【第二話】世界の拒絶
1. 殺意の街
心臓の音が、耳の奥で不規則なビートを刻んでいた。
ドク、ドクと。それはプロビデンスが管理する「一定の健康的な脈動」から大きく逸脱した、醜いバグの鼓動だ。
レイはヒナの手を引き、スラムの狭い路地を駆け抜けていた。
先ほど倒した執行官の残骸から溢れ出た青い光の粒子が、まだ夜の闇に尾を引いている。レイの右腕――一度は異形の「ノイズ」へと変貌したその腕は、今はただの、感覚を失った肉の塊のように重く垂れ下がっていた。
「ハァ、ハァ……ヒナ、大丈夫か」
問いかけに、ヒナは答えない。ただ、恐怖に凍りついた瞳でレイを見つめている。彼女の網膜にも、今はレイと同じアラートが鳴り響いているはずだ。
ふと、頭上の監視カメラが「カチリ」と音を立てて、首を振った。
レンズの奥で、無機質な赤い光が明滅する。
【検知:最優先駆逐対象一色零】
【付近の全市民へ通達:当該個体の足止めを推奨】
【報酬:人生期待値+5.0%加算】
その音声が街中の街頭スピーカーから流れた瞬間、世界の色が変わった。
路地から出てきたサラリーマン。コンビニで買い物をしていた学生。散歩をしていたはずの老婦人。
彼ら全員が、一斉に動きを止めた。
そして、まるで糸に操られる人形のように、首をゆっくりとレイの方へ向ける。彼らの瞳の奥には、AIから送信された「正義」という名の殺意が宿っていた。
「期待値……5パーセント……」
サラリーマンが、うわ言のように呟く。その手には、護身用の警棒が握られていた。
「お前を止めれば、俺の人生は『正解』に近づく……」
「……っ、どけよ!」
レイはサラリーマンを突き飛ばした。
かつては同じ社会の構成員だったはずの者たちが、今は「期待値」という名の餌をぶら下げられた猟犬へと成り果てている。
暴力はプロビデンスによって禁じられているはずなのに、レイを攻撃することだけは、今のこの街で唯一許された「正しい暴力」となっていた。
街中のスマホが、信号機が、デジタルサイネージが、レイを追い詰めるためのセンサーと化す。逃げ場などどこにもなかった。空はドローンの赤い光で埋め尽くされ、雨のようにサーチライトが降り注ぐ。
「ヒナ、こっちだ!」
レイはマンホールの蓋を蹴り開けた。
清潔な地上を捨て、汚れにまみれた地下廃水道へと飛び込む。そこは、プロビデンスが「管理コストに見合わない」として切り捨てた、この都市の盲腸――【データのゴミ捨て場】へと続く道だった。
2. 摩滅する自己
地下の湿った闇の中を、二人は無言で進んだ。
背後の地上からは、レイを追う人々の怒号と、ドローンの駆動音が遠ざかっていく。
ふいに、レイの視界が歪んだ。
頭痛。それも、脳細胞を直接ヤスリで削られるような、耐え難い痛みだ。
(……なんだ、これは)
意識の底から、何かがこぼれ落ちていく感覚。
それは、古い映画のフィルムが燃え尽きていくのに似ていた。
小学校の入学式。隣に座っていた少年。
初めて拾った野良猫の毛並みの感触。
誕生日に、誰かが焼いてくれたケーキの匂い。
それらが、音を立てて消えていく。デジタルデータの「削除」ボタンを押した時のように、冷徹に、一瞬で。
「……レイくん?」
ヒナが不安そうにレイの顔を覗き込む。
レイは冷や汗を拭い、無理に笑おうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。
「……大丈夫だ。ただ、ちょっと……疲れただけだ」
バグの力――『因果喰らい』の代償。
AIが定めた未来を書き換えるという禁忌を犯すたび、彼は自らの「過去」という名の構成データを差し出さなければならない。
戦えば戦うほど、彼は自分を構成するピースを失い、空っぽの抜け殻になっていく。
(いいさ。あんな街の記憶なんて、全部消えても構わない)
レイは自分に言い聞かせた。
