが遅くなる日も、母は必ず迎えに来た。
雨の日も。
風の強い日も。
仕事で疲れているはずの日も。
駅前の街灯の下に、小さく見える母の姿。
見つけた瞬間、胸の奥がほっとあたたかくなる。
「自分で帰るよ」と言っても、母は首を横に振る。
「女の子なんだから危ないよ」
当たり前みたいに言う、その一言の中に、どれほどの愛があったのだろう。
母は、嘘が嫌いだった。
小さな嘘でも、きちんと叱った。
「嘘は、自分の心も苦しくなるからだめだよ」
そう言って、真っ直ぐ私の目を見る。
けれど母は、人を疑うことを知らない人でもあった。
すぐ人を信じて、
すぐ人の事情を考えて、
裏切られても、人を責めなかった。
「もっと疑った方がいいよ」と私が言うと、母は静かに笑った。
「裏切ろうと思って裏切る人ばかりじゃないのよ」
「なにか事情があったのかもしれない」
そして、やさしく言う。
「騙すより、騙される人でいいの」
「まりちゃんには、辛いと思うことはしてほしくないから」
その言葉を、私は今も胸の奥で抱いて生きている。
大学に入り、私は初めてアルバイトをした。
働いて初めて知る、お金の重み。
立ち仕事で足が痛くなること。
理不尽な言葉に傷つくこと。
疲れた身体で、それでも笑うことの難しさ。
こんな毎日を母は何年も続けていたのだと知って、胸が苦しくなった。
だから毎月、ほんの少しでも家にお金を入れた。
一万円。
多い月は二万円。
封筒に入れて渡すと、母は困ったように笑う。
「ありがとう。でも、気にしなくていいんだよ」
「気にするよ」と私が返すと、嬉しそうに目を細める。
「まりちゃんは、本当にやさしい子だね」
違う。
やさしいのは、ずっと母の方だった。
私には夢があった。
海外で英語を学び、通訳になること。
母は、その夢を誰より喜んでくれた。
「まりちゃんなら大丈夫」
「夢は叶えるためにあるんだよ」
やがて私は、特待生の試験に合格した。
本当はすぐ伝えたかった。
でも言えなかった。
母を、ひとりにしたくなかったから。
けれど母は気づいていた。
湯気の立つお茶を飲みながら、ふいに言った。
「まりちゃん、行きたいんでしょう?」
「遠慮しなくていいの。夢を追いかけなさい」
「ママは大丈夫」
その「大丈夫」を、私は信じた。
信じてしまった。
空港へ向かう朝。
改札の向こうで、母は何度も手を振っていた。
少し痩せた気がした。
顔色も、少し白かった気がする。
でも、笑っていた。
「いってらっしゃい、まりちゃん!」
「たくさん見て、たくさん学んで、たくさん幸せになってきて!」
涙で滲む景色の向こうで、母の笑顔だけが、やけにはっきり見えた。
あれが——最後だった。
海外にいても、私は毎日のように母に連絡した。
嬉しいことがあるたび、最初に伝えたい相手は母だった。
母は、いつだって楽しそうに聞いてくれた。
最後に話した日。
母の声は、少しかすれていた。
「風邪?」と聞くと、
「ちょっと疲れてるだけ。大丈夫」
そう笑った。
そして明るい声を作るように言った。
「明日から友達と旅行に行くから、しばらく連絡できないかも」
私は、よかったね、と笑った。
すると母は、静かに言った。
「まりちゃん」
「大好きだよ」
突然で、照れくさくて、私は笑って流してしまった。
あのとき、どうしてすぐに
私も大好きだよ
そう言えなかったんだろう。
数日後、一本の電話。
「すぐ帰ってきて」
急いで帰った。
でも、間に合わなかった。
母は癌だった。
気づいた時には、もう手遅れだったという。
延命治療も断り、私には知らせないでほしいと頼んでいた。
「まりちゃんの夢を止めたくないから」
最後まで——
まりちゃんの母でいたい
そう願って。
母を見送ったあと、部屋を片づけていると、一通の封筒が見つかった。
——まりちゃんへ
中には手紙が入っていた。
まりちゃん。
生まれてきてくれてありがとう。
あなたがいたから、私は母親になれたのよ。
あなたがいたから、生きてこられた。
大好きだよ。
泣かないで。
いつでもそばにいるから。
愛してる。
自分を大切にしてね。
夢を叶えてね。
いつでも応援しています。
母より
引き出しの奥には、私が渡したアルバイト代の封筒。
一度も使われず、そのまま残っていた。
押し入れの奥には、小さな段ボール。
蓋の上に、母の字で書かれていた。
——私の宝物
中には、
幼い頃に描いた絵。
折り紙で作った花。
「ままだいすき」と書いた紙。
小さな思い出が、全部、大切にしまってあった。
その箱を抱きしめた瞬間、堪えていたものが全部あふれた。
声をあげて泣いた。
何度も、何度も。
会いたいよ、お母さん。
抱きしめてほしい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
「大丈夫」
って笑ってほしい。
それでも——
母に守られていた小さな私は、
母にもらったたくさんの優しさを胸に、
今度は自分を大切に抱きしめながら生きていく。
泣きながらでもいい。
迷いながらでもいい。
立ち止まりながらでもいい。
母が教えてくれたように、
人を信じ、
人を想い、
笑って生きていきたい。
空を見上げて、そっと胸に手を当てる。
そこには今も、変わらず母がいる。
ぬくもりも、声も、愛された記憶も、
全部、ここに生きている。
だからきっと大丈夫。
いつか胸を張って言いたい。
「お母さん、私、ちゃんと幸せになったよ」
その日まで——
あなたがついた、
最初で最後の、優しい嘘を胸に。




