第30話 「ルナの居場所」と、父の約束。
ソラが生まれてから、一ヶ月が経った。
王宮の来客用の館の一室は、赤子の泣き声と、幼い足音と、柔らかなため息で満ちていた。
「おぎゃあ……おぎゃあ……」
「ソラ、どうしたの。おなか?」
ミレイは揺り籠のそばに膝をつき、赤子の頬に指を添えた。小さな口がふるふると動く。泣き声は強くも弱くもなって、まるで言葉にならない訴えみたいに続いた。
「はいはい、今よ」
胸元を整え、抱き上げる。温かい体温が腕の中に収まった瞬間、ソラの泣き声は少しだけ落ち着いた。
――この子は、生きている。
その当たり前が、何度見ても奇跡に見えた。
一方で。
部屋の隅、日当たりのいい窓際に置いた小さな椅子に、ルナがちょこんと座っていた。手の中には絵本。ページは開いたまま、指は途中で止まっている。
「ルナ、絵本読む?」
声をかけても、ルナは小さく首を振った。
「……いい」
短い返事。
ミレイは、胸がきゅっと縮むのを感じた。
ソラが生まれる前。ルナはよく笑い、よく喋り、よく甘えてきた。膝に乗って「ままー」と頬を擦りつけ、眠る前には必ず手をつないでと言った。
でも最近、ルナは“いい子”になっていた。
泣かない。怒らない。わがままを言わない。
そして――少しだけ、遠くなった。
「……ルナ」
ミレイがもう一度名前を呼んだ時、扉が静かに開いた。
「ただいま」
レオが入ってきた。外套を脱ぎ、いつものように穏やかな笑顔を作っている。けれど、その目が真っ先に探したのはルナだった。
「ルナ、お父さん帰ったよ」
「ぱぱ……」
ルナは立ち上がりかけて、途中で止まった。目が迷う。ソラを抱くミレイにちらりと視線を向けて、それから小さく笑った。
「おかえり」
その言い方が、妙に大人びていた。
レオはすぐに近づいて、ルナの前にしゃがんだ。
「おかえり、って言ってくれてありがとう。今日、何してた?」
「……えほん、みた」
「そうか。どんな絵本?」
「……くまさん」
ルナは答えるけれど、いつもの弾む声じゃない。
レオはルナの頭を撫でた。指先が髪をすくう度に、ルナの肩が少しだけ緩む。
その時、ソラがふたたび泣き出した。
「おぎゃあっ……」
ミレイの腕の中で、赤子がぐずり始める。
ミレイは焦った。
「ごめんね、ルナ――」
言いかけた瞬間、ルナが首を振った。
「いいよ」
それが、いちばん痛かった。
許すような声。諦めの混じった声。
ミレイは、泣きたくなった。
レオは何も言わず立ち上がり、ミレイの横へ来て、そっとソラを見た。
「おむつかな」
「うん、さっき替えたけど……」
「じゃあ抱き方が嫌なのかも。貸して」
レオが腕を差し出す。ミレイは少し躊躇して、でも頷いてソラを渡した。
レオが胸に抱くと、ソラはふっと泣き声を弱めた。小さな口をもごもごさせる。
「ほら。こっちがいいのかな」
レオが揺らすと、ソラは一瞬だけ目を開けたように見えた。
その光景を、ルナがじっと見ている。
ミレイの胸は、さらに締めつけられた。
――ルナも、見ている。
“ソラが優先される世界”を、毎日見ている。
それでもルナは、泣かない。怒らない。けれど、それは優しさというより――小さな自衛なのかもしれない。
その夜。
ソラがようやく寝たのは、深夜近くだった。揺り籠の隣でミレイが息をつき、レオも椅子に腰を下ろした。
「ミレイ、大丈夫?」
「うん……大丈夫です」
そう言って笑おうとして、笑えなかった。
「……ルナのこと」
レオが、ぽつりと言った。
ミレイは頷く。
「気づいてました?」
「うん」
レオは目を伏せた。
「最近、ルナが“我慢してる”」
ミレイの喉が詰まる。
「私……分かってるのに、ソラが泣くと……どうしても」
「責めてるんじゃない」
レオは、ミレイの手を取った。
「僕も、同じだ。ソラが泣くと放っておけない。でも――」
少し間が空く。
「ルナは、泣かないから放っておかれてしまう」
それが、あまりにも的確で、ミレイは目を潤ませた。
「ルナは、いい子だから」
「うん。……だから、余計に怖い」
レオの声が低くなる。