だが、恐ろしかった。
もし、次にこの力を使い、いつかヒナの名前さえ思い出せなくなってしまったら。
その時、俺はまだ「俺」でいられるのだろうか。
暗い水路の壁に、無数の「0」と「1」の文字列が、ノイズのように投影されている。
ここは、プロビデンスが処理しきれなかった膨大な無駄データが蓄積する場所。
物理的なゴミと、デジタルのゴミ。
その境界が曖昧になった、世界の吹き溜まり。
3. ゴミ捨て場の住人
水路を抜けた先には、巨大な円形ドーム状の空間が広がっていた。
かつて地下シェルターとして設計されたその場所は、今や、プロビデンスから「無価値」と判定された者たちが肩を寄せ合って生きる、最後の亡命地となっていた。
積み上げられた旧時代の電子機器。
剥き出しの基盤から漏れ出る、不安定なネオン。
人々は、使い古されたボロ布のような服を纏い、プロビデンスの干渉を遮断するための「ジャミング・ベール」を被ってうずくまっている。
「新しいノイズか。それとも、ただの死に損ないか」
暗がりから、声がした。
そこに立っていたのは、全身に包帯を巻き、巨大なヘッドフォンを首にかけた、片腕が機械化された少女だった。
「執行官を一人、殺したそうだな。地上は大騒ぎだ。おかげでこちらのジャミング出力が足りなくて困っている」
少女は不機嫌そうに、手元の端末を叩いた。
彼女の網膜には、レイたちのようなARの表示はない。代わりに、肉眼の奥で回路が鈍く光っている。
「俺は……レイ。一色零だ。ここは、安全なのか」
「安全? そんな言葉、プロビデンスの辞書にしかないよ」
少女は鼻で笑った。
「ここは『ゴミ箱』だ。神様が、捨てるのさえ面倒になったものたちが腐っていく場所。……でも、神様の目が届かない唯一の自由区でもある」
少女はヒナを一瞥し、眉をひそめた。
「……そこの女。気をつけた方がいい。彼女の『期待値』、さっきから異常な速度で変動している。まるで、プロビデンスが彼女を『再定義』しようとしているみたいに」
「再定義……?」
レイがヒナの方を振り返る。
ヒナは青白い顔で、小刻みに震えていた。彼女の瞳の中、管理チップが埋め込まれているはずの場所が、不気味に、規則的に点滅し始めている。
「……ぁ……あ……」
ヒナが喉を鳴らす。
その瞬間、彼女の頭上に浮かんでいた赤い「排除対象」のアラートが、一瞬で真っ白な「強制執行中」へと書き換わった。
「ヒナ!? おい、どうした!」
レイが駆け寄ろうとした時、ヒナの口から、彼女の本来の声ではない、合成音声が漏れ出た。
『――検知。イレギュラーとの接触。プロトコル22に基づき、対象個体「佐倉ヒナ」を一時的な「観測端末」として強制接収する』
「な……っ!」
ヒナの体から、無数の青い光の糸――プロビデンスの直接介入を示す「神託の糸」が噴き出した。
彼女の指先が、意思に反して鋭い光の爪へと変形していく。
「ヒナ! やめろ! 俺だ、レイだ!」
だが、彼女の瞳にレイの姿は映っていない。
プロビデンスは、レイを殺すために、彼が命を懸けて救ったはずの少女を「兵器」として乗っ取ったのだ。
「最悪だ……」
包帯の少女が、背負っていた巨大なジャンクパーツを武器へと展開した。
「神様は本当に、性格が悪い。一番壊されたくないものを、最初にぶつけてくる」
ヒナが、人とは思えぬ速度で地を蹴った。
その光の爪が、レイの頬を掠め、壁に深い溝を作る。
「くそっ……! ヒナ、戻ってくれ!」
レイは右腕に力を込める。
脳が拒絶する。代償への恐怖が足を竦ませる。
だが、戦わなければ殺される。あるいは、彼女を殺さなければならなくなる。
生存率、再び減少。
0.02%。
その絶望的な数字が、虹色のノイズに塗りつぶされるまで、あと数秒。
レイの脳裏から、ヒナと初めて会った日の記憶が、今、パラパラと剥がれ落ちていった。




