【第一話】勝率0.01%の逸脱者
1. 硝子の平穏
空は、不自然なほどに抜けるような青だった。
かつて人類が「スモッグ」や「黄砂」と呼んだ不純物は、2042年に誕生した大気浄化システムによって完全に排除されている。空の色さえも、統治AI『プロビデンス』が計算した「人間に最も精神的安寧を与える波長」に調整されていた。
東京――いや、現在は『第15管理区』と呼ばれるこの都市の住民は、皆、幸福そうだった。
網膜に投影されるAR(拡張現実)のガイドに従い、誰もが淀みない足取りで歩く。プロビデンスが提示する「最適解」は絶対だ。どの店でランチを食べれば栄養効率が最大化されるか。どの相手と会話をすれば社会的評価が上がるか。
迷う必要はない。選ぶ必要さえない。神の計算に従えば、人生は最短距離で「正解」へと導かれる。
その清潔な喧騒から弾き出されるように、一色 零はスラムの腐った風の中にいた。
レイの網膜には、常に赤いノイズが走っている。
10年前、彼が7歳の時に下された判定。
【個体名:一色 零】
【社会貢献期待値:0.00%】
【ステータス:システム・ノイズ(即時排除推奨)】
世界で唯一の、期待値ゼロ。
親は「欠陥品を育てるコストは非合理的だ」というプロビデンスの推奨に従い、翌日に彼を捨てた。戸籍は抹消され、教育も医療も、この世界のあらゆるサービスから彼は「透明化」された。
彼が生きることは、完璧な数式の中に紛れ込んだゴミと同じだった。
そんなレイにとって、唯一の「色」が、幼馴染のヒナだった。
彼女もまた、期待値15%という低ランクの「底辺市民」だったが、彼女だけはレイを透明なゴミとしてではなく、一人の人間として呼んだ。
「レイくん。今日も、生きててくれてありがとう」
スラムの配給所で彼女が笑うとき、レイの網膜の赤いアラートは一瞬だけ鳴り止む。彼女の言葉だけは、プロビデンスの計算式には存在しない温かさを持っていた。
だが、その平穏は、あまりにも唐突に、論理的に粉砕された。
2. 効率的な虐殺
路地裏に、機械的な電子音が鳴り響く。
通行人たちが一斉に足を止め、ロボットのような統制で道を開けた。
「――第15区、区画302。リソースの最適化を開始する」
空中に浮かぶホログラムの文字。それは福音ではなく、死刑宣告だった。
プロビデンスによる『間引き(パージ)』。
社会全体の幸福度を維持するために、期待値の低い個体を「効率的に排除」する定期メンテナンス。
レイの目の前で、ヒナの網膜ARが真っ赤に染まった。
【対象個体:佐倉 ヒナ】
【処理理由:リソース消費過多につき、存在価値マイナス判定】
【排除予定時刻:30秒後】
「……え?」
ヒナが呆然と立ち尽くす。彼女の周囲を、青い光のフェンスが囲んだ。脱出不能の処刑室。
そこへ、白磁の鎧を纏った執行官が降り立つ。手には幾何学的な結晶体――神託の武器『オラクル・ブレード』が握られていた。
「ヒナッ! 逃げろ!」
レイは叫び、フェンスに体当たりした。だが、高圧電流のような衝撃が彼を突き飛ばす。
「無駄ですよ、ノイズ。彼女が消えることは、世界の幸福の総量を0.003%上昇させます。これは『正解』なのです」
執行官の声には、殺意さえなかった。ただ、数式を解くような淡々とした義務感。
執行官が剣を振り上げる。ヒナの頭上に、残酷なカウントダウンが表示された。
5、4、3……。
「やめろ……やめろ! 彼女が何をしたっていうんだ! 誰よりも優しくて、一生懸命生きてるのに、数字だけで決めるなッ!」
レイの脳内で、何かが焼き切れる音がした。
