第35話 静かな違和感。
王都は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
石畳を打つ馬車の音。
市場の喧騒。
衛兵の整然とした足並み。
けれど——。
レオは、小さな違和感を抱いていた。
◇ ◇ ◇
「レオ殿、こちらの報告ですが」
エドワードが、書類を差し出す。
内容は、地方交易の滞り。
小規模な抗議。
一部貴族の動き。
どれも、単体なら問題はない。
だが——。
「……多いですね」
レオは、静かに言った。
「何がです?」
「小さな不満が、同時に、いくつも」
エドワードは、眉を寄せた。
「確かに」
「偶然にしては、整いすぎている」
レオは、指先で机を軽く叩いた。
「誰かが、水面下で扇動している可能性があります」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「心当たりは?」
「……まだ」
だが、レオの胸の奥は、ざわついていた。
あの感覚。
影武者時代——
裏で糸を引く者の匂い。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
レオは、少し遅れて帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ミレイの笑顔。
ルナが駆け寄る。
「ぱぱ!おそかった!」
「ごめんね」
ソラは、すやすやと眠っている。
いつも通りの光景。
それなのに。
レオは、窓の外を一瞬、見た。
視線。
……気のせいだろうか。
◇ ◇ ◇
夜。
ミレイが、ふと気づいた。
「レオさん」
「うん?」
「最近、よく外を見るようになりましたね」
レオは、少し笑った。
「職業病かな」
「本当に、それだけですか?」
静かな問い。
レオは、少しだけ、間を置いた。
「……小さな違和感がある」
「違和感?」
「まだ何もない。でも——」
レオは、ミレイの手を握った。
「用心していた方がいい」
「私たちは?」
「絶対に守る」
その声だけは、迷いがなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
王都の裏路地。
黒い外套の男が、低く笑った。
「評判が良すぎるな……レオ顧問」
隣の男が、鼻で笑う。
「民衆の英雄、か」
「面白くない」
外套の奥で、目が光る。
「家族があると、人は弱くなる」
その言葉に、空気が冷える。
「順番に、崩していこう」
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王宮の回廊。
レオは、立ち止まった。
背後に、ほんのわずかな気配。
振り返る。
誰もいない。
だが。
確実に何かが動いている。
水面の下で。
◇ ◇ ◇
その夜。
四人で眠る前。
ルナが、ぽつりと言った。
「ねえ、ぱぱ」
「うん?」
「きょう、へんなひと、みた」
レオの胸が、ひやりとする。
「どんな人?」
「おうちのまえで、ずっとたってた」
空気が、凍る。
ミレイの顔色が変わった。
「いつ?」
「ひる」
レオは、すぐに冷静さを取り戻す。
だが、内心は。
始まっている。
何かが。
静かに。
◇ ◇ ◇
「……ルナ、それはいつのこと?」
レオの声は、穏やかだった。
けれど、ミレイには分かる。
その奥に、張り詰めたものがある。
「きのう……ソラ、ねてて……ままと、まどから、おそとみてたとき」
ルナは、思い出しながら言う。
「くろいの、きてた」
黒い外套。
レオとミレイの目が、静かに合う。
◇ ◇ ◇
翌朝。
レオは、いつもより早く王宮へ向かった。
「……家の周囲の見回りを強化してほしい」
エドワードは、目を細めた。
「確証は?」
「ない」
レオは、正直に答える。
「だが、直感が警鐘を鳴らしています」
短い沈黙。
「……分かりました」
エドワードは、即座に頷いた。
「家族の安全を優先してください」
「ありがとうございます」
レオは、深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
王都の一角。
黒い外套の男が、静かに報告していた。
「見張りが増えた」
「やはり勘が鋭いな」
別の男が、低く笑う。
「だが、焦る必要はない」
「どうします?」
「傷は、目に見えない方が効果的だ」
その声は、冷たい。
「心を揺らせ。父親を迷わせろ」
◇ ◇ ◇
夜。
レオは、帰宅した。
ミレイが、すぐに近づく。
「どうでした?」
「家の周囲に、警備が入る」
「……そうですか」
安心と不安が、同時に混ざる。
ルナは、ソラの隣で眠っている。
その顔は、何も知らない。
レオは、二人を見つめた。
守る。
何があっても。
◇ ◇ ◇
数日後。
一通の手紙が、届けられた。
差出人は、ない。
封を切る。
中には、一行だけ。
——あなたは、本当に自由ですか?
レオの指先が、わずかに強張る。
ミレイが、顔色を変えた。
「脅し……でしょうか」
「いや」
レオは、静かに首を振る。
「これは、揺さぶりだ」
影武者だった過去。
“自由を奪われた男”の記憶を刺す言葉。
卑劣だ。
だが、効果はある。
レオの胸が、わずかに疼く。
◇ ◇ ◇
その夜。
レオは、目が冴えていた。
眠るルナ。
小さく呼吸するソラ。
そして、隣で眠るミレイ。
レオは、そっと手を伸ばし、ミレイの指を握る。
温かい。
現実だ。
「……僕は、自由だ」
小さく呟く。
ミレイが、薄く目を開けた。
「眠れませんか?」
「少しだけ」
「怖いですか?」
レオは、正直に答えなかった。
代わりに。
「君がいるから、怖くない」
ミレイは、そっとレオの胸に額を寄せた。
「私は、レオさんが怖くないようにいます」
その言葉が、胸の奥に染みる。
◇ ◇ ◇
翌日。
王宮の報告。
「市中で妙な噂が出回っています」
側近が言う。
「レオ顧問は、王家の弱みを握っているから重用されている、などと」
レオは、わずかに目を閉じる。
分断。
疑念。
孤立。
狙いは、政治的信用か。
それとも——。
「家族には、影響は?」
「今のところは」
“今のところ”
その言葉が、重い。
◇ ◇ ◇
夜。
レオは、庭に出た。
王都の空は、静かだ。
だが、どこかにいる。
確実に。
自分を見ている“誰か”。
その時。
背後から、小さな足音。
「ぱぱ」
振り返る。
ルナだ。
「どうした?」
「ぱぱ、また、おそらみてる」
レオは、しゃがんだ。
「ちょっとね」
「こわいひと、まだいる?」
その問いに、レオの心臓が静かに軋む。
だが、笑った。
「大丈夫だよ」
「ほんと?」
「うん」
レオは、ルナを抱き上げる。
「お父さんがいるからね」
ルナは、レオの首に腕を回す。
「ルナも、いる」
その言葉が。
レオの胸の奥に、火を灯す。
◇ ◇ ◇
屋根の上。
黒い影が、その光景を見ていた。
「……甘いな」
低い声が、夜に溶ける。
「幸せそうだ」
だが、目は冷たい。
「だから壊しがいがある」
影は、静かに消えた。
まだ、始まったばかり。
水面は穏やか。
だが、その下では——。
確実に、何かが動いている。