「我慢することに慣れると、いつか“頼ること”を諦める」
ミレイは息を呑んだ。
その言葉が、レオ自身の過去に触れている気がした。
影武者だった頃。完璧でいるために、泣くことも弱音を吐くことも許されなかった人。
「レオさん……」
レオは小さく笑って、ミレイの手を握り直した。
「明日、僕――仕事を少し早く切り上げる。ルナと二人で、外に出よう」
「二人で?」
「うん。ルナだけの時間を作る」
ミレイは、目を見開いた。
「でも、ソラは……」
「ソラは、君と一緒にいられる。君も不安だろうけど、短い時間でいい」
レオは真っ直ぐに言った。
「ルナに、“君の居場所はここだ”って、ちゃんと伝えたい」
ミレイは、涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
「謝るべきじゃない。これは――父親の仕事だ」
翌日。
朝の空気はまだ冷たかったけれど、日差しだけは春に向かっていた。
「ルナ、行こっか」
レオが外套を羽織り、ルナに手を差し出す。
ルナは少し迷った顔をした。
「ままは?」
「お母さんは、ソラとお留守番。帰ったら、ちゃんとお土産話しよう」
ミレイはベッドのそばから微笑んだ。
「ルナ、行っておいで」
「……うん」
ルナは小さく頷いて、レオの手を握った。
二人が部屋を出る瞬間、ミレイは胸に手を当てた。
――私も、頑張らなきゃ。
ソラを抱き、揺り籠を覗き込む。
「ソラ、お母さん、今日はルナのことも守るからね」
赤子は眠っている。けれどその寝息に、ミレイは勇気をもらった。
◇ ◇ ◇
王都の街は、いつも華やかだ。
石畳に響く馬車の音。遠くに聞こえる音楽。香水の匂いと焼き菓子の甘い匂い。
でも、今日はそれが少しだけ優しく見えた。
「ルナ、どこ行きたい?」
レオが聞くと、ルナはぎゅっと手を握り返した。
「……おはな、みたい」
「花か。いいね」
レオは広場の方へ向かう。季節の花が並ぶ露店が出ている場所だ。
「わあ……」
ルナの目が輝いた。
色とりどりの花が並ぶ。赤、黄色、白、紫。
ルナは一つひとつに指を差し、名前を当てようとした。
「あか。きいろ。しろ……」
「うん。上手だ」
レオはルナの背丈に合わせてしゃがむ。
「ルナ、何色が好き?」
「……あお」
「青か。ルナらしいな」
「ルナ、あおがすき。そらみたい」
「そうだね」
レオは一瞬、胸が熱くなった。
ソラ――空。
息子にその名をつけたのは自分だ。けれど、今ルナは“空”を自分の好きな色の理由にしている。
つまり、ルナの世界はちゃんと繋がっている。
繋がっているのに――どこか、揺れている。
花屋の店主が微笑んで言った。
「お嬢ちゃん、どれがいい?」
ルナは少し迷って、白い小さな花を指差した。
「これ」
「白だね」
「うん。……ままがすきそう」
その言葉に、レオは深く息を吸った。
「お母さんに?」
「うん。まま、いま、たいへん。ソラ、ないてる。まま、ねむってない」
ルナは、そんなことまで見ている。
レオは、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
「ルナ」
「なあに?」
「お母さんのこと、心配してくれてありがとう。でもね」
レオはルナの両肩に手を置き、目線を合わせた。
「ルナだって、頑張ってる。ルナの気持ちも、すごく大事だ」
ルナは、少しだけ目を伏せた。
「……ルナ、いいこ?」
「うん。いい子だ。でもね、“いい子”でいなくてもいい」
ルナが顔を上げる。
レオは続けた。
「寂しいって言っていい。抱っこしてって言っていい。泣いてもいい。わがままも、言っていい」
ルナの唇が、小さく震えた。
「でも……ソラ、ちいさい。ソラ、ないてる。ルナ、おねえちゃん」
「お姉ちゃんだね。だからって、我慢しなくていい」
レオは、ゆっくり言葉を選んだ。
「お姉ちゃんは“頑張る役”じゃない。“愛される役”でもある」
ルナの目に涙が溜まった。
「ぱぱ……」
「うん」
「ルナ……さみしかった」
その一言が出た瞬間、レオはルナを抱き上げた。