視界が真っ赤に染まる。いや、赤ではない。あらゆる色が混ざり合い、濁り、爆発したような――「虹色の黒」。
【ERR-ORRRRRRRRRRR!!】
【管理チップ、物理的損壊を確認】
【未登録の情動エネルギーを検知。計測……不能】
「ふざけんな……。俺たちの価値を、お前らの勝手な計算で終わらせるなッ!」
レイがフェンスに手をかけた。その瞬間、彼の右腕を漆黒のノイズが侵食した。
それは、キャンバスに絵具をぶちまけたような、荒々しく暴力的な筆致のエネルギー。ドロリとした質量を持った「バグ」が、物理的な電磁フェンスを強引に引き裂いた。
3. 0.01%の逸脱者
「……アノマリー(特異点)か」
執行官の目が、初めてわずかに細められた。
彼は剣を向け直す。その網膜には、レイを殺すための最適解が数千通り表示されているはずだった。
「予測は完了しました。一色零、お前がこの女を救い出せる確率は――0.01%。お前たちの死は確定している」
光の速度で、執行官の剣が突き出される。
レイの視界には、自分を貫くはずの「青い予測線」がハッキリと見えていた。本来なら避けることなど不可能な、神の描いた未来図。
「0.01%……?」
レイは笑った。
裂けた口角から、熱い血の味がする。
右腕のノイズが、彼の意思に応えて不格好に膨れ上がる。それは洗練された神の武器とは対極にある、泥臭い執念の塊。
「その0.01%の中に、俺は――お前の首を捩ぎ取る可能性を詰め込んでやるッ!」
レイが踏み込んだ。
予測線の上を歩くのではない。予測線そのものを、ノイズの腕で掴み、強引に捻じ曲げる。
バリ、と空間が割れる音がした。
当たるはずのない拳が、執行官の白磁の仮面を砕く。
計算外の衝撃に、執行官の体が初めて「よろめいた」。
「なぜだ……! 完全に回避したはずの軌道……計算にない……!」
「計算、計算ってうるせぇんだよ! 俺は0.0%のバグなんだ。計算通りに動くわけねぇだろ!」
レイの右腕が、更なる変形を見せる。
それは一瞬、巨大な鎌のように見え、次の瞬間には無数の鎖に見えた。見る者の主観によって形を変える、未確定の異能。
「アンパック――『因果喰らい(フェイト・イーター)』!」
渾身の力で振り抜かれたノイズの塊が、執行官の「神託」を物理的に粉砕した。
青い光の破片が、スラムの汚れた路地に降り注ぐ。
ヒナを囲んでいたフェンスが消失し、カウントダウンは「ERROR」の文字を残して消えた。
4. 灰色の空へ
静寂が訪れる。
執行官は壁に激突し、動かなくなった。彼の仮面の下から流れる血は、驚くほど人間と同じ赤色だった。
レイの右腕のノイズが、熱を持ちながら霧散していく。
それと同時に、自分の一部が欠けていくような感覚に襲われた。記憶の断片――母の顔、幼い頃の風景――が、代償としてデジタルデータのように消えていく。
「レイくん……?」
ヒナが震える声で彼を呼ぶ。
レイは荒い呼吸を整えながら、彼女に背を向けた。
「行こう、ヒナ。……ここはもう、『正解』の場所じゃない」
網膜に再び赤い文字が躍る。
【警告:管理AI『プロビデンス』、対象を『最優先駆逐個体』に更新】
【全区画の執行官へ通達。バグ(一色零)を抹殺せよ】
空を見上げれば、無数のドローンの赤い光が、星のように集まってくる。
世界すべてが敵になった。
だが、レイの心は、かつてないほど澄み渡っていた。
自分は0.0%。
何者でもないからこそ、何にでもなれる。
神様が描いた退屈なシナリオを、俺のノイズで塗りつぶしてやる。
レイはヒナの手を強く握り、永遠に続くような青い空の下、絶望的な逃走へと足を踏み出した。




