第65話 静かな波紋
フェルトハイムの朝は、ゆっくりと目を覚ました。
三国会談が続いているとは思えないほど、町は穏やかだ。
市場の準備が始まり、パン屋からは焼きたての香りが漂ってくる。
金獅子亭の一階でも、いつもの朝の支度が始まっていた。
ルナは椅子の上に立ち、テーブルを覗き込んでいる。
「ぱぱ、パンまだ?」
レオは苦笑した。
「もうすぐだよ」
ガレスが厨房から声を上げる。
「焼けてる焼けてる! 待て待て!」
ミレイはソラを抱きながら、その様子を見て微笑んだ。
こんな何気ない朝があることが、どれほどありがたいことか。
レオは、ふと窓の外を見た。
通りを歩く人々。
商人たち。
外交官の護衛。
そして——見慣れない顔。
視線を外した瞬間、その男は人混みに消えた。
レオの胸に、小さな警戒が走る。
だがルナが袖を引いた。
「ぱぱ!」
「どうした?」
「パンきた!」
ガレスが皿をどんと置く。
「はいよ!」
ルナは嬉しそうにパンを掴んだ。
ソラも、ミレイの腕の中で声を出す。
「うー」
レオは小さく息を吐いた。
守る。
この時間を。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、レオは議事館へ向かった。
三国会談はまだ続いている。
議題は、新しく提案した「交易均衡構想」。
海商ギルドに対抗するための枠組みだ。
会議室に入ると、セルゲイとアシュレイがすでに座っていた。
セルゲイが言う。
「王国の提案は大胆だ」
腕を組む。
「三国共同の交易保護」
アシュレイが続ける。
「つまり、海商ギルドの独占を崩す」
レオは頷いた。
「はい」
エドワードが補足する。
「交易路の安全を三国で保証する」
「そうすれば、彼らの私兵や傭兵は意味を失う」
セルゲイはしばらく考えた。
そして言う。
「実行すれば」
「海商ギルドは確実に動く」
アシュレイが笑う。
「つまり」
「今度は本物の敵が出てくる」
レオは静かに言った。
「そうですね」
そして続ける。
「ですが」
窓の外を見る。
フェルトハイムの町。
「守る価値はあります」
◇ ◇ ◇
一方その頃。
フェルトハイムの市場。
黒い外套の男は、果物屋の前に立っていた。
周囲を観察している。
町の動き。
兵士の巡回。
金獅子亭の位置。
部下が小さく言う。
「警備が増えています」
男は答える。
「当然だ」
視線は金獅子亭へ。
「影の王子は、慎重だ」
だが男は笑った。
「だから面白い」
部下が聞く。
「次の手は?」
男はゆっくり答えた。
「均衡は壊す」
そして続ける。
「だが——」
市場を見渡す。
子ども。
家族。
商人。
「力ではない」
男の目が細くなる。
「疑いで壊す」
◇ ◇ ◇
その夕方。
レオは議事館から戻る途中、広場を歩いていた。
市場は閉まり始め、町は夕暮れに包まれている。
そのとき。
聞き覚えのある声。
「レオ!」
ガレスだった。
「ちょっと来い」
顔が真剣だ。
レオの胸が静かに緊張する。
「どうした?」
ガレスは言った。
「妙な噂が出始めてる」
レオは眉をひそめた。
「噂?」
ガレスは低く言う。
「お前が」
「三国を操ってるって話だ」
レオの足が止まった。
◇ ◇ ◇
金獅子亭の灯りが、遠くに見える。
町の人々の声。
平和な夜。
だがその裏で——
静かな波紋が広がり始めていた。
剣でも、軍でもない。
疑い。
それこそが、均衡を壊す最も静かな武器だった。




