第72話 壊された日常
昼過ぎのフェルトハイムは、一見いつも通りの賑わいを取り戻していた。
市場には人が戻り、商人たちの声が飛び交う。昨日の襲撃など、なかったかのような空気だ。
だがそれは、あくまで表面だけだった。町のあちこちに、張り詰めたような違和感が残っている。
◇ ◇ ◇
金獅子亭の前。
ミレイはルナの手を引き、ソラを抱いて外に出ていた。
「少しだけよ」
そう言って通りを歩くと、ルナは少し緊張した様子で頷く。
「うん……」
昨日の出来事が、まだ心に残っている。それでも外に出ることは、必要だった。
パン屋の前に差し掛かると、ルナの表情が少し明るくなる。
「まま、パンのにおい!」
「ふふ、いい匂いね」
ほんの一瞬、いつもの日常が戻ったように感じられた。
——だが。
「……あ」
店主の声が上がる。
棚に並んでいたパンが、床に崩れ落ちていた。焼きたてのパンが無造作に転がっている。
「なんだこれ……?」
明らかにおかしい。自然に崩れた形ではない。
周囲でざわめきが広がる。
「またか……」
「果物屋でも同じことが起きたぞ」
ミレイの背筋が冷える。
ルナが不安そうに服を掴む。
「まま……」
そのとき、後ろから声がした。
「最近、変だよな」
別の声が続く。
「やっぱり、あいつが来てからだ」
空気が変わる。
視線が、ミレイたちに向けられていた。
ルナが小さく震える。
ミレイはすぐに抱き寄せた。
「大丈夫」
そう言いながらも、自分の声が少し硬いことに気づいていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、議事館。
レオは報告を受けていた。
「町の複数箇所で、小規模な破壊行為が発生しています」
エドワードが地図を指し示す。
「被害は軽微ですが、同時多発的です」
レオはすぐに理解した。
「……狙いは混乱か」
セルゲイが頷く。
「軍ではない。心理戦だ」
アシュレイも静かに言う。
「日常を壊し、恐怖を植え付ける。見事なやり方だ」
レオの拳が、静かに握られる。
家族の顔が浮かぶ。
「止めます」
短い言葉だったが、その決意は揺るがなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、金獅子亭。
ミレイはルナを抱きしめていた。ルナはまだ少し震えている。
「まま……」
「大丈夫よ」
そう言いながら、ミレイ自身も理解していた。
何かが、確実に壊れ始めている。
そこへレオが戻る。
その顔を見た瞬間、ミレイは状況を察した。
「……広がってますね」
レオは静かに頷く。
「次は、もっと来る」
その言葉は予測ではなく、確信だった。
フェルトハイムの夜は静かだった。
だがその静けさの中で、日常は少しずつ侵食されている。
そしてその侵食は、確実に——人の心へと届き始めていた。




