第70話 揺らぐ均衡の中で
広場での対話から、三日が経った。
フェルトハイムは一見、落ち着きを取り戻していた。市場には人が戻り、子どもたちの笑い声も聞こえる。
だが、それはあくまで表面だけだ。見えないところで何かが軋んでいる。そんな感覚が、町全体に漂っていた。
◇ ◇ ◇
金獅子亭の一角で、レオは書類を広げていた。
三国の使者からの報告、警備配置、出入りの記録。そのすべてに目を通しながら、ふと呟く。
「……多いな」
「何がですか?」
隣に座ったミレイが問いかける。
「人の流れが、ここ数日で不自然に増えている。観光じゃない。目的を持った動きだ」
ミレイの手が、わずかに強くなる。
「……来るんですか」
レオはすぐには答えなかった。だが、やがて静かに言う。
「来る」
◇ ◇ ◇
「ぱぱー!」
その空気を破るように、ルナの声が響く。
レオはすぐに表情を緩めた。
「どうした?」
「おそといきたい!」
ミレイは一瞬ためらうが、レオは穏やかに笑う。
「いいよ。大丈夫、守るから」
その一言に、ミレイは何も言えなくなる。
◇ ◇ ◇
町の通り。
ルナは楽しそうに歩き、花を指差してはしゃいでいる。
「ぱぱ、みて!」
「きれいだね」
レオは笑いながらも、視線は常に周囲を見ていた。人の流れ、距離、動き——そのすべてを。
そして、すれ違う男と目が合う。
一瞬だけの違和感。
(……いる)
確信した、そのときだった。
◇ ◇ ◇
「ぱぱ! だっこ!」
ルナを抱き上げた瞬間——風を切る音が走る。
反射的に体をひねる。
短剣が、地面に突き刺さった。
「——下がれ!」
叫びと同時に、空気が崩壊する。
黒い影が複数、動いた。
◇ ◇ ◇
レオはルナを抱えたまま後退する。兵が動くが、敵の動きも速い。
一人が一直線に突っ込んでくる。その狙いは明確だった。
「ルナ……!」
その瞬間、レオの中で何かが切れる。
迷いが消えた。
踏み込み、腕を払う。敵の体勢を崩し、そのまま叩き落とした。
鈍い音と共に、男が地面に倒れる。
◇ ◇ ◇
周囲が凍りつく。
レオの目は、完全に戦う者のそれだった。
「二度と近づくな」
低く、冷たい声。
残りの敵が一瞬躊躇した隙に、兵が包囲する。戦闘は、あっけなく終わった。
◇ ◇ ◇
「……こわい」
ルナが震える。
レオはすぐに抱きしめた。
「大丈夫。お父さんがいる」
その声は、もう優しかった。
◇ ◇ ◇
遠くから、それを見ている影があった。
黒い外套の男は、静かに笑う。
「……いい顔だ。均衡を捨てたな」
そして、低く呟いた。
「次は——もっと壊れる」
◇ ◇ ◇
夕方。
金獅子亭に戻ると、ミレイが駆け寄ってきた。
「レオさん……! ルナ……!」
ルナを抱きしめてから、ミレイはレオを見る。
あの一瞬の目——。
それが、頭から離れない。
レオは静かに言った。
「……来た。本格的に」
沈黙が落ちる。
もう、戻れない。
均衡は揺らぎ、戦いは始まった。




