はちみつ
「私ね、明日死んでしまうの」
目の前の彼女は、明日の天気について話しているような穏やかな顔で、そう告げた。
暖炉の中で薪がはぜる音が、うんざりするほどうるさい。
ゆらめく紅茶から目をはなし、彼女は、はちみつの瞳を溶かし甘く微笑む。
「ふふ、ひどい顔」
誰のせいで、とか、おもいついた言葉は音になる前に消えてしまって、カラカラの喉から無意識に出た意味を持たない音だけが彼女の耳に届いたみたいだった。
すっかり冷えて、薄味の小麦粉の塊になってしまったスコーンをそのまま口にほうりこみ、紅茶でながしこんだあと、ティーポットからお茶をそそいだ彼女はなにか物語を諳んじているかのように話はじめる。
「私のからだはね、お菓子でできているの。ふふ、嘘だとおもっている顔ね、明日の朝、私がつめたくなっていたら確かめて。ええ、もちろん、あなたならいいわ」
瞳はちみつ飴、マシュマロの頬に、ミルクチョコレートの髪、そう言葉を紡ぐくちびるはローズゼリーにそっくりで、目の前で楽しそうに話す彼女は、ほんとうにお菓子でできているのかもしれない。
ティーポットにお湯をつぎたして、つぎたして、アールグレイ風味のぬるま湯が出てくるようになった頃、彼女は満足したのか、しゃべり疲れたのか、くちびるの動きをピタリととめて、まつげの影に隠した瞳を手元のティーカップにうつす。
「指は、そうね」
しなやかな指でハンドルをつまみ、優雅にティーカップに口をつけた。
「やっぱり、指は秘密。ひとつくらい、わからないほうが面白いでしょう」
気になるのなら明日、味見してみてね。そう言葉を続けると、おわりなんてこないふうに、明日も、その次の日も、テーブルの向かいに座っている、それは変わらないというふうに「夜ふかしは体に悪いから、はやく寝ましょう。今日は冷えているから、眠るまでに少し時間がかかりそうね」なんて言いながら手際よくテーブルの上を片付けていた。
あした死んでしまうというのは冗談で、そうだ、あまりにも突然で、はじめてペンを握った子供が書いた戯曲のようで、明日はいたずらが成功して満足そうな顔をした彼女が起こしに来てくれるのだ、と思わずにはいられない。
寒夜のベッドの冷たさは醒めた脳に、横にいる彼女のあたたかさと鼓動、息づかいを鮮明に届ける。
彼女の言葉が、さっきまでのすべてが、悪い夢だったのだと錯覚するには、私には充分すぎるほどだった。
目線に気がついたのか、焦点のあっていないはちみつ色の瞳が弧を描く。私に向かってのばされた手が顔にかかっていた髪の毛をやさしくすくって耳にかける、肌にふれた指先はやわらかく、あたたかかい。
「おやすみなさい、心配性のかわいい人」
私を包む声、おもいまぶたをそのままに、ベッドに沈みゆく意識を手放した。
まぶたを透かして届く光に起こされて、毛先に金でもぶら下がっているのかと思うほどのまつ毛をもちあげるとベッドに沈んだ意識はゆっくりと浮かんできたようで、すりガラスの視界のピントがあっていく。
となりで横たわる、まだ夢の中にいるであろう彼女を起こそうと肩に手をおいた、ひやり、とした感覚。それだけで、彼女は死んでしまったのだと、認めてしまった。今、私のとなりに横たわっている、魂が溶け出た彼女は、メレンゲドールのようになってしまったのだと。昨日のことは、悪い夢でも、彼女のいたずらでも、子供が書いた戯曲でもなく、現実のことなのだと。
ゆめまぼろしではなかっただとか、悲しみだとか、これからどうしようだとか、そんなものよりも、なによりも、横たわる彼女はただ、きれいで。
はちみつ飴はマジパンの奥に、朝の光に照らし出されたミルクチョコレートは今にもとけてしまいそうだった。そんなことを思っていると、毛布の端からのぞく彼女の指が視界に飛び込んでくる、ブランマンジェを彷彿とさせるその指は、もうティーカップのハンドルをつまむことはない。
指は、秘密。気になるのなら、明日味見してみてね。
昨晩、彼女からこぼれた言葉を反芻する。何度も、何度も。
彼女の左手をすくう、私の温度が彼女の左手にうつっていく、なんだか悪いことをしているような気がしてまぶたの裏に逃げ込んだ。私のくちびるに触れた彼女の指は、21グラムぶん軽くなった温度で、まだ少しだけやわらかく、甘いにおいが鼻の奥をかすめる。
薬指からくちびるをはなし彼女の左手を飴細工のように毛布の上におろしたあと、乾燥している私のくちびるをなぞった舌から、ほんのりはちみつの甘さがひろがった。
ああ、ほんとうに。
「ねえ、あなたのからだ。お菓子でできていたのね。すこし味見をしたことは、ビンにつめて、リボンをかけて、ふたりだけのひみつにしましょう。それにわたし、きっとはちみつの香りがするたびにあなたの姿をおもいだす。はちみつの味がするたびにテーブルの向かい側にあなたをさがすでしょうね。これから、ずっと。ああ、さようなら、おやすみなさい、さようなら、私のハニー」




