第73話 疑いが形になる日
フェルトハイムの朝は、重かった。
空は晴れている。市場も開いている。だが町の空気は明らかに変わっていた。囁きが止まらず、視線は逸らされない。それはもう違和感ではなく、明確な距離だった。
◇ ◇ ◇
金獅子亭の中も同じだった。
客はいるが会話は少なく、どこか落ち着かない空気が漂っている。レオが姿を見せると、数人の客がこちらを見る。今度は逸らさない。そのまま、じっと見てくる。
レオは何も言わず、いつも通り席に着いた。
ミレイがそっと近づく。
「……広がっています」
「ああ」
短い返事。それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「大変だ!」
飛び込んできた若者が息を切らしながら叫ぶ。
「北の交易倉庫が荒らされた! 食料がやられてる!」
店内の空気が一瞬で張り詰める。
レオはすぐ立ち上がった。
◇ ◇ ◇
現場の倉庫は、明らかに荒らされていた。
扉は壊され、袋は裂かれ、穀物は床に散らばっている。意図的な破壊行為であることは、誰の目にも明らかだった。
そして壁には、赤い塗料で一文が書かれていた。
『王国のせいだ』
その言葉が、空気を変えた。
ざわめきが、低い怒りへと変わっていく。
「……やっぱりか」
「最初からおかしかったんだ」
「三国の連中が来てからだ」
そして——
「全部、あいつのせいだろ」
視線が、一斉にレオへ向く。
ガレスが一歩前に出るが、レオは手で制した。
ゆっくりと前に出て、壁の文字を見つめる。数秒の沈黙のあと、人々の方へ向き直った。
「違います」
はっきりと告げる。
だが今度は、空気は動かなかった。
誰もすぐには納得しない。
「証拠は?」
その一言が突き刺さる。
レオは答えられなかった。犯人の見当はついている。だが、それを証明する術がない。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、人々の中で“確信”へと変わっていく。
レオは理解した。ここが分岐点だと。
「……守ります」
静かに言う。
だがその言葉は、もう以前のようには届かない。
◇ ◇ ◇
夕方、金獅子亭。
店内は静かだった。客は減り、残っている者も口数が少ない。空気には、はっきりとした距離が生まれている。
レオはカウンターに座り、窓の外を見ていた。
ミレイが隣に立つ。
「……厳しいですね」
「ああ」
それ以上の言葉は出なかった。
そのとき、ルナがそっと近づいてくる。
「ぱぱ……」
レオはしゃがみ込む。
「どうした?」
「みんな、こわい」
その一言が、胸に深く刺さる。
レオはルナを抱きしめた。
「大丈夫」
そう言ったが、その言葉は自分自身にも向けたものだった。
◇ ◇ ◇
フェルトハイムの外れ。
黒い外套の男は、町の様子を遠くから眺めていた。
「成功です。町の空気は完全に変わりました」
報告を受け、男は満足そうに頷く。
「いい。疑いは確信に変わった」
そして静かに笑った。
「均衡は、終わりだ」
◇ ◇ ◇
夜。
金獅子亭の外に立ち、レオは町の灯りを見ていた。
その光は変わらずそこにあるはずなのに、どこか遠く感じる。
信頼は崩れた。
だが——。
「……まだ終わってない」
小さく呟く。
次は、取り戻す番だ。
フェルトハイムの均衡は崩れた。そして物語は、次の段階へと進んでいく。