「ごめん。気づくのが遅かった」
「……ううん」
ルナはレオの首にしがみついた。
「ぱぱ、いっしょ、いて」
「いるよ」
レオはルナの背中を撫でた。
「ルナの隣に、ずっといる。約束する」
ルナは小さく頷いて、涙をこすった。
「……ままにも、いう」
「うん。言おう。お母さん、きっと抱きしめてくれる」
◇ ◇ ◇
帰り道。
ルナは花束を抱えていた。小さな白い花が揺れる。
「まま、よろこぶ?」
「絶対に喜ぶ」
「ソラも、よろこぶ?」
「ソラはまだ分からないかもしれないけど……」
レオは笑って付け足した。
「ルナが嬉しそうなら、ソラも安心すると思う」
「ほんと?」
「うん。赤ちゃんは、お姉ちゃんが好きになる」
ルナは照れたように笑った。
「ルナ、おねえちゃん、がんばる」
レオは首を振る。
「頑張りすぎなくていい。ルナは、ルナのままで」
「……うん」
その返事は、昨日までより少し柔らかかった。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、ミレイがソラをあやしながら待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ルナは、花束を差し出した。
「まま、これ」
ミレイは驚いて、次にふわっと笑った。
「まあ……ルナ、ありがとう」
「まま、すき」
ルナは少し迷って、言葉を続けた。
「……ルナ、さみしかった」
ミレイの目に涙が溢れた。
「ごめんね……ルナ……」
ミレイはルナを抱きしめた。ソラを揺り籠に寝かせ、両腕でルナを包む。
「お母さん、ルナのこと、世界でいちばん大事よ。ソラと同じくらい。ううん、それ以上に、ルナは最初の宝物」
ルナは泣きながら笑った。
「……ほんと?」
「本当」
ミレイは何度も頷いた。
レオはその背後から、二人を抱きしめた。ルナとミレイを、家族の輪の中へ戻すように。
「ルナ」
レオが言う。
「お父さん、決めたことがある」
「なあに?」
「週に一回、ルナの日を作る。ルナと二人で、どこかへ行く」
ルナの目が丸くなる。
「ほんとに?」
「うん。約束」
ミレイがレオを見上げた。
「レオさん……」
「家族は、均等じゃなくていいと思う」
レオは静かに言った。
「必要なときに、必要なだけ、抱きしめる。それが家族だ」
ミレイは涙を拭って頷いた。
揺り籠の中で、ソラが小さく手を動かした。まるで今の言葉に返事をするみたいに。
ルナはその小さな動きを見て、そっと近づく。
「ソラ……」
指を伸ばして、赤子の手に触れる。
ソラはぎゅっと、ルナの指を握った。
「……!」
ルナは息を呑み、次に笑った。
「ソラ、ルナのこと、すき?」
ミレイが微笑んだ。
「うん、きっと大好きよ」
レオも笑った。
「ソラは、お姉ちゃんに守られてるって、もう分かってるのかもね」
ルナは照れたように頬を赤くして、でも誇らしそうに言った。
「ルナ、ソラのことも、すき」
ミレイの胸が熱くなった。
――ようやく、四人になれた。
ただ人数が増えたのではない。
それぞれの居場所を確かめて、抱きしめ直して。
家族は、そうやって“形”になる。
その夜、ルナはいつもより早く眠った。
小さな寝息が部屋の奥から聞こえる。
ミレイはレオの肩に寄りかかった。
「今日……救われました」
「僕もだよ」
レオはソラの寝顔を見た。
「家族って、守るだけじゃなくて――何度でも、作り直すものなんだな」
ミレイは頷いた。
「はい……」
レオはミレイの手を握る。
「これからも、迷うと思う。でも」
ミレイがレオを見る。
「そのたびに、ちゃんと向き合おう。ルナにも、ソラにも。そして――君にも」
ミレイの目に、涙が浮かんだ。
「はい……ずっと」
レオはミレイの額にキスをした。
揺り籠の中で、ソラが小さく寝返りを打つように体を動かす。
窓の外では、王都の灯りが静かに揺れている。
賑やかな世界の中心で。
小さな部屋の中にだけ、確かな温度があった。
それは、誰にも奪えない。
四人家族の――新しい日常の、始まりだった。




